オンラインで参照できる下総国絵図 (下総国の国絵図) のリストと詳細情報を提供しているページです。

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(1) 概要

下総国は東海道に属する国である。国立公文書館所蔵の『天保下総国絵図』は紅葉山文庫旧蔵・勘定所旧蔵の両方が現存し、紅葉山文庫旧蔵 (#764245) がオンライン公開されている。

Fig.914 天保下総国絵図 (国立公文書館所蔵)

下総国は国立公文書館所蔵の『元禄下総国絵図』『天保下総国絵図』のほか、『寛永下総国絵図』『正保下総国絵図』と推定されるものが存在し、また『日本六十余州国々切絵図 (余州図)』には他国にないバリエーションがある。

(2) 日本六十余州国々切絵図

『日本六十余州国々切絵図 (余州図)』は内容を簡略化した略図 (縮図) であることから、そもそも情報量は少ない傾向にある (『余州図』の一般論については『6. 寛永国絵図・日本六十余州国々切絵図』を参照)。しかし関八州と西海道 (現在の関東・九州) は特にこの傾向が強く、さらに下総国のものはその中でも際立っている。

Fig.919 日本六十余州国々切絵図 下総国 (秋田県公文書館所蔵)

上に示したのは秋田県公文書館デジタルアーカイブで公開されている『日本六十余州国々切絵図 下総国』(#15706)で、北半分 (上半分) を見ると、「下総国」とある利根川・小貝川 (鬼怒川旧流路)・鬼怒川新流路 (短絡部) で囲まれた部分や、「関宿」のある庄内古川・利根川に挟まれた部分に村がまったく描かれず、「山川」と「古城」(山川城) は空白のなかに漠然と置かれている。

これは京都大学貴重資料デジタルアーカイブで公開の『下総国[東海道図]』でも変わらないが、#15706を公開する秋田県公文書館デジタルアーカイブでも『下総国11郡絵図』(#120500)では白線で国界が表現されている。

Fig.921 日本六十余州国々切絵図 下総国 (『下総国11郡絵図』・秋田県公文書館所蔵)

岡山大学 絵図公開データベースシステムで公開の『〔下総国絵図〕』(#T1-75)も同様である。

一方、船橋市デジタルミュージアム公開の『下総一国之図』では、この空白部分に村々が記載されている。

Fig.922 日本六十余州国々切絵図 下総国 (『下総一国之図』・船橋市西図書館所蔵)

本図の文字はしっかりとした楷書体でほかにあるような曖昧さはなく、またほかで誤っている部分はすべて正しく記載されている (差異の詳細は『28.2.1. 新方(b)』を参照)。書体や丁寧さは写本作成者にもよるかもしれないが、全体としても「完成されたもの」という印象が強い。一方で本図を縮図とすればその原図に相当する『寛永下総国絵図』よりも充実している情報もあって、まったく同一の工程で完成されたものかどうかはわからない。しかし本図がほかの余州図を補完することで得られる情報は重要である。

詳細には検討が必要だが、秋田県公文書館デジタルアーカイブの『下総国11郡絵図』(#120500) と岡山大学 絵図公開データベースシステムの『〔下総国絵図〕』(#T1-75)は明らかに同じ系統である。同じ秋田県公文書館でも『日本六十余州国々切絵図 下総国絵図』(#15706)は別系統であり、船橋市デジタルミュージアムの『下総一国之図』はおそらくこの延長上に存在すると考えられる。京都大学貴重資料デジタルアーカイブの『下総国[東海道図]』は『下総国11郡絵図』(#120500)・『〔下総国絵図〕』(#T1-75) の系統の (あまり丁寧とはいえない) 写しである。

(3) 寛永下総国絵図

船橋市デジタルミュージアムでは『下総一国之図』とは別に『下総国 十四』が公開されている。史料名は表紙による。「十四」の数字があることから、一連の国絵図写本のうちの一部だったと考えられる。

Fig.722 寛永下総国絵図  (『下総国』・船橋市西図書館所蔵)

