ここでは、近代に再び変更された下総・武蔵国界 (国境) とその変動したエリアについて分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、江戸川以西の葛飾郡である。現在の埼玉県 幸手市の西端部、幸手市の大部分、杉戸町および春日部市のそれぞれを東西に 3分割した場合の西部、松伏町の北東部、および吉川市・三郷市・東京都江戸川区の一部である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が変更前の国界 (国境)、濃紫色が変更後の国界である。『天保武蔵国絵図』・『天保下総国絵図』で示せば、以下の部分である。

要因と経過
明治18年(1885) 6月30日付の東京府達甲第46号、明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号、および明治29年(1896) 3月29日付 (官報 3月30日) の法律第40号 (東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法) による。すべて地形的な飛地に起因する行政上の不便を解消するためであり、府県境と連動して国界は変更された。
この 3つの法令を順番に見ていくと、まず、明治18年(1885) 6月30日付の東京府達甲第46号は以下の条文を内容とした。なお、Ⓐ Ⓑ Ⓒ Ⓓ などの記号は本稿で便宜上加えたものであり、以降の説明に対応する。
千葉県 東葛飾郡 欠真間村 Ⓓ飛地字滝沢の 8畝16歩を南葛飾郡 下鎌田村へ、同 2町6畝11歩を同郡当代島へ編入する。
千葉縣東葛飾郡欠眞間村飛地字瀧澤段別八畝拾六步當府南葛飾郡下鐮田村ヘ同段別貳町六畝拾壹步同郡當代島村ヘ編入ス
明治28年(1895) 3月27日付 (官報 3月30日) の法律第24号は以下の条文を内容とした。
Ⓑ東京府 南葛飾郡 篠崎村 大字伊勢屋・大字上鎌田のうち各江戸川以東は、千葉県 東葛飾郡 行徳町に編入する。
Ⓚ埼玉県 中葛飾郡 金杉村 大字金杉のうち江戸川以東は千葉県 東葛飾郡 旭村に編入する。
Ⓖ埼玉県 北葛飾郡 早稲田村 大字岩野木のうち江戸川以東は千葉縣 東葛飾郡 流山町に編入する。
Ⓕ埼玉県 北葛飾郡 八木鄕村 大字大膳・大字一本木の各江戸川以東は千葉県 東葛飾郡 馬橋村に、大字樋野口・大字徳島・大字小向の各江戸川以東は千葉県 東葛飾郡 明村に編入する。
Ⓛ千葉県 東葛飾郡 関宿町 大字向下河岸、および大字内町・大字江戸町のうち江戸川以西は埼玉県 中葛飾郡 豊岡村に、大字江戸町のうち権現堂川以北は茨城県 西葛飾郡 五霞村に編入する。
Ⓜ千葉県 東葛飾郡 梅郷村 大字今上のうち江戸川以西は埼玉県 北葛飾郡 旭村に編入する。
Ⓝ千葉県 東葛飾郡 新川村 大字深井新田・大字平方村新田・大字中野久木・大字北・大字小屋・大字上新宿新田・大字南の各江戸川以西は、埼玉県 北葛飾郡 三輪野江村に編入する。
Ⓞ千葉県 東葛飾郡 流山町 大字三輪野山のうち江戸川以西は埼玉県 北葛飾郡 三輪野江村に、大字加・大字流山のうち江戸川以西は埼玉県 北葛飾郡 早稲田村に編入する。
Ⓗ千葉県 東葛飾郡 馬橋村 大字外河原のうち江戸川以西は埼玉県 北葛飾郡 八木郷村に編入する。
Ⓘ千葉県 東葛飾郡 明村 大字古ケ崎のうち江戸川以西は埼玉県 北葛飾郡 八木郷村に編入する。
Ⓐ千葉県 東葛飾郡 行徳町 大字大和田・大字本行徳のうち各江戸川以西は、東京都 南葛飾郡 篠崎村へ編入する。
Ⓒ千葉県 東葛飾郡 南行徳村 大字欠真間の字前野・字妙見島は、東京府 南葛飾郡 瑞穂村に編入する。
Ⓔ千葉県 東葛飾郡 浦安村 大字堀江のうち江戸川以西は東京府 南葛飾郡 葛西村に編入する。
一東京府南葛飾郡篠崎村大字伊勢屋ノ内大字上鎌田ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡行德町ニ編入ス
一埼玉縣中葛飾郡金杉村大字金杉ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡旭村ニ編入ス
