平安末期までに、下総国 葛飾郡から猿島郡にかけては広大な下河辺庄が成立した。広大であるのは未開発の荒れ地がそのままに取り残されていたからであり、利根川や渡良瀬川が乱流する文字どおりの氾濫原には、不安定な低湿地に無数の沼が散在していた。北部の台地上を「野方」、低地の河川流域を「河辺」と呼び、これらに対する新しい土地として古代の利根川 (古隅田川~元荒川) と中世の利根川 (古利根川) の間が「新方」と呼ばれた、とされる※1。
史料に初めてあらわれるのは久安2年(1146)『平常胤寄進状写』※2で、相馬御厨の四至牓示として「西限下川邊境」が示されている。ただし単なる地名なのか、荘園の名称なのかはわからない。『吾妻鏡』には、文治2年(1186) 3月12日の記事に引用されている『乃貢未済庄々注文』(同年 2月付) の下総国に「八条院御領 下河辺庄」がある。
また文治4年(1188) 6月4日の記事に引用されている『権右中弁定長朝臣奉書』(同年 5月12日付) にも八条院領に「下総国下河辺庄」が含まれる。成立過程の詳細ははっきりしないが、弟の政義とともに『吾妻鏡』に頻出する下河辺行平が開発し、鳥羽天皇※3か美福門院※4に寄進して成立、八条院※5に継承されたととみられる。
八条院領は建暦元年(1137) 以後、春華門院※6・順徳天皇※7と受け継がれたが、承久の乱 (承久3年,1221) に関係して鎌倉幕府に一時没収されたのち、守貞親王※8に返還され、安嘉門院※9へ継承された。さらに弘安6年(1283) 安嘉門院が死去すると、亀山天皇※10がその遺領の獲得に成功して大覚寺統の財源根拠となった。嘉元4年(1306)『大覚寺統所領目録』※11には「庁分」(八条院直轄領) として「下総国千葉庄」とともに「下河辺」が含まれる。八条院領はさらに後醍醐天皇 (南朝) へ継承された。
一方『門葉記』に所収の『妙香院庄園目録』※12の「八条左大臣家遺領」に「下総国下川辺庄」があり、記載の形式から領家職 (下位の領有権) と考えられる。建暦元年(1211) 八条院が死去したとき、その遺志に基づいて所領の一部は九条良輔※13に譲られた。その中に含まれ、下河辺庄の本家職 (上位の領有権) は皇室に留保される一方で領家職は九条良輔に継承され、さらに妙香院に寄進されたとみられる。同じく『門葉記』に所収の、建武4年/延元2年(1337)『妙香院門跡領并別相伝所領目録写』※14にも「下総国 下河辺庄」が含まれる。
家譜によれば、下河辺行平の父・行義は小山政光の弟なので、隣接する当地を開発・独立して下河辺氏を名乗るようになったとみられる。鎌倉中期になると、幕府直轄地となって執権・北条氏から派生した金沢氏に支配は移ったと考えられ、さらに一部は称名寺に寄進されてその寺領となった。文永12年(1275)『金沢実時譲状』※15によれば、実時は妻の藤原氏に「下総国下河辺庄前林・河妻両郷并平野村」を一代に限って譲っている。また、永仁2年(1294)『下河辺荘村々実検目録』※16には前年に行われた実検に基づき「下河辺御庄下方内称名寺〻領村〻」が書き上げられている。なお、建武4年(1337)『妙香院門跡領并別相伝所領目録写』には「地頭請所」とあり、領家の関与は完全に限定されている。
延元元年(1336) 3月22日付『後醍醐天皇綸旨』(模写) によれば「□□国下河辺荘内春日部郷地頭職」(□□国 = 下総国) が春日部氏に与えられた。

またこの人物はその後戦死したとみられ、同年 8月30日の後醍醐天皇綸旨※17によれば、その旧領 (春日部判官重行跡) は「若法師以下」に安堵された。したがって南北朝期も荘園として維持された部分があって、南朝の貴重な財源になったようだ。とはいえ、その末期までには実態を失い、武家による支配論理に組み込まれて鎌倉府 (鎌倉公方) の直轄地となったと考えられる。
金沢氏は北条氏 (執権北条氏) 派生の家系。兄にあたる鎌倉幕府 第3代執権 北条泰時から武蔵国 六浦庄を与えられた北条実泰からはじまるとされるが、実質的にはその子、実時からともされる。称名寺はこの実時が庄内金沢郷に建立した念仏堂が起源といい、同じく実時の創建と伝わる「金沢文庫」が境内にある。
| ^ ※1: | 『春日部市史 第6巻 通史編1』(1994)・『幸手市史 通史編1』(2002) ほか。 |
| ^ ※2: | 久安2年(1146) 8月10日付、『取手市史 古代中世史料編』(1986) 所収、#7・cc.55-57。 |
| ^ ※3: | 鳥羽上皇・鳥羽院、康和5年~保元元年(1103~1156)。 |
| ^ ※4: | 藤原得子、永久5年~永暦元年(1117~1160)。 |
| ^ ※5: | 暲子内親王、保延3年~建暦元年(1137~1211)。 |
| ^ ※6: | 昇子内親王、建久6年~建暦元年(1195~1211)。 |
| ^ ※7: | 順徳院、建久8年~仁治3年(1197~1242年)。 |
| ^ ※8: | 後高倉上皇・後高倉院、治承3年~貞応2年(1179~1223)。 |
| ^ ※9: | 邦子内親王、承元3年~弘安6年(1207~1283)。 |
| ^ ※10: | 亀山上皇・亀山院、建長元年~嘉元3年(1249-1305)。 |
| ^ ※11: | 『安嘉門院と女院領荘園』(2000, 野口, 日本史研究 456) に詳しい。 |
| ^ ※12: | 年月日不詳、建保6年(1218) 以後と推定される。『摂津市史 史料編1 考古編・古代編・中世編・近世編1』(1984) 所収、cc.101-104。 |
| ^ ※13: | 文治元年~建保6年(1185-1218)。 |
| ^ ※14: | 建武4年(1337) 4月付、『春日部市史 第2巻 古代・中世史料編』(1989) 所収、#280・cc.175-176。 |
| ^ ※15: | 文永12年(1275) 4月27日付、『春日部市史 第2巻 古代・中世史料編』(1989) 所収、#239・c.154。 |
| ^ ※16: | 永仁2年(1294) 1月付、『春日部市史 第2巻 古代・中世史料編』(1989) 所収、#247・cc.158-159。 |
| ^ ※17: | 『新潟県史 資料編3 中世1 文書編1』(1982) 所収、c.82・#249。 |