この下総国絵図は、『余州図』の下総国 (『下総一国之図』以外) と同じように「古河」「関宿」「佐倉」の 3城が存在し、「結城」(結城本郷) は共通の赤・黒・白で塗り分けられ、「赤キハ下野」「黒キハ常陸」「白キハ下総」の凡例が存在する (塗り分けの解釈については『28.3.2. 高椅(1)』を参照)。一方で村の数は遥かに多く、街道や国境記載も詳細である。このため本図は下総国の『余州図』に対応する寛永下総国絵図と推定される。略図と正式な絵図の関係であることや、本図には原図に起因すると思われる村名のないオブジェクトだけの村が存在することから完全には一致しないが、「けこ川」(がわ村、ミ → ニ → コ → こ) の誤りなど共通するところが多い。形式も (その不正確さも含めて) ほかの現存する寛永国絵図と矛盾しない。

ただし、本図と同じように『余州図』と様式が共通する寛永国絵図がほかには存在しないことも事実で、この点においてはさらに検討したい。前述のように、本図は一連の国絵図写本の一部だったと考えられることから、ほかの国絵図が発見されることが期待される。

(4) 船橋市西図書館所蔵 下総之国図

船橋市西図書館には前項までの『下総一国之図』(余州図)・『下総国』(寛永国絵図) のほかに『下総之国図』が現存し、同様に船橋市デジタルミュージアムでオンライン公開されている。史料名は南東に記載された内題による。

この国絵図はその作成の目的・経緯などは一切不明だが、描かれている景観から元和年間(1615~1624) までに作成されたものと推定されている※1

Fig.519 船橋市西図書館所蔵 下総之国図 (船橋市デジタルミュージアム公開)

様式に注目すると、まず村名の表記は漢字仮名交じりで仮名はいわゆる変体仮名を含み、ひらがな・カタカナの両方が使用されている。これは余州図 (および余州図に近い寛永国絵図) と共通し、正保以降の国絵図ではほぼ淘汰される。一方で村をあらわすオブジェクトの形状は余州図とは異なり、真円かそれに近い形状であつて、これはライデン大学図書館所蔵の『丹後国絵図 (Tango no kuni ezu)』に類似する。オブジェクトが乱雑に配置される一方で、村名はほぼ同じ方向を向いている点も同様で、これによってか絵図全体から受ける印象も似たようなところがある。村の表記と形状に関しては『慶長備前国絵図』にも通じるものがある。

本図はこのように寛永国絵図よりも古い国絵図であることが強く示唆されるが、残念ながら石高や支配関係の情報は一切記載されていないことから、確定させることも、その上で厳密な成立時期を特定することはできない。

注釈
^ ※1: 幸手市史 通史編1(2002)。
(5) 中川忠英旧蔵

国立公文書館所蔵、中川忠英旧蔵の国絵図群 (通称『日本分国図』) には下総国のものが 2分割された形式で含まれるが、うち東半分#2545940だけが現存・オンライン公開されている。

Fig.923 日本六十余州国々切絵図 下総国 (『下総一国之図』・船橋市西図書館所蔵)

本図は正保国絵図の様式で描かれ、またほかの中川忠英旧蔵の正保国絵図と共通することから『正保下総国絵図』と推定される。しかし『正保下総国郷帳』は現存せず、国絵図・郷帳作成当時の正確な国郡高も伝わっていないため、石高によって特定することはできない。また何に基づくかはっきりしない史料まで含めても、かえって混乱するだけで推定も難しい (江戸前期 下総国 国高・郡編成一覧も参照)。

本図は中川忠英旧蔵の国絵図の中でも特異な国絵図である。中川忠英旧蔵の国絵図は複数に分割されているものが多く、本図はそのようなもののひとつである。しかしほかは郡界で分割されているのに対して、本図は中央付近で東西に分割され、前述のように東半分だけが現存する。