一埼玉縣北葛飾郡早稲田村大字岩野木ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡流山町ニ編入ス
一埼玉縣北葛飾郡八木鄕村大字大膳ノ内大字一本木ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡馬橋村ニ大字樋野口ノ内大字德島ノ内大字小向ノ内江戸川以東ハ千葉縣東葛飾郡明村ニ編入ス
一千葉縣東葛飾郡關宿町大字向下河岸及大字内町ノ内大字江戸町ノ内江戸川以西ハ埼玉縣中葛飾郡豊岡村ニ大字江戸町ノ内權現堂川以北ハ茨城縣西葛飾郡五霞村ニ編入ス
一千葉縣東葛飾郡梅鄕村大字今上ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡旭村に編入ス
一千葉縣東葛飾郡新川村大字深井新田ノ内大字平方村新田ノ内大字中野久木ノ内大字北ノ内大字小屋ノ内大字上新宿新田ノ内大字南ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡三輪野江村に編入ス
一千葉縣東葛飾郡流山町大字三輪野山ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡三輪野江村ニ大字加ノ内大字流山ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡早稲田村ニ編入ス
一千葉縣東葛飾郡馬橋村大字外河原ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡八木鄕村ニ編入ス
一千葉縣東葛飾郡明村大字古ケ崎ノ内江戸川以西ハ埼玉縣北葛飾郡八木鄕村ニ編入ス
一千葉縣東葛飾郡行德町大字大和田ノ内大字本行德ノ内江戸川以西ハ東京府南葛飾郡篠崎村ニ編入ス
一千葉縣東葛飾郡南行德村大字欠眞間ノ内字前野及字妙見島ハ東京府南葛飾郡瑞穗村ニ編入ス
一 千葉縣東葛飾郡浦安村大字堀江ノ内江戸川以西ハ東京府南葛飾郡葛西村ニ編入ス
明治29年(1896) 3月29日付 (官報 3月30日) の法律第40号 (東京府埼玉県千葉県茨城県境界変更法) は以下の条文を内容とした。
埼玉県管轄下 武蔵国 北葛飾郡および同県管轄下 Ⓙ下総国 中葛飾郡を廃し、その区域をもって北葛飾郡を置き、武蔵国に属するものとする。
埼玉縣武藏國北葛飾郡及同縣下總國中葛飾郡ヲ廢シ其ノ區域ヲ以テ北葛飾郡ヲ置キ武藏國ニ屬ス。
なお、最初の東京府達甲第46号 (明治18年6月30日付) は、国の公報である官報の「警視庁・東京府 布達」に記載されている。しかし、これが直接的に国の決定を伝えるものか、そうではなく改めて東京府が定めたものを伝えるものかはわからない。少なくとも『法令全書 明治18年』(1885)や国立公文書館に所蔵の文書に該当する国の決定は見当たらない。当時は、明治19年(1886) 2月26日に公文式が制定され、日本における法形式が整う直前であり、また太政官制廃止・内閣制度発足 (明治18年(1885) 12月22日) の時期とも重なる。これらや官報への直接記載を踏まえると、必要な議論・議決はあったとしても、法令自体は東京府達甲第46号として直接施行された可能性も十分に考えられる。
注釈
位置と範囲の特定: 妙見島・堀江村飛地ほか
以下に、妙見島・堀江村飛地ほかの変動範囲を示した地形図をあらためて、また同様の迅速測図原図を示す。
天保郷帳・国絵図の村々
近世 武蔵国 葛飾郡※1
さらに、各地点を特定するにあたって参照した『渡辺知事管内巡回記』(1965)※32の付図、および『武蔵国葛飾郡第拾壱大区縮図 (武藏國葛飾郡第拾壹大區縮圖)』※33を示す。
以下、各地点の位置・範囲について特定根拠を説明する。
Ⓐ 大和田・本行徳飛地
大和田飛地は、『巡回記』の付図、およびその本文における描写※34から特定した。付図では「大和田トビ地」と表記されている。小規模な流路変化により生じた飛地が草苅場 (秣場・茅場など) として利用されていたと考えられ、そのまま現在は河川敷になっていると思われる。
