ここでは、近代に変更された下総・常陸国界 (国境) とその変動したエリアについて分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、現在の茨城県 つくばみらい市の一部である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。
変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が変更前の国界 (国境)、濃紫色が変更後の国界である。『天保下総国絵図』で示せば、以下の部分である。

要因と経過
明治26年(1893) 6月20日付、明治28年(1895) 4月30日付、および明治29年(1896) 3月29日付の 3段階に分けて国界は変更された。すべて地形的な飛地に起因する行政上の不便を解消するためである。これらのうち、明治29年(1896) 3月29日付の変更は、法律第40号 (茨城県下郡廃置及郡界変更法律、官報 3月30日) によるが、これに先立つ明治26年(1893) 6月20日付、および明治28年(1895) 4月30日付については、どのような法令に基づくものだったのか不明である。
明治26年(1893) 6月20日付
明治26年(1893) 6月20日付の変更では、下総国 北相馬郡 小絹村 大字細代・大字寺畑 (近世 細代村・寺畑村) の小貝川以西である字森戸と字田新田が常陸国 筑波郡 十和村に編入された。地形図ではⒶの部分である。
『北相馬郡志』(1918/1975)によれば、「同二十六年六月廿日敕令第二百八十五號により大字細代の內字森戶、及び大字寺畑の內宇田新田を筑波郡十和村に分離合倂す」(同 = 明治) とされる。ただし、明治26年(1893) の勅令は 12月27日付の第262号が最後であり、ここでいう「敕令第二百八十五號」が実際に何を指しているのかは不明である。同じ茨城県管轄下の飛び地解消であることを考えると、県令の可能性が高いが、これ以上はわからない。
明治28年(1895) 4月30日付
明治28年(1895) 4月30日付の変更では、下総国 北相馬郡 長崎村の飛地が常陸国 筑波郡 鹿島村に編入された。地形図ではⒷの部分である。これは『鹿島村長崎村合併谷原村設置関係綴』※1によるが、やはり法令については不明である。
明治29年(1896) 3月29日付
明治29年(1896) 3月29日付の変更では、長崎村の本体が常陸国 筑波郡に編入された。これは前述のとおり、法律第43号 (茨城県下郡廃置及郡界変更法律、官報 3月30日) によるものである。長崎村は、近世 下総国 相馬郡の川崎村・鬼長村にあたる。
法律第43号は以下の条文を内容とした。
茨城県下総国 北相馬郡の一部 (長崎村)、同県 常陸国 新治郡の一部 (葛城村、大穂村、田水山村) および同県常陸国河内郡に属す区域の一部 (小野川村) を同県 常陸国 筑波郡に編入する。
茨城縣下總國北相馬郡ノ一部(長崎村)同縣常陸國新治郡ノ一部(葛城村、大穂村、田水山村)及同縣常陸國河内郡ニ屬セシ區域の一部(小野川村)ヲ同縣常陸國筑波郡ニ編入ス
注釈
変動前の国界
Ⓐ (森戸・田新田) および Ⓑ (長崎村の飛地) の位置と範囲は、大字・小字の分布や寺社の所在、相対的な関係などから特定した。ただし、Ⓐのうち森戸については、小貝川に沿った自然堤防上に所在する集落を除いて、すでに区画整理 (耕地整理) が行われている上、さかのぼるのに十分な情報も得られないことから、現在の大字の範囲を基準とした。
この付近は、治水が進んだことで寛永年間(1624~1644) にようやく開発が可能になった土地であり、それまでは長く低湿地・沼沢地として取り残されていた。変動前の国界もその過程で定まったと考えられるが、基準とされ得るような明瞭な流路跡を見いだすことはできない。ただし、ある程度は連続的な自然堤防も存在することから、不明瞭ながらも本流とみなされる流路があり、それが基準とされたのかもしれない。