西半分も過去の目録上は存在し※1、『福井』で言及された時点では存在していたと考えられる。『福井』には「二鋪に分割されている」とあり、請求番号として 176-286-15 ・ 176-286-16の 2つが提示されている。すでに存在していなければ、その点にまったく触れないのはおかしい。しかし、現在の国立公文書館デジタルアーカイブにおける『日本分国図』の「簿冊情報」には「15欠」とあって、実際に「件名・細目一覧」では表示されず、「冊次」が欠番となっている。つまり 1980年代以降に失われたとみられる。西半分には江戸初期の変動が著しい葛飾郡が含まれ、現存すればこれによって新たに確かめられることは多いはずであり、非常に惜しまれる。

注釈
^ ※1: 『改訂 内閣文庫国書分類目録 下』(1975)、c.42。
(6) 松平乗命旧蔵

国立公文書館所蔵、松平乗命旧蔵の国絵図群 (通称『日本分国絵図』) には下総国のものが含まれ、現存する (#72510)。オンライン公開はされていない。

Fig.776 松平乗命旧蔵 下総国絵図 (国立公文書館所蔵)

本図の特徴は何よりも自然描写にある。本図では野 (洪積台地) と (沖積低地) が塗り分けられ、これによって「」が巧みに表現されている。谷津は当地を特徴づける地形ではあるが (『28.1.4. 下総台地』も参照)、その高低差はせいぜい数10メートルであり、現在の地形図であってもよほど範囲と標高を絞り込まない限りは見えてこない。もちろんほかの国絵図では表現されることはなく、『元禄下総国絵図』・『天保下総国絵図』でも無視され、『正保下総国絵図』と推定される中川忠英旧蔵でも変わらない。『余州図』『寛永下総国絵図』では山陵が描かれているが、前者は風景上のアクセントに過ぎず、また後者は空白を埋めているだけで実際の地形を表現しているわけではない。

一方、中川忠英旧蔵の場合、元禄以降の下総国絵図を想像できる事物が、ほかの正保国絵図と同様の (記号化されていないという意味で) 絵画的な表現で描かれているのに対して、本図は異なる。これは香取神宮と、犬吠埼~屏風ケ浦~刑部岬付近の表現を『元禄下総国絵図』見比べるとわかりやすい。後者は一見すると松平乗命旧蔵のほうが『元禄下総国絵図』に似ているように見える。しかし実際には中川忠英旧蔵は正保国絵図特有の大袈裟な画風で岩礁を描いているだけで、縮小すればこちらのほうが『元禄下総国絵図』と整合する。

国絵図としての要素に着目すると、本図の郡名は短冊型のオブジェクトに書かれ、また古城は中川忠英旧蔵よりも明らかに多く、おそらく『下総之国図』で名前を与えられていた城が古河・関宿・佐倉を残して「古城」表記になっている。古城は正保国絵図以降、基本的に名所旧跡などと同様に背景の一部になる (特定のオブジェクトでは示されない) か、または描かれなくなることから、本図は中川忠英旧蔵よりも古い時期を描いているといえる。しかし『余州図』『寛永下総国絵図』の延長に中川忠英旧蔵を想像できても本図の延長には考えられない。

以上にように、本図は江戸初期の下総国を描写した重要な国絵図であることには間違いないものの、その性質についてはなお検討を必要とする。なお、本図の郡界や街道は標準的な墨線・朱線で、街道には一里塚・道程記載とも存在する。ただし、やや不定形の村をあらわすオブジェクトには接尾辞を省略した村名だけが記載され、村高はその外に付記されている。その村高は離れた場所に道程記載のように置かれているケースがかなり多い。これは国境記載も同様で、そのように見える多くの実際は付近の村の村高である。

(7) 元禄下総国絵図

元禄国絵図は国立公文書館に多く現存し、下総・常陸・日向・薩摩・大隅が正本、五畿 (大和・山城・河内・和泉・摂津) とその周囲である近江・丹波・播磨が写本である (令制国 68国ではないものを除く、元禄国絵図の一般論については『8. 元禄国絵図』を参照)。

Fig.811 天保下総国絵図 (国立公文書館所蔵)

『元禄下総国絵図』(#764295) は正本のひとつである。大きさは 東西 501cm × 南北 391cm、余白部分 (畾紙) にある目録の奥書相当の部分には、元禄15年(1702) 11月の日付 (『元禄十五壬午年十一月』) と牧野備前守・松平伊豆守の名前が記されている。

