寛永年間(1624~1644) 下総国 葛飾郡は分割され、西半分 (二郷半領・松伏領・幸手領・島中川辺領) は武蔵国 葛飾郡となった。

正保武蔵国郷帳・国絵図に相当する『正保年中改定図』・『武蔵田園簿』にはこれらの地域は武蔵国 葛飾郡として含まれている。また幸手領の平須賀村に寛永4年(1627) と同11年(1634) の検地帳が現存しており、寛永4年は「下総国勝鹿郡幸手内平須賀村」であるのに対し、寛永11年は「武州幸手之内平須賀村」となっている。したがって検地の過程で順次、国郡は改められていったものと推定される。
鎌倉期から南北朝期にかけては葛西御厨 (南部)・下河辺庄 (北部) として経過した下総国 葛飾郡は、享徳の乱と古河公方の成立以降、はじめ関東管領・上杉氏と太田氏など関係諸勢力、のちに後北条氏が伊豆・相模・武蔵と徐々にその版図を広げると、古河公方とそれを支援する東関東の在地勢力が睨み合う構図となって、境界は流動化した。しかし武蔵・下総国界についていえば、地形的な要因もあって基本的には武蔵の領域が下総の領域を圧迫する状況にあったとみられる。
新方地域は岩付 (岩槻) の影響下におかれてその領域と一体化し、江戸初期の検地の過程で武蔵国 埼玉郡として把握された。葛飾郡だったという記憶自体が存在しない、あるいは残らなかった。葛西地域の場合、後北条氏の領域認識は豊臣政権・徳川政権に引き継がれなかったが、朱印状や江戸初期の国絵図には食い違いが合って、混乱というかたちで継承されることになった。同じようなことがのちに二郷半領・松伏領・幸手領・島中川辺領とされる一帯にも少なからずあって、検地の過程で整理されたのだろう。
江戸初期の一帯には後背湿地に起因する低湿地が多く存在していた。これが治水の進展に従って新田として開発され、広大な穀倉地帯に変貌した。政治的な意味ではこれらを武蔵国に組み入れることで幕府の足下を盤石にすることがあったかもしれない。しかし戦国期~織豊期でいう領国という意味では、伊豆と関八州がそもそも領国であってその内訳である武蔵・下総国界に意味があったかわからない。
なお国界の確定時期としては葛西地域 (西葛西領・東葛西領) も二郷半領・松伏領・幸手領・島中川辺領と変わらない。しかしその経緯と江戸初期国絵図における描写の違いから、本稿では別に扱うものとした。
船橋市西図書館蔵の『下総之国図』では、島中川辺領にあたる部分に「武蔵」とあって下総国には含められていない。

地形的にはその領域名称にあらわれているように諸河川が乱流する地域にあるほか、武蔵・下野・下総 3国の国界に存在する。ここに曖昧化の背景があるのは確かだが、いまのところこれ以上はわからない。なお「島中川辺」の読みについて『新編武蔵国風土記稿』の『浄書稿本』は「島中河邉」の表記で「シマチウカワヘ」と読ませている。しかし一般には「しまなかかわべ」と読むので、本稿もこれに従った。