天保国絵図 (および郷帳) は江戸幕府が作成した最後の国絵図である。天保2年(1831) 12月に指示があって※1※2、実質的には翌年からまず郷帳から作成がはじまり、これがすべて出揃ってから国絵図の作成が準備されされ、天保9年(1838) までに※3に完了した※4。
国絵図の大きな特徴はその作成方式にあり、天保国絵図は元禄国絵図の分割写本を配布した上で、重ねた薄紙 (懸紙) に変更内容を記載・提出させ、清書は幕府で一括して行うという方式が採られた。様式についてはすでに元禄国絵図で確立されていたことから、大きくは変わらなかったが、これにより画風も含めて全体が統一された絵図が完成した。
また、元禄国絵図・郷帳では基本的に判物・朱印状に記載された石高が集成されたが、天保国絵図・郷帳では実際の石高が把握された。これには各村の増加分のほか、新田分 (拡張部分) も含まれ、すでに財政が窮乏していた幕府には、各国 (各藩) の生産力をより正確に把握しようという意図があったとみられる。また郷帳の提出・作成が先行したのもこうした意図があったためと考えられる。
しかしそれでは幕府が実態を正確につかめたかといえば疑わしく、各藩ともはじめかなり慎重で、互いの出方を見定めながら最終的にも手を加えた数字を示したようだ。またこれまでの対応に比べると、どの国絵図・郷帳も遅延が目立ち、何度か求めたのちに求められた回答があったりと、逆に幕府の影響力の低下をあらわにしただけだった。
とはいえ、出来上がった国絵図には天保年間の景観が反映され、郷帳には元禄郷帳からの差分情報とともに最新の村々が載ることになった。これによって、現代のわたしたちが江戸後期の地理を全国一律に俯瞰できる意義は大きい。
| ^ ※1: | 『文恭院殿御実紀』第66巻 天保2年(1831) 12月3日の記事 (『新訂増補 国史大系 第49巻』(1934) c.121) に「諸国総国高取調の事あり。所領あるともがらは大となく小となく寺社領地まで残すなくつたふべしとなり (諸國總國高取調の事あり。所領あるともがらは大となく小となく寺社領地まで殘すなくつたふべしとなり)」とある。 |
| ^ ※2: | 『文恭院殿御実紀』の内容はかならずしも明瞭ではないが、これを踏まえて元禄 (および国絵図・郷帳とは別に調査のあった享保) 以来の石高調査を告げる触書が各地に残っている。たとえば天保3(1832) 年2月『国高取調につき廻章』(『鎌倉市史 近世史料編 第1』(1986) 所収、c.41) など。 |
| ^ ※3: | 『慎徳院殿御実紀』第3巻 天保10年(1839) 1月16日の記事 (『新訂増補 国史大系 第49巻』(1934) c.198) に「諸国総国絵図の事奉はりし勘定組頭賞銀あり (諸國總國繪圖の事奉はりし勘定組頭賞銀あり)」とあり、褒賞されている |
| ^ ※4: | 『江戸幕府撰国絵図の研究』(1984) |