(2) 変動の要因と時期: 慶長17年(1612)

鎌倉公方・足利しげうじと関東管領・上杉のりただの不和・対立に端を発したきょうとくの乱は、関東全域を戦乱に巻き込み、享徳3年(1455) からぶんめい14年(1483) まで 28年間に及んだ。この間に京都ではおうにんの乱 (応仁・文明の乱) がはじまって、そして終結している。

この乱では成氏が本拠地を鎌倉からに移し、古河公方が成立した。古河が選ばれた理由は、政治的には上杉陣営が相模さがみから武蔵むさし上野こうずけへと勢力を広げるのに対して、古河公方が下野しもつけ下総しもうさの在地勢力(小山氏・宇都宮氏・結城氏など)を支持基盤とし、これに常陸ひたちの佐竹氏や上野東端の岩松氏などを加える体制だったためと考えられるが、地理的な背景も大きかったと思われる。古河は利根川・わた川・おもい川が集まる低湿地に面して天然の要害をなしている。同時にこれらの河川は、接近する常陸川とともに物流の大動脈であって、古河はこれらを束ねる要衝だった。さらにこうした背景に加えて、直轄地に組み込まれていた下河辺庄は重要な経済基盤になり得たからだろう。

中世の利根川本流は双方が睨み合う前線として機能した。一方で、それによって切り離されたにいがた地域は武蔵むさし国と一体性が増して、混乱のなか岩付 (いわつき) の太田氏の勢力下に入ったとみられる。近世中期から後期にかけての地誌『大沢猫の爪』※1では「新方」を武蔵国の側から見て「新しい地」の意味としている。さらにその後、伊豆から相模・武蔵へと勢力を拡大する後北条氏 (小田原北条氏) の領国に組み込まれたのだろう。

大沢猫の爪

当町の義、永禄の頃までは下総の地なりしを、元亀・天正の間、岩槻城主・太田十郎氏房の時とも、またその以前、太田右衛門大夫道灌の領内の節とも、西は古利根川、東は元荒川のうちを武州埼玉郡に付属せしゆへ、新しき方というをもって領名とせしなり。新方領元郷は粕壁町なり

当町之義永禄之頃迄𛂞下総の地成しを、元亀・天正之間岩槻城主太田十郎氏房之時共又其以前太田右衛門大夫道灌之領内之節共、西𛂞古利根川東𛂞元荒川の内を武州埼玉郡𛂈付属せしゆへ新しき方と云を以領名とせし也、新方領元郷𛂞粕壁町也

直接的な史料で国界の変動を確認できるのは江戸期に入ってからで、けいちょう17年(1612) ながみや村 大光寺領の検地帳※2の表紙には「武州新方之庄長宮」とある。『新編武蔵国風土記稿』によれば、同じ慶長17年(1612) に大竹・大森・新方須賀・大戸・大谷・大口・増長の各村でも検地があったとされる。これらはすべて近世 岩槻領だが、慶長18年(1613)『大畠村御年貢可納おさむべき割付』※3の存在から、前提として新方領の大畑村でも検地が行われたことがわかる。ほかの各村も同時期と考えていいだろう。

ただし後述の葛西地域などと同様、史料上の乱れはあって、関八州 (現在の関東地方) の国郡の典型がここにもあらわれている。

内容史料
慶長17年(1612)最勝院の所在地を「武州新方糟壁」としている。「下総国下河辺 (下川辺)」の地名とも共存していることから明確な区別がわかる。『関東八州真言宗連判留書案』※4
天正19年(1591)寺院所在地が「武蔵国崎西郡平方郷」となっている。『平方林西寺 寺領朱印状』※5
慶安元年(1648)寺院所在地が「武蔵国葛飾郡大泊村」となっている。おおどまり安国寺 寺領朱印状 』※6
じょうきょう2年(1685)寺院所在地が「武蔵国埼玉郡大泊村」に更新されている。
慶安元年(1648)寺院所在地が「武蔵国葛飾郡大房村」となっている。おおふさ浄光寺 寺領朱印状』※7
貞享2年(1685)寺院所在地が「武蔵国埼玉郡大房村」に更新されている。
かんぶん4年(1664)「下総国 葛飾郡之内 拾五箇村」として おん村・大竹村・大道村・三野宮村・大森村・新方須賀村・大戸村・大谷村・大口村・長宮村・ましなが村・まし村・ましとみ村・中曽根村・新方袋村が含まれ、下総国のままとなっている。『阿部正春宛領知判物・目録』※8
^ ※1: 『越谷市史 第4巻 史料2』(1974) 所収、cc.44-67。著者は大沢町の福井権右衛門。
^ ※2: 慶長17年(1612) 2月吉日付、『大光寺領検地帳』、『岩槻市史 近世史料編4 地方史料 下』(1982) 所収、cc.321-322。
^ ※3: 慶長18年(1613) 11月11日付、『春日部市史 第3巻 近世史料編4』(1987) 所収、cc.136-137。
^ ※4: 慶長17年(1612) 8月6日付、『鷲宮町史 史料3 中世』(1982) 所収、#885・cc.332-333。
^ ※5: 天正19年(1591) 11月付、『越谷市史 第3巻 史料1』(1973) 所収、#420・c.446。
^ ※6: 慶安元年(1648) 9月17日付・貞享2年(1685) 6月11日、『越谷市史 第3巻 史料1』(1973) 所収、#427・cc.448-449。
^ ※7: 慶安元年(1648) 9月17日付・貞享2年(1685) 6月11日、『越谷市史 第3巻 史料1』(1973) 所収、#426・c.448。
^ ※8: 寛文4年(1664) 4月5日付、『寛文朱印留 上』(1980) 所収、#50・cc.72-73。