本行徳飛地は、同様に『巡回記』の付図と描写※35に加え『武蔵国葛飾郡第拾壱大区縮図』によって特定した。付図では「本行徳飛地」、『武蔵国葛飾郡第拾壱大区縮図』では「行徳飛地」と表記されている。現在 (本稿執筆時点) は王子マテリア江戸川工場や都営南篠崎町五丁目アパートが所在する部分にあたり、区割は当時からほとんど変わっていない。
Ⓑ 伊勢屋・上鎌田各飛地
厳密な位置・範囲はわからないが、『巡回記』における描写※36と、迅速測図原図から読み取れる地形から推定した。成因・状況とも大和田飛地と変わりなく、その後は河川敷となったか、または江戸川 (江戸川放水路) の河道になったと考えられる。
Ⓒ 前野・妙見島
前野は、武蔵国 葛飾郡 前野村に点在していた、下総国 葛飾郡 欠真間村の飛地である。『巡回記』によれば、当地の所属がはっきりしていなかったころに欠真間村が開発した結果、飛地になってしまったという※37。欠真間村が含まれる行徳領では「湊村」またはその一部である「湊新田」の一部として扱われていた※38。付図では前野村・当代島村付近に「欠マヽ村トビ地」とあるが、範囲は示されていない。『武蔵国葛飾郡第拾壱大区縮図』では、前野村の村名表記の横に「チバケン」と記載された正方形が記号的に置かれている。具体的な位置・範囲を特定することも、地形図に示すことも難しい。
妙見島は、現存する江戸川 (旧江戸川) の中洲である。なお、少し上流にも中洲が存在したが (『武蔵国葛飾郡第拾壱大区縮図』で『チバケン』と記載されている※39)、この中洲は下総国のまま経過し、その後消失した※40。
Ⓓ 滝沢
位置・範囲は『武蔵国葛飾郡第拾壱大区縮図』から特定した。同図では単に「チバケン」とあってどの村の飛地か明示されていないが、滝沢の編入先は下鎌田村・当代島村であることから判断できる。本行徳飛地と同様、ここも区割が当時からほとんど変わっていない。
Ⓔ 堀江村飛地
面積が大きく、迅速測図原図でも「堀江村飛地」と明示されている。江戸川河口に形成された三角州であって「堀江新田」とも呼ばれていた※41。現在は陸続きだが、この三角州を分けていたかつての江戸川河口分流のひとつ (古江戸川) は、大半が左近川※42として現存する。
注釈
位置と範囲の特定: 三郷・松戸
以下に、三郷・松戸の変動範囲を示した地形図をあらためて、また同様の迅速測図原図を示す。
天保郷帳・国絵図の村々
近世 武蔵国 葛飾郡※1
- 98. 飯塚村※2
- 99. 猿ケ又村※3
- 100. 小合新田
- 103. 下小合村※4
- 104. 上小合村※4
- 105. 花和田村※5
- 106. 彦江村※6※7
- 107. 谷口村※8※9
- 108. 境木村※8※9
- 109. 三九村※8
- 110. 戸ケ崎村※10
- 111. 寄巻村※8※11
- 112. 前谷村※8※11
- 113. 高須村※12
- 114. 久兵衛村※8※12
- 115. 小向村※8※13
- 116. 樋口村※8※13※14
- 117. 長戸呂村※8
- 118. 徳島村※8
- 119. 彦沢村
- 120. 番匠免村※15
- 121. 上口村
- 122. 長沼村※8
- 123. 八町堀村※8※16※17
- 133. 笹塚村※8※18
- 137. 谷中村※8※19
- 138. 幸房村※19
- 139. 岩野木村※8※19
- 140. 茂田井村※8
- 272. 市助村※8※20
- 273. 前川村※8※21
- 274. 大膳村※8※20
- 275. 鎌倉村※8※22
- 276. 横堀村※8※17
- 277. 下新田村※8※23
- 279. 酒井村※8※24
- 280. 壱本木村※8※17
近世 下総国 葛飾郡※25
- 204. 中金杉村※26
- 206. 平賀村※27※28
- 220. 大谷口村※29
- 221. 横須賀村※30
- 222. 鰭ケ崎村※31
- 223. 木村※32
- 224. 大谷口新田
- 225. 幸谷村※33
- 226. 上総内村※34
- 227. 小金町※35
- 229. 小西新田※36
- 234. 二ツ木村※37※38
- 235. 三ケ月村※39
- 236. 七右衛門新田※40
- 237. 外河原村※41
- 238. 主水新田
- 239. 九郎左衛門新田
- 240. 三村新田
- 241. 馬橋村※42
- 242. 八ケ崎村※43
- 244. 伝兵衛新田
- 245. 古ケ崎村
- 246. 新作村
- 247. 中根村
- 248. 中和倉村
- 257. 松戸新田
- 258. 上本郷村
- 259. 南花島村※44
- 260. 竹ケ花村
- 261. 根本村
- 262. 松戸町※45
- 263. 小根本村
- 264. 岩瀬村
- 265. 和名ケ谷村※46
- 274. 小山村
Ⓕ 大膳・一本木・樋野口・徳島・小向各飛地
大膳・一本木各飛地
位置・範囲は、文政6年(1823)『大膳村地誌取調書上帳』※47・『大膳村麁絵図』※48・『大膳村絵図』※49をもとに、まず前者を特定した。さらに、これに地形や位置関係を考慮して後者を推定した。
『大膳村地誌取調書上帳』によれば、大膳では宝永2年(1705) に江戸川の曲流部を改修した際、およそ 1.5ヘクタールが飛地になってしまったといい※50、堤外の不安定な流作場である。一本木村でも同様に飛地が生じたとされるが※51、この飛地については大膳と同精度の情報は得られない。しかし、位置関係から検討すれば、同じ対岸堤外地の残余 (南半分) にあたると推定される。
樋野口・徳島・小向飛地
位置・範囲は、享保16年(1731) に曲流部が直線化されたことで生じた飛地である。この飛地は範囲が広く、迅速測図原図のほか、地理院地図の区割からも明瞭に判別できる。その地理院地図では単に「樋野口」と記されており、大部分は樋野口飛地で、徳島・小向飛地は地内の小区画だったと考えられる (この付近の村々は入り組みが激しい)。
Ⓖ 岩野木飛地
位置・範囲は、迅速測図原図で明示されているこの時点の国界 (変動前の国界) から特定した。この飛地が生じた経緯はⒻの大膳・一本木飛地と同じであり、宝永2年(1705) の流路改修による※52。
Ⓗ 外河原飛地
外河原飛地も、迅速測図原図の国界から特定した。Ⓕの大膳・一本木飛地とⒼの岩野木飛地との間にある、両者とは反対方向の旧曲流部が該当する。同様に宝永2年(1705) の流路改修が要因と考えられる※53。
Ⓘ 古ケ崎飛地
古ケ崎飛地も、迅速測図原図の国界から特定した。Ⓕの大膳・一本木飛地の南に近接する、反対方向の旧曲流部が該当する。位置関係から、やはり宝永2年(1705) の流路の改修によると推定される。なお、迅速測図原図では (Ⓗの外河原飛地とは別に) この旧曲流部にも「外河原村」の表記があるが、これは混乱によるものと判断した。
注釈
位置と範囲の特定: 庄内領
以下に、庄内領の変動範囲を示した地形図をあらためて示す。
天保郷帳・国絵図の村々
近世 下総国 葛飾郡※1
- 48. 幸館村※2※3
- 49. 幸館新田※3
- 50. 江川村
- 51. 向下河岸※4
- 52. 江戸町
- 53. 台町※5
- 54. 元町
- 55. 中島村
- 56. 内町
- 57. 花島村
- 58. 細野村※6
- 59. 槇野地村※7
- 60. 西高野村
- 61. 東高野村
- 62. 新田戸村
- 63. 中戸村※8
- 64. 下木津内村※9
- 65. 上木津内村※9
- 66. 目沼村
- 67. 屏風村※6
- 68. 宮前村
- 69. 鷲巣村
- 70. 柏寺村
- 71. 桐ケ作村※10
- 72. 古布内村※11
- 73. 次木村
- 74. 親野井村※12
- 75. 西親野井村※12
- 76. 木野川村
- 77. 深輪村※13
- 78. 椿村※14
- 79. 芦橋村※15
- 80. 木崎村※15
- 81. 塚崎村
- 82. 西宝珠花村※16
- 83. 東宝珠花村※16
- 84. 木間ケ瀬村※17
- 85. 平井村
- 86. 上吉妻村※18
- 87. 下吉妻村※18
- 88. 吉妻村新田※19
- 89. 神間村※20
- 90. 倉常村※21
- 91. 榎村※20
- 92. 立野村※20
- 93. 椚村※22
- 94. 小平村※23
- 95. 丸井村
- 96. 岡田村
- 97. 東金野井村※24
- 98. 西金野井村※24
- 99. 金崎村※25
- 100. 上柳村※26
- 101. 下柳村※27
- 102. 大衾村※28
- 103. 米崎村※29
- 104. 尾崎村
- 105. 中里村※30
- 106. 舟形村※31
- 107. 蕃昌新田※19
- 108. 目吹村※32※33
- 109. 木野崎村
- 110. 吉春村
- 111. 谷津村
- 112. 五木村※34
- 113. 新宿新田
- 114. 中野村※35
- 115. 飯沼村※29
- 116. 米島村※29
- 117. 永沼村※29
- 118. 水角村※29
- 119. 赤崎村※29
- 120. 魚沼村※29
- 121. 築比地村
- 122. 金杉村※36
- 123. 座生新田
- 124. 岩名村※37
- 125. 清水村※38
- 126. 堤台村※38
- 127. 中野台村※38
- 128. 上花輪村※38※39
- 129. 野田町※40
- 130. 大殿井村※41※42
- 131. 宮崎新田村
- 132. 柳沢新田
- 133. 奉目新田※43
- 134. 鶴島新田※43
- 135. 中根新田
- 136. 桜台村※41
- 137. 堤根新田
- 138. 花井新田
- 139. 横内村※44
Ⓙ 中葛飾郡
中葛飾郡は、下総国 葛飾郡のうち埼玉県管轄下の部分であり、同県における郡区町村編制法の施行にともなって明治12年(1879) 3月17日に成立した。残部のうち、千葉県の部分が東葛飾郡 (明治11年(1878) 11月2日成立)、茨城県の部分が西葛飾郡 (同年 12月2日) となり、それぞれ先行して成立している。中葛飾郡の位置や範囲は自明であり、あらためて特定する必要はない※45。
国界の変動は、明治29年(1896) の郡制施行にともなうものである。郡制の施行により、それまでは単なる広域地名だった郡が組織としての性格を帯びることになり、各地で廃置分合による規模の適正化が行われた。下総国 中葛飾郡も同様であり、武蔵国 北葛飾郡 (埼玉県と東京府で分割された武蔵国 葛飾郡のうち、埼玉県の部分) と統合され、あらためて武蔵国 北葛飾郡となった。この統合にともない、旧中葛飾郡の部分が下総国から武蔵国へと移ったのである。
Ⓚ金杉飛地
金杉村は中葛飾郡に含まれていたため、前述のとおり明治29年(1896) に下総国から武蔵国へ移された。しかし、この飛地 (金杉飛地) については、その前年に下総国 東葛飾郡 (千葉県管轄) の旭村へすでに編入されていたため、下総国のまま変わらなかった。
位置・範囲は、現在の野田市 金杉に一致するものと判断した。史料によれば、金杉村には本村の東方にある柳沢村の内に、およそ 12.8ヘクタールの林があったという※46。現在の野田市 金杉も柳沢に接しており、面積がおおむね一致する。
本飛地は、成因や用途がほかの飛地とは異なっている。金杉村は平坦な低地に位置し、稲作には適しているものの※47、薪炭材を採取できる山林に乏しかった。そのため、はじめから飛地として確保された林だったとみられる。寛文5年(1665) の「野田町絵図」※48によれば、当時すでに清水村・堤台 (堤代)・中野台 (中之代)・上花輪 (花𛄋村) の各村や野田町が存在しており、のちに牧や新田として開墾される原野はその先にしか存在しなかった。したがって、金杉村からは多少距離は離れていたものの、横内村近くの山林を飛地として確保するほかなかったのだろう (同絵図でも、横内村の周囲には木々が描かれている)。
Ⓛ 西関宿