(8) 一覧

『凡例』

種別参照可否確定名称等所蔵・公開備考
確定根拠
その他当該国絵図であることは確定していないが (推定等)、村名の文字を明瞭に判読可能な高解像度の画像がオンライン公開されている。備考下総之国図船橋市 デジタルミュージアム参照
余州当該国絵図であることが確定した、村名の文字を明瞭に判読可能な高解像度の画像がオンライン公開されている。所蔵#120500秋田県公文書館 デジタルアーカイブ参照
余州当該国絵図であることが確定した、村名の文字を明瞭に判読可能な高解像度の画像がオンライン公開されている。所蔵#15706秋田県公文書館 デジタルアーカイブ参照
余州当該国絵図であることが確定した、村名の文字を明瞭に判読可能な高解像度の画像がオンライン公開されている。筆者T1-75岡山大学 絵図公開 データベースシステム参照
余州当該国絵図であることが確定した、村名の文字を明瞭に判読可能な高解像度の画像がオンライン公開されている。筆者下総国[東海道図]京都大学貴重資料 デジタルアーカイブ参照
余州当該国絵図であることが確定した、村名の文字を明瞭に判読可能な高解像度の画像がオンライン公開されている。備考下総一国之図船橋市 デジタルミュージアム参照
寛永当該国絵図であることが確定した、村名の文字を明瞭に判読可能な高解像度の画像がオンライン公開されている。備考寛永下総国絵図 (『下総図 十四』)船橋市 デジタルミュージアム参照
正保当該国絵図であることは確定していないが (推定等)、村名の文字を明瞭に判読可能な高解像度の画像がオンライン公開されている。筆者中川忠英旧蔵国立公文書館 デジタルアーカイブ参照
その他当該国絵図であることは確定していない (推定等)、かつ非公開でオンラインで参照もできない。筆者松平乗命旧蔵国立公文書館 デジタルアーカイブ参照
元禄当該国絵図であることが確定した、村名の文字を明瞭に判読可能な高解像度の画像がオンライン公開されている。所蔵#764295国立公文書館 デジタルアーカイブ
天保当該国絵図であることが確定した、村名の文字を明瞭に判読可能な高解像度の画像がオンライン公開されている。所蔵#764245国立公文書館 デジタルアーカイブ正 (紅葉山)
天保当該国絵図であることが確定しているが非公開、オンラインで参照できない。所蔵#764245国立公文書館 デジタルアーカイブ正 (勘定所)
(9) 江戸前期 下総国 国高・郡編成一覧
史料国図郡編成
慶長3年(1598) (『大日本租税志』)374,083.80000石※1n/a
寛永元年(1624) (『国々高寄』)393,250.00000石※212郡※3
余州図下記以外250,140.00000石※411郡※5
『下総一国之図』393,000.00000石※612郡※7
寛永下総国絵図 (『下総国』)250,140.00000石※812郡※9
松平乗命旧蔵361,037.80000石※1012郡※11
正保年間(1644~1648) (郡名村数高附記)361,037.80000石※12n/a
正保年間(1644~1648) (村高比較表)訂正前361,037.80000石※13n/a
訂正後444,829.84200石※14
中川忠英旧蔵444,829.84200石※1512郡 (推定※16)
元禄国絵図 ・ 郷帳568,331.11374石※1712郡※18
(10) 天保下総国絵図

冒頭で言及のとおり、『天保下総国絵図』は国立公文書館に紅葉山文庫旧蔵・勘定所旧蔵の両方が現存し、紅葉山文庫旧蔵 (#764245) がオンライン公開されている。

紅葉山文庫※19は江戸城内にあった書庫、勘定所は勘定奉行を長とする役所であり、したがって紅葉山文庫旧蔵は保存と限定的な参照目的のために納められたもの、勘定所旧蔵は実務に供されたものとなるが、紅葉山旧蔵も必要に応じて借用・参照されたようである※20