なお、Ⓐのうち田新田は『茨城県史 市町村編2』(1975) では「字宇田新田」となっている※1。しかし、刊行年が古く当地を含む『北相馬郡志』(1918/1975) では「字田新田」であり、地理院地図で確認可能な現在の小字も「田新田」である。したがって、『茨城県史 市町村編2』は「字田新田」の「字」を「宇」と読み間違えた上で、さらに「字」を付加してしまったのだろう。
注釈
小貝川の蛇行とその他の飛地
現在の小貝川流路と常総・つくばみらい市境は一致しない部分が多く、その東西にはほかにも多くの飛地が現存する。これらはその大部分が河川敷 (高水敷) の範囲に収まる小規模なものであるためだろう。河川法に基く国の管理下にあるため、土地の利用やその利害関係をめぐって両市の間で問題が発生する懸念はなく、そうであれば境界をあえて整理する必要もない。
天保郷帳・国絵図の村々
近世 常陸国 筑波郡※1
- 66. 上郷村
- 67. 高須賀村※14※15
- 68. 上新田村※16※17
- 69. 下新田村※16※18
- 71. 中北村※21
- 72. 上河原崎村※19
- 73. 下河原崎村※20
- 76. 宮本村※21
- 77. 中別府村
- 78. 下別府村
- 79. 真瀬村※22
- 93. 福岡村※23
- 94. 南村※24
- 95. 台村※24
- 96. 仁左衛門新田※25
- 97. 田村
- 98. 東楢戸村※26
- 99. 西楢戸村※26
- 100. 押砂村※27
- 101. 箕輪村※28
- 102. 樛木村
- 103. 北袋村
- 104. 川又村
- 105. 宮戸村※29
- 106. 上長沼村
- 107. 下長沼村
- 108. 日川村※30
- 109. 真木村※31
- 110. 丸山村※32
- 111. 加藤村※27
- 112. 成瀬村※27
- 113. 上小目村※33
- 114. 下小目村※33
- 121. 市野深村
- 122. 古川村
- 123. 谷口村※27
- 124. 奉社村※34
- 125. 小張村
- 138. 新戸村※31
- 163. 鍋沼新田※35
- 164. 新右衛門新田※35
- 165. 老田淵村※35
例外的に、過去には規模が大きく集落も含まれる飛び地が存在した。ⓐ・ⓑの部分であり、ⓐは近世 常陸国 筑波郡の川又村の過半、ⓑは同 新右衛門新田・老田淵村ほか※36に相当する。それぞれ治水にともない、寛永2年(1625)※37、および享保7年(1722) 以後※38に飛び地となった。
ⓐ・ⓑとも、昭和30年(1955) に水海道市 (現在の常総市南過半) へ編入され、飛び地は解消された。ただし、ⓐを含む近世 川又村はもともと両岸にまたがって存在していたため、厳密にはこの編入によって対岸に新たな飛び地を生じることとなった。しかし、集落が存在する過半が水海道市側となった一方、対岸に取り残された部分はすべて水田だった。行政上の不都合を解消するという本来的な意味においては、問題にならなかったものと推測される。
現存する飛び地としては ⓒの仕出地区 (近世 常陸国 筑波郡 上郷村の一部)※39があげられる。『近代利根川治水に関する計画論的研究』(1995)によれば、飛び地の要因となった流路である「仕出捷水路」は、昭和16年(1941) の着工、同30年(1955) の通水であり、先行する事例に比べると時期が遅い。
そのまま飛び地として残った厳密な理由は不明だが、すでに近代の自治体が成熟した時期であり、さまざまな行政的配慮が施されていたためと推定される。旧流路が三日月湖として残る一方、少なくとも昭和40年(1965) の時点で流路を渡る橋梁※40の存在を確認できる。したがって対岸の自治体 (水海道市) へ分離・編入を求めるような地理的・心理的な必要性も、大きくはなかったのだろう。
注釈
国絵図における表現
下総国から常陸国へ編入された長崎村およびその周辺は、国絵図でもそのままに表現されていた。
両者を見比べると Ⓑ (長崎村飛地) の表現が異なっている。『元禄下総国絵図』では本体と接続しているが、『天保下総国絵図では分離され、「川崎村飛地」と記載されている。
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、全面改訂・再構成した。
:
- 同、新規作成。