西関宿は、明治28年(1895) に下総国 東葛飾郡 関宿町 (千葉県管轄) から同国 中葛飾郡 豊岡村 (埼玉県管轄) へ移されていた。そのため金杉飛地とは反対に、明治29年(1896)、武蔵国となった。位置と範囲については、現在の幸手市 西関宿から明らかである。
この西関宿の変動について、明治28年(1895) の条文上では「向下河岸」と「内町の江戸川以西」「江戸町の江戸川以西」の 3箇所とされている。しかし、最後の「江戸町の江戸川以西」は、実際には「向河岸」を指していると考えられる。向河岸とは、関宿城下の江戸町のうち、江戸川 (新川) の開削によって分断された部分の呼称であり、実際に広く通用していた。ただし、地籍としてはそのまま江戸町として扱われていたとみられ、このため条文上では「江戸町の江戸川以西」とされたとみられる。
なお「向下河岸」は向河岸の南に展開した街並みの呼称だが、郷帳・国絵図では向河岸も含めて「向下河岸」と把握されるなど、こちらが総称として使われていた※49。
もうひとつの「内町の江戸川以西」は、新川 (江戸川) の開削にともない、国界である旧流路との間に生じた狭隘な土地だったと考えられる。現在の野田市 関宿内町に着目すると、その南限となる農道は迅速測図原図でも堤として確認できるため、区画は当時からほとんど変わっていないとみなせる。その南限をそのまま西へ延長すると、同じく迅速測図原図に描写されている対岸の堤外地にかかる。したがって、わずかながらその北端の部分が内町の飛地だったと推定される。あるいは、向下河岸・向河岸に何らかの飛地 (寺社領など) が存在していた可能性がある。
注釈
位置と範囲の特定: 吉川・流山
以下に、吉川・流山の変動範囲を示した地形図をあらためて、また同様の迅速測図原図を示す。
天保郷帳・国絵図の村々
近世 武蔵国 葛飾郡※1
- 124. 下彦川戸村※2
- 125. 彦倉村※3
- 126. 彦野村
- 127. 上彦川戸村※2
- 128. 上彦名村※4※5
- 129. 彦成村※6
- 130. 彦音村※7
- 131. 彦糸村
- 132. 采女新田※11
- 133. 笹塚村※11※8
- 134. 駒形村※9※8
- 135. 蓮沼村※11※10
- 136. 仁蔵村※11
- 141. 丹後村※11
- 142. 大広戸村※12
- 143. 半田村※13※14※15
- 144. 道庭村
- 145. 中曽根村
- 146. 高久村
- 147. 高富村
- 148. 富新田※11※16
- 149. 二ツ沼村※11
- 150. 後谷村※11
- 151. 前間村
- 152. 小谷堀村※11
- 153. 三輪野郷村※17※18
- 154. 土場村※11
- 155. 飯島村※11
- 156. 中島村
- 157. 木売新田※11
- 158. 木売村※19
- 160. 中野村※11※20※21
- 163. 皿沼村※11
- 164. 加藤村
- 165. 半割村
- 166. 吉屋村※11※22
- 167. 鹿見塚村※11
- 168. 中井村※11
- 169. 会野谷村
- 170. 関新田※11
- 171. 鍋小路村※11
- 172. 関村
- 176. 川藤村※23
- 178. 上笹塚村※24
- 179. 八子村※11※25
- 180. 下内川村※26
- 181. 上内川村※26
- 182. 広島村※27※28
- 271. 田中新田※11
- 278. 小松川村※11※29
近世 下総国 葛飾郡※30
- 140. 三ケ尾村※31
- 147. 山﨑村※32
- 148. 亀山新田※33
- 149. 今上村
- 155. 東深井村
- 156. 西深井村
- 157. 中曽根下谷新田※34※35
- 158. 深井新田※33
- 162. 初石新田※33
- 169. 平方村
- 170. 平方新田※33
- 171. 平方原新田※33
- 172. 中野久木村※36
- 173. 上新宿村※37※38
- 178. 桐ケ谷北村※39
- 179. 北村・小屋村 新田※33※40※41