『天保下総国絵図』は東西 466cm × 南北 362cm、目録の奥書部分には、全国一律に天保9年(1838) の日付 (『天保9年戊戌五月』) と明楽飛騨守・田口五郎左衛門・大沢主馬の名前が記されている。天保国絵図一般については『9. 天保国絵図』を参照のこと。

注釈
^ ※1: 「三拾七萬四千八拾三石八斗」
^ ※2: 「同三拾九万三千弐百五拾石」 (同 = 高)。
^ ※3: 「大管拾弐郡」。
^ ※4: 秋田#15706: 欠、秋田#120500: 「畗貳十五万百四十石余」、岡山: 「高貳十五万百四十石余」、京都: 「高弐拾五万百四拾石余」。
^ ※5: 秋田#15706: 欠、秋田#120500・岡山: 「十一郡」、京都: 「拾一郡」。岡田郡が含まれない。
^ ※6: 「三十九万三千石」。
^ ※7: 「大管十二郡」。
^ ※8: 「髙弐拾五万百四拾石」。
^ ※9: 「十二郡」。
^ ※10: 「惣高合三拾六万千卅七石八斗」。
^ ※11: 「十二郡」。
^ ※12: 「正 三拾六万千卅七石八斗」。
^ ※13: 「三拾六万千〇三拾七石八」。
^ ※14: 「四十四万四千八百二十九石八四二」。
^ ※15: 「都合髙四拾四萬四千八百貳拾九石八計四舛貳合」。
^ ※16: 余白部分の郡の一覧は現存しない西半分に一部掛かるため。ただし東半分に岡田・猿島・葛飾・相馬・印旛・千葉・埴生・香取・迊瑳・海上の 10郡が記載され、岡田郡が存在することは確認できる。豊田郡が存在するが岡田郡は存在しないことはあっても、その逆は考えられないため、本図は 12郡構成といえる。
^ ※17: 「髙都合五拾六万八千三百三拾壹石壹斗壹升三合七夕四才」。
^ ※18: 「十二郡」。
^ ※19: 「紅葉山文庫」はほかの各種用語と同様、近代以降の俗称・学術用語。近世は主に「御文庫」と呼ばれ、「官庫」とも呼ばれた。
^ ※20: 『紅葉山文庫』(1980)
(a) 国々高寄

『国々高寄』は『明治大学刑事博物館資料 第10集 郷帳10』(1988) に翻刻されている『美濃国郷帳』の末尾に追記されている石高 (国高) の一覧。「国々高寄 但寛永元年改」とあり、寛永元年(1624) 時点の数値を示している。何に基づくのかはわからない。

(b) 郡名村数高附記

六拾余州郡名村数高附記は『福井』で参照されている史料である。『六拾余州郡名村数高附記 (六拾餘州郡名村數高附記)』は内題。外題は『元禄・天保 御国高 (元禄天保御国髙)』であって、元禄・天保の国郡高をまとめたものだが、校訂以外にも朱記が多い。

下総国についての「正 三拾六万千卅七石八斗」の記載も朱記によるもので、『正』(正保) は『元』『天』(元禄・天保) に対する記号である。つまり正保の国高 (とされるもの) が示されており、『福井』はこれをもって松平乗命旧蔵を『正保下総国絵図』としている。

(c) 村高比較表

『正保・元禄・天保・明治 村高比較表 (正保元禄天保明治村髙比較表)』 は『川村a』で参照されている史料である。正保・元禄・天保と明治初期調査の国郡高が、陸奥・出羽の分割後の各国についてすべて記載されている史料である。ただし数値が何に基づくのかは一切記載されていない。『川村a』はこれをもって中川忠英旧蔵を『正保下総国絵図』としている。

なお、参照する『新田開発 改訂増補』(1977)に『正保元禄天保明治郡村石高帳 (正保元祿天保明治郡村石高帳)』と誤って記載されているためか、『川村a』でも『郡村石高帳』と記載・参照されている。『郡村石高帳』は類似する別の史料である (どちらも東京大学史料編纂所所蔵)。

(11) 更新履歴

2026.03.08:

2026.02.22:

2026.02.18:

2026.01.31:

2026.01.02: