7. 正保国絵図

正保国絵図の作成は、正保元年(1644) 12月にその指示があったことからはじまる。正保国絵図は当初から郷帳 (正保郷帳) とセットであり、また純粋に国絵図・郷帳を作成・収集することが目的とされた。なおこのとき城絵図なども提出・収集されているが、本稿の範囲外であるため説明は省略する。

Fig.303: 年表

正保国絵図は詳細な作成基準が記録に残っている。それによれば、郷帳とともに 2部の提出が指定され、どちらも郡の区別を行い、村ごとの石高とそれを郡で集計した石高 (村高・郡高) の記載を求められた。また絵図では本道・脇道を区別した街道とその交通情報 (冬期の牛馬通行可否・難所など)・航路、一里塚と距離情報、山・峠・河川名、渡河地点の川幅・その方法の記載が求められ、縮尺も 1里 6尺で統一、街道は朱といった彩色や山々の描写方法も指定された。港湾関係は別に詳細な細則が示された。

国界については「前回の国々の絵図には互いに異なるところがあるので、念を入れて最初の下絵図で国相互に確認し合い、是正した上で今回の絵図にすること」※1※2とあり、相互確認が求められた。しかし自主的な行動を促しているなど徹底されたものではなかったほか、未解決の場合も許容されたようで、たとえば大和国絵図 (ライデン大学図書館所蔵) では「畑江ノ内 葛尾」(天保国絵図の北葛尾村) 付近に「論所」(係争地) の記載がある。ここは現在でも三重・奈良県境が不自然に奈良県側へ突出し、三重県が奈良県に食い込んでいる部分で、次の元禄国絵図まで争論 (係争) は解決しなかった。

正保国絵図ではすでに少し触れたように下絵図がまず作成され、幕府の総責任者 (奉行) による内見も行われた。内見で問題が確認されれば、指示を受けて国許に持ち帰り、修正後に再度内見を受けることを繰り返したようだ。『江戸幕府撰国絵図の研究』(1984)によれば、備後・安芸 2国を担当した広島藩のように、最初の内見ではほとんど作り直しに近い指摘を受けたところもあった。最終的にすべて国絵図が出来上がった時期は明確ではないが、慶安2年(1649)まで時間を要した記録もあって※3、概ねこの頃までに出揃ったとみられる。郷帳では下野国郷帳のように、奥書に慶安元年(1948) の日付があることから「慶安郷帳」の呼称のほうが一般的な例もある。

「明暦の大火」と正保国絵図

江戸では何度か大火事が発生し、そのたびに街の大部分が焼き尽くされるような甚大な被害を受けたが、そのうち江戸前期のものとして有名な大火事に「明暦の大火」がある。これは明暦3年(1657) 1月に発生したもので、延焼は江戸城にまで及んで、このとき官庫や勘定所に保管されていた正保国絵図はすべて失われたという。少なくとも正保国絵図の正本は 1枚も現存しない。その後、幕府は国絵図の再提出を求めたようで、このとき特に支配関係の情報はその時点のものに更新されることがあったようだ。このことは佐賀藩の記録※4に残っている。つまり享保10年(1725) 今度は佐賀藩で火事があって控図がすべて焼失してしまったので、藩は幕府に願い出て、正保・元禄の国絵図を借用して写しを作成した。しかし佐賀藩としては正本を借りたつもりだったのに、正保国絵図については当の佐賀藩が明暦の大火後に再提出したものだった、というものである。また基本的にこれらは佐賀藩内の記録から解決されたものであって、幕府も再提出時点の情報で更新されたものを正本として扱っていたとみられる。したがって同じ正保国絵図 (の写し) であっても、その内容は正保年間(1644~1648) 当時のままなのか、それ以後の情報に更新されているのか、常に注意しなければならない。

^ ※1: 原文「此以前上り候国〻絵図、相違候所候間、念ヲ入初上り候絵図ニ国中引合、悪所なくし今度ノ絵図可致事」(『忠宗君記録引証記 四〔国絵図の作成〕』、『仙台市史 資料編2 近世1 藩政(1992)』 cc.33-34)。「国中引合」は文脈で解釈した。
^ ※2: 『松山藩法令集』(1978)内「11. 高札・制札・掟・定・条々・覚」第34号文書 (c.224) のように「国〻絵図」が「国之絵図」となっている史料も存在する。基本的に覚書がほとんどで、そのような文書ではそもそも踊り字 (反復文字) か「之」かは書いた本人にしか区別できないところがあり、これに翻刻にあたっての解釈も加わるから、結局文脈で判断するしかない。本稿では「国〻絵図」を採った。
^ ※3: 『江戸幕府撰国絵図の研究』(1984)
^ ※4: 『吉茂公譜』、佐賀県近世史料 第1編 第4巻(1996)所収、cc.156-158。