- 180. 桐ケ谷南村※42
- 181. 桐ケ谷村※43
- 182. 桐ケ谷新田※33※44
- 183. 谷津・貝塚新田※33※45※46
- 184. 大畔村※47
- 185. 下花輪村※48
- 186. 三輪山村※49
- 187. 市野谷村
- 197. 中村
- 198. 後平井村
- 199. 前平井村
- 200. 加村※50
- 201. 流山村※51
- 202. 西平井村
- 203. 思井村
Ⓜ 今上飛地
今上飛地は、迅速測図原図から特定した。Ⓙ の中葛飾郡と同様、下総国 葛飾郡のうち江戸川によって分断された部分だが、その時期はやや下る。江戸川 (新川) と庄内古川 (旧流路) の合流地点は、享保14年(1729) に下流へと移され、2つの川は分離された (江戸川は直線化)。この改修によって分断された領域の上流部が当地であり、国界である旧流路と新流路に挟まれた、狭隘な中洲状の土地だった。現在は河川敷 (運動公園) となっている。
Ⓝ 深井新田・平方村新田・中野久木・北・小屋・上新宿新田・南各飛地
位置・範囲は迅速測図原図から特定した。
深井新田・平井新田の飛地は、Ⓜの今上飛地の下流部にあたる。面積が広いため、現在も吉川市の「深井新田」「平方新田」として地名が残っている。景観も当時からほとんど変わっておらず、庄内古川に沿って発達した自然堤防上に古い家並みが続き、その背後の後背湿地が水田となっている。なお、下総国 葛飾郡 (東葛飾郡) として残った部分は流山市の「深井新田」「平方村新田」である。
中野久木・北・小屋・上新宿新田・南の各飛地は、寛政12年(1800) に生じた飛地である。享保14年(1729) の分離後、江戸川 (新川) と庄内古川 (旧流路) は当地の北側で合流していた。その合流地点が寛政12年(1800) にさらに下流へと移され、江戸川と庄内古川の分流区間は延長されたのである。Ⓜの今上飛地と同様の中洲状の土地であり、やはり河川敷 (運動公園) となっている。
Ⓞ 三輪野山・加・流山各飛地
三輪野山・加・流山の各飛地は、どれも各本村の対岸にあった小規模な流作場である。そのため、おおまかな位置のみを示し、範囲の特定は省略した。
三輪野山飛地については、寛保元年(1741)『三輪野山村絵図』※52に、「川向下畑」という小さな区画 (耕地) として描かれており、これが該当する。
加 (現在の流山市 加) 飛地については、明治5年(1872)『庄内古川絵図』※53に「下総国葛飾郡加村畑」という区画として描かれている。寛保元年(1741) の加村郷差出帳によれば、「川向」と肩書きされた 4.6ヘクタール (『苅流し』によって残部は 3.2ヘクタール) ほどの「葭谷」という流作場扱いの新田が存在した。なお、『庄内古川絵図』には三輪野山村飛地も「下総国葛飾郡三輪野山村畑」「三輪野山村畑」として含まれている。
流山飛地については直接的な情報が得られないが、隣接する三輪山・加の飛地と事情が異なるとは考えづらい。
これら 3箇所の飛地は、その規模と景観からみて、Ⓕの大膳・一本木飛地のように流路の変更によって分断された土地であるとは考えにくい。仮に流路に関係するとすれば、西岸の欠損部分に対する代替地に当たるだろう。また、『新編武蔵国風土記稿』によれば、対岸にあたる武蔵国 葛飾郡の田中新田は開発に失敗した無住の流作場であったとされる。このことから、流路の変動とは無関係に、その田中新田の一部として開発に加わった拡張部分であった可能性も考えられる。土地そのものは、現在も三郷流山橋の付近に中洲として残っている。
注釈
データシート
| 変動 | 葛飾郡 (西部) |
|---|---|
| 要因 | 郡制施行にともなう再編等 |
| 変動の確定時期 | 明治18年(1885) 6月~明治29年(1896) 3月 |
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、全面改訂・再構成した。
:
- 同、新規作成。


























