(2) 開削の規模

前項で説明した流路の変化のうち、人為的な部分についてその開削の規模を検討すると、まずげん7年(1621) については以下のとおりである。

Fig.085 赤堀川付近の地形赤堀川はおよそ7kmの区間を呼ぶが、台地 (こうせきそう) の開削はおよそ1kmの部分に限られ、前後は軟弱な低湿地 (ちゅうせきそう) である。開削部の地質は基本的に関東ローム層 (風成)、最大6mの掘り下げと考えられている※1

かんえい6~7年(1629~1630) については以下のとおりである。

Fig.086 板戸井・戸田井〜羽根野・布川〜布佐付近の地形

鬼怒川新流路は全体で7kmほどだが、台地開削部は筆者の推定でいた地点の 300~400mである。小貝川・常陸川新流路も全体で11~12kmほどだが、同じく台地開削部は間で 300~400m、かわ間で 200~300mに限られる。

寛永12~18年(1635~1641) については以下のとおりである。

Fig.088 親野井・金野井付近の地形

この新川も全体で20kmほどだが、台地開削部は北部でおや地点のおよそ 2km、南部でかな地点のおよそ 3kmの延長であり、掘り下げは親野井で最大4m、金野井で最大6m、大半が関東ローム層だったとみられる※1※2

これらの開削を含む河川改修は「利根川の東遷」として知られ、特に明治期以後その目的・時期・規模について盛んに議論されてきた。しかしどの改修についても直接の史料が残っているわけではなく、実際にはわからないことのほうが多い。ただ、少なくとも規模については上記のとおりであって、徳川政権 (江戸幕府) による「大事業」のように総括することには、筆者は違和感を感じる。少なくとも何か一貫した壮大な目的があったとは考えられない。

前述のように赤堀川の流量が十分になるのは元禄年間(1688~1704) と考えられ、それまでは拡幅が繰り返された。ほかも同様のことがいえるだろう。うまくいかなかったところを見直して成功を導き出した過程こそ、あるいはスケールの大きさよりも自然地形を巧みに利用することでそれを最小限に留めた知見こそ、評価されるべきではないだろうか。

^ ※1: 『利根川百年史』(1987)。
^ ※2: ただし親野井の延長は 2kmもあるように思えない。『利根川百年史』(1987)にある地形図でも 2kmに満たない。