次に作成されたのは寛永年間(1624~1644) の寛永国絵図 (寛永の国絵図) だが、この寛永国絵図は国絵図の研究の深まりにともなって見出されたものであることや、早くから知られてきた慶長・正保・元禄・天保とは作成の経緯が異なることから区別されることが多い。また略図 (縮図) ではあるものの 68国のすべてが現存するという点にも特徴がある。
寛永国絵図は、寛永10年(1633) に幕府が諸国へ巡検使を派遣するのに先立って作成を指示され、巡検使やその使者によって回収されたか、またはその後に提出された。現存する記録によれば、この国絵図に関係すると考えられる記述は寛永12年(1635) までに集中するため、おおむね寛永10~12年(1633~1635) に作成されたと考えられている。翌年の寛永11年(1634) には郷帳も求められ、提出されたようだ。
また、寛永15年(1638) には播磨・備前・因幡・伯耆・備中・美作・備後・安芸・周防・長門の 10国に対して、より詳細化した国絵図を再提出するよう指示があった。解釈にもよるが、この再提出は日本総図 (全国図) を作成するのに必要だったためともいわれる。寛永16年(1639) には出羽国米沢領について国絵図提出の要請があった記録が残っており、時期からいって山陽・山陰各国と同様の背景だったと考えられる。再提出が 68国全体で行われたかどうかはわかっていない。
寛永国絵図の様式については、記録が残っていないため、具体的な指示があったのかも含めてわからない。しかし、現存する寛永国絵図それぞれには共通する特徴を見出すことができる。これをまとめれば以下のとおりである。
| 城下 | 城を具体的な建築物として、またさらに堀 (濠) や城下まで描くものが多く、そのサイズは実際よりも大きく周囲の縮尺を無視している。 | |
| 古城 | (背景としてではなく) 記号・オブジェクトとして表現されているものが多い。 | |
| 村 | オブジェクトは不定形の円 (真円・楕円) が多く、統一されていない。彩色も同様で、郡別の彩色がもっとも多いが、半数に満たず、支配者別のほか、同一色または無彩色で区別がないものも存在する。村名は接尾辞が省略されている場合が多い。漢字表記が大部分だが、漢字仮名交じり表記も存在する。村高は省略されていると考えられるものが多いが、記載があるものはすべてオブジェクトの中に書かれている。 | |
| 宿駅 | 区別して表記されているものがある。 | |
| 郡 | 見出し | 短冊形の枠が多い。 |
| 境界 (郡界) | 一部を除いて墨線で統一されている。 | |
| 街道 | 朱線で統一されている。しかし本道・脇道の線幅による区別と一里塚の有無は統一されていない。道程記載はないか、少ないものが多い。 | |
| 航路 | 海に接していても線で表現されていないものが多い。 | |
| 国界 (国境) | 国境 記載 | 形式が統一されていない。ただし後述の『余州図』や正保国絵図と共通する形式も散見される。 |
| 隣国 色分け | 例外を除いて彩色されていない。 | |
| 方角記載 | あり。 | |
| 川幅記載 | 道程記載と同じく、ないか、少ないものが多い。 | |
| 目録 | 有無・形式とも統一されていない。 | |
国全体の形状には何らかの変形があり、かなり不正確である。これを順に見ていけば、まず因幡・伯耆両国は方形に整えようとする意図が感じられる (特に前者は顕著である)。
これは、慶長国絵図と推定されている『慶長越前国絵図』では、越前国が画面いっぱいに描かれているのと似た印象がある。把握が未熟でどのちみ不正確な縁辺の山間部なら、潔く直線にしてしまおうということなのだろうか。複雑な海岸線や島嶼を描く伊予も、本来は西方に鋭く突き出している佐田岬を、画面に収めるために南へ折り曲げている。
正保国絵図にかなり近い形状の淡路・河内も南東端の地形が不自然で、どちらも両国ではもっとも険しい地形にあることから、わからなければ水平に直線という論理が適用されたのかもしれない。
このほか正保国絵図に近い形状の出雲・備前・備中も、全体的に丸みを帯びた形状にデフォルメされている。備中についてはさらに、南北方向の圧縮・東西方向の膨脹があって国界 (国境) は直線的である。
どれも国絵図としては未熟であり、不統一という点では寛永国絵図はあくまでも慶長国絵図の延長に存在し、まだ体系化されていないということを示唆している。これは表にまとめたように様式についても同様で、また郡が短冊形の枠の中に記載され、一部には慶長国絵図で求められた村数や内訳が記載されていることからもいえる。村のオブジェクトも不定形の円で、細長いものでも正保国絵図以降の小判形というよりあくまでも楕円であるものが多い。
一方で、郡界・街道はほぼ墨線・朱線で統一され、すでに共通仕様として認知されている。本道・脇道の区別・一里塚や道程記載については統一されていないが、逆にいえばこれらが統一される正保国絵図が寛永国絵図の延長に存在することをあらわしている。
