元禄国絵図の作成は、元禄9年(1696) 11月にその指示があったことからはじまる※1。このころになると、幕府・各藩とも現在まで多くの史料が残っていて、それらによれば、翌・元禄10年(1697) 閏2月に諸大名へ担当範囲などの説明があった※2。そして国絵図の作成は順次開始され、元禄15年(1702) 年12月までにすべての絵図が献上された※3。播磨国絵図が最後で、このほか駿河国絵図などもこの月まで時間を要した※4。
元禄国絵図の特徴のひとつは、正保国絵図の更新であることが明確に示されたことにあり、河川・湖沼といった自然地形のほか、新村・新道・支配関係に変化があれば書き入れることが求められる一方、それがない部分はいっさい手を加えることなく正保国絵図のとおりにすることが求められた。
また、国界・郡界について曖昧なまま放置することが許容されなかったことも大きな特徴で、当事者相互の話し合いで解決しなければ、幕府に出訴し裁許を求めるよう指示された。つまり幕府の積極的な介入が明文化された。このうち国界については、その付近だけを描いた上で、山陵など目印となる自然地形や人工物 (石柱等) についての説明を記載した専用の絵図 (『際絵図』『縁絵図』などと呼ばれた) が作成され、隣接する国絵図と突き合わせるために利用された。
絵図内の記載内容についてはすでに正保国絵図で大方定まっていたことから、たとえば村形 (小判形) に記載する石高は斗以下は省略して「~石余」と記すといったことや郡の一覧 (いわゆる『畾紙』※5) に記載する内容など、細かい部分の指定が多い。また縮尺や一里塚の表示など不徹底だった部分が改めて厳格化された。
一方で、元禄国絵図では交通情報が整理・簡略化され、正保国絵図にあったそれらの情報の多くは基本的に削除された。街道に沿って記載された町村や隣国一里塚までの距離情報のほか、冬期の牛馬通行可否・難所や渡河地点の川幅・その方法などの付加情報がこれに当たる。距離情報については縮尺と一里塚の記載が統一・厳密化されれば不要である。付加情報については街道の整備がすでに完了しているなど、ほかからより詳細な情報が得られることや、軍事的な意味合いもあるこれらの情報はもはや不要だったことが理由として考えられる。
このほか、いろは記号で各村に添えられた支配関係の情報も削除され、郷帳にも記載されなくなった。郷帳についてはさらに田畑の区別や水損等の付加情報はいっさい削除され、単純に国郡ごとの村と石高 (村高) の一覧に整理された。さらに郡名やその領域の回帰・回復が完了し、各村の呼称 (接尾辞) が基本的に「村」で統一された。もっとも呼称については、「村」に改まったか「庄」「郷」に「村」が付加されただけで、たとえば周防国でいえば数千石単位の『庄村』『郷村』がそのまま存在するなど、それらが解体されたわけではなかった。また伊勢国の「浦」「竃」など統一的に村へ改めようとしたわけではなかったようだ。
| ^ ※1: | 『常憲院殿御実紀』第34巻 元禄9年(1696) 11月23日の記事 (cc.47-48) に「勘定頭に海内輿地図を改造すべしと仰出さる (勘定頭𛂍海內輿地圖を改造𛁎へしと仰出さ𛃼)」とある。 |
| ^ ※2: | 綱貴公御譜中記事 (綱貴国絵図作製ニアタリ三州領有ノ由来ヲ述フ)、『鹿児島県史料 旧記雑録追録2』(1972)所収、#13 (cc.9-10)。 |
| ^ ※3: | 『常憲院殿御実紀』第46巻 元禄15年(1702) 12月19日の記事 (c.66) に、取りまとめた井上大和守らに「諸国絵図成功の賞 (諸國繪圖成功乃賞)」が送られた、とある。 |
| ^ ※4: | 『江戸幕府撰国絵図の研究』(1984) |
| ^ ※5: | 畾紙 (礼紙) はあくまでも絵図上の部分名称ないし様式のことであって、筆者はあまり適切な呼称とは思わない。幕府の指示においても畾紙に「郡切之村数」(郡単位の村数) を記載するように求めているが、それを畾紙とは呼んでいない。 |