これがはっきりわかるのが伊豆で、『寛永伊豆国絵図』では半島部分は『正保伊豆国絵図』(中川忠英旧蔵)と酷似し、特に沿岸の浜や湊についての大量の注記はほとんどが同文と思われる。この注記は正保国絵図で細則として指示されたものであり、『寛永伊豆国絵図』ではそれが先行して取り込まれていることになる。あるいは寛永年間 (1624-1644) 当時は全域が幕府直轄領だった伊豆国などの様式が共通仕様化したのだろうか。なお、酷似するとはいっても『寛永伊豆国絵図』は、村のオブジェクトに郡別の彩色がなく、郡界も墨線でないなど、正保国絵図として見ればやはり不完全である。
様式の点で興味深い寛永国絵図に阿波がある。『寛永阿波国絵図』では郡の見出しが楕円、村のオブジェクトは短冊形で、この様式は特異に映る。もっとも村のオブジェクトは『寛永淡路国絵図』と共通であり、また『慶長肥前国絵図』とも類似し、何らかの古い国絵図の系統に基づくのかもしれない。
また寛永国絵図では城を具体的な建築物として、またさらに堀 (濠) や城下まで大きく描くものが多い。これはやはり慶長国絵図と推定されている『慶長越前国絵図』や『慶長備前国絵図』と共通する。たとえば『寛永因幡国絵図』には鳥取藩・鳥取城が天守閣を含む複数の城郭として周囲の縮尺を無視して描かれている。頼りない形状は本図が写本であるためで、原本では彩色も含めて格調高く描かれていたのだろう。『寛永伊予国絵図』の大洲城や『寛永長門国絵図』の萩城も同様で、『寛永出雲国絵図』の松江城はややおとなしい。なお鳥取藩でいえば『寛永伯耆国絵図』の米子城のように、一国一城を意識して支城は記号化されている。
この点からいえば、正保国絵図と推定されている『若狭敦賀之絵図』 (および同系統の中川忠英旧蔵 若狭国・越前国 敦賀郡絵図) と松平乗命旧蔵 志摩国絵図 (および同系統のライデン大学図書館所蔵 志摩国絵図) は寛永国絵図である可能性が示唆される。
日本六十余州国々切絵図は、寛永国絵図の略図 (縮図) と考えられている国絵図である。名称は 68国欠けることなく現存する秋田県公文書館の史料名による。本稿では『余州』または『余州図』と略す。
国によって差はあるものの、たとえば最大クラスの伊予国絵図では『天保伊予国絵図』で東西714cm×南北706cmもあるなど国絵図はかなり大きく、日常的に広げて観察したり、まして携行して利用するようなことは想定されていない。一方で余州図は遥かに小さく両手で広げることができ、現代の紙に印刷された地形図と似たサイズ感をもっている。
このため余州図に含まれる情報は少ない。しかしそれは紙の大きさの制約を受けているというより、そもそも簡略化しようという強い意図が感じられる。それぞれの絵図には多くの余白があって、特に関八州と西海道 (現在の関東・九州) はこの傾向が強い。陸地には背景となる山々や主要な河川のほかは街道筋とその宿駅、城と国界付近の事物しかほとんど存在せず、これらの位置関係を知る上で必要な村々がある程度である。あるいは略図ではなく、携行するためにあらかじめ旅程に必要な情報に厳選して作成されたものなのだろうか。
山陽道・山陰道の各国は相対的に村の数が多い。このためではないのだろうが、出雲・石見のように『余州図』が『寛永出雲国絵図』『寛永石見国絵図』として紹介されているケースがある。
見比べればわかるように、島根大学所蔵の『[寛永出雲国絵図]』は『余州図』の写本のひとつであり、寛永国絵図ではない。『余州図』を寛永国絵図に含めているだけとは思われるが、両者は分けて考えるべきである。
余州図の特徴としては仮名交じりの地名表記が多い点もあげられる。これらは中世以来の表記であって、単に「略図だから」だけで片づけることはできない。この点も含めた余州図の特徴から寛永国絵図と推定される国絵図に下総・丹後の国絵図が存在する。
船橋市西図書館所蔵の『下総国 十四』は、『余州図』の下総国 (『下総一国之図』以外) と同じように「古河」「関宿」「佐倉」の 3城が存在し、「結城」(結城本郷) は共通の赤・黒・白で塗り分けられ、かつ同じ様式の凡例が存在する。一方で村の数は遥かに多く、街道や国境記載も詳細であることから、下総国の『余州図』に対応する『寛永下総国絵図』と推定される。ただし、本図と同じように『余州図』と様式が共通する寛永国絵図がほかには存在しないことも事実で、この点においてはさらに検討したい。前述のように、本図は一連の国絵図写本の一部だったと考えられることから、ほかの国絵図が発見されることが期待される。
ライデン大学図書館所蔵の『丹後国絵図』は、寛永国絵図と推定されるほかの国絵図とも異なり、真円かそれに近い形状の村のオブジェクトは、元和年間(1615~1624) までに作成されたと推定されている『下総之国図』と特徴がよく似ていて、『慶長備前国絵図』にも通じるものがある。したがってさらに古い慶長年間(1596~1615) 後半から元和年間(1615~1624) にかけてのいずれかの時期に成立したものである可能性も示唆される。
以上のように、慶長および以降の正保・元禄・天保では国絵図・郷帳の作成そのものが目的かつ直接的な指示・回収が行われたのに対し、寛永国絵図は巡検使の派遣に関係して副次的に作成され、かつ回収も巡検使によって行われたことを特徴とする。また全国に渡るかどうかはわかっていないが、国によって 2回作成されたこともほかと異なる。余州図そのものはいまのところ写しの一種である略図とみなされている以上は、寛永国絵図に直接関係するものではないが、その存在はほかにはない異質な点であり、また携行目的であらかじめ作成されたというような関係性がもし見出せれば、その評価は変わるかもしれない。