| 国界はいつ変わったのか |
9世紀はじめに確立された 68国は、そのまま近代まで経過したわけではなかった。ここではそのサカイ、つまり国界がいつどのように変動したかを時系列に追っていく。
10. 辺境の国界
辺境の国界は、曖昧であるがゆえに定着しないまま、あるいは長い時間をかけて変動した。ここでは変動を経験した木曽・伊師・置津郷・薩隅日・鶴間・小豆島の各地域を順に見ていこう。

10.3. 薩隅日 (古代): 薩摩・大隅・日向国界
薩隅日 (薩摩・大隅・日向) でも、荘園が展開されるなか、菱刈、救仁、および財部・深河の 3地域で国界が変動した。

ただしここでの国界はほとんど定着しないまま乱れてしまい、ほとんどその痕跡を留めていない。
詳細は『17. 薩隅日』を参照。
10.4. 鶴間 (高座川左岸): 相模・武蔵国界
「鶴間」は、現在でも神奈川県 相模原市と東京都 町田市にまたがる地名で、戦国期以降の相模・武蔵国界によって分割されている。もともと原野にあって国界は曖昧に把握されていたものの、相模野と多摩丘陵が尽きる当地では中世以降に開発の手が伸び、さらに在地勢力の拡大とせめぎあいのなか新しい領域認識が形成され、以後固定化されたものと考えられる。

現在でも相模原市 (相模) と町田市 (武蔵) にまたがって「鶴間」地名が存在し、相模原市の鶴間・西鶴間の間に小田急江ノ島線の「鶴間駅」がある (公式の所在地は西鶴間)。
詳細は『24.2. 鶴間』を参照。
11. 戦乱と国界
はじめに触れたように動乱の時代にあっても国界の変動は限定的である。しかし以下に示すようにその地域は多く、各地に分散している。ここではそれらを時系列に見ていくことにする。

11.5. 白山麓十八か村の東谷・西谷 (織豊期): 加賀・越前国界
室町期から戦国期にかけて、浄土真宗 (真宗) 本願寺派の門徒は組織を形成して武力蜂起した (一向一揆)。しかし天正年間(1573~1592) に入ると、織田信長の猛攻によって各地の一揆は壊滅し、加賀国の一揆も天正8年(1580) までに制圧されることになる。この過程で天正7年(1579) 7月、佐久間盛政・柴田勝政 は、手取川最上流域へ越前から谷峠を越えて侵入し、白山麓 18か村のうち東谷・西谷の 16村は征服され、越前・柴田勝家の所領に組み込まれた。これが賤ケ岳の戦い後、天正12年(1584) 丹羽長秀によって豊臣政権下の検地 (太閤検地) が実施され、加賀・越前の近世の国界は確定した。

詳細はを参照。
11.6. 吉田郷 (薩隅日): 大隅・薩摩国界
当地は戦国期から織豊期にかけて、当地は蒲生氏に対する島津氏の前線となって、大隅国でありながら薩摩国の延長のようにみなされつつあった。そこへ天正15年(1587) 3月、豊臣秀吉は大軍を率いて九州への侵攻を開始する。島津義久は抵抗を試みたものの、大軍を前に総崩れとなって撤退を余儀なくされ、同年 5月には降服した。秀吉はこれを受けて義久に薩摩国、義弘 (弟) に大隅国 (一部を除く) を安堵し、このとき大隅・薩摩国界は確定して、当地 (のち吉田郷) は薩摩国として把握されることになった。

詳細は『17.2.1. 吉田郷』を参照。
11.7. 相原 (高座川左岸): 相模・武蔵国界
鶴間の上流、相原では徳川家康の関東入国とその後の知行割を前提に、文禄3年(1594) の検地を契機として、高座川流路で分割され、北部は武蔵国として把握された。

鶴間と同様、現在でも相模原市 (相模) と町田市 (武蔵) にまたがって「相原」地名が存在し、町田市 相原町には JR横浜線の「相原駅」がある。
詳細は『24. 高座川左岸』を参照。
11.8. 桐生川 (渡良瀬川・利根川): 上野・下野国界
近世の上菱村・下菱村・小友村にあたる菱地区は、慶長3年(1598) 以後、遅くとも慶安元年(1648) までに上野国から下野国に移され、国界は東の稜線から西の桐生川へ変更された。寛永20年(1643) 榊原忠次が陸奥国 白河へ加増・転封となって、代わりに松平乗寿が入ったとき、周辺地域も含めた所領再編成のなかで国郡も見直されたと推定される。

詳細は『27.1. 桐生川 (江戸初期)』を参照。
11.9. 下妻鬼怒川東流部 (利根川・鬼怒川): 常陸・下野国界
戦国期、常陸国 関城を根拠とする多賀谷氏が勢力を強めて南下し、下妻城を拠点に下総国へ領域を拡大し、両国にまたがった多賀谷領が成立した。しかし天正17年(1589) 多賀谷重経・宣家親子と三経 の二派に分裂し、慶長6年(1601) 関ケ原の戦い後、佐竹義宣に従った前者は没落 (重経)・退去 (宣家) を余儀なくされた。他方、結城秀康に従った三経は加増となったものの越前国 北庄 (現在の福井) へ移ることになった。
これによって当地の領域認識は曖昧化し、初期の国絵図にはその混乱がそのまま反映され、慶長9年(1604) の検地で確定する近世の常陸・下総国界は北へ移された。

詳細は『27.6.2. 下妻鬼怒川東流部』を参照。
11.10. 烏川 (渡良瀬川・利根川): 上野・武蔵国界
利根川に烏川・広瀬川が合流する付近では、寛永年間(1624~1644) 上野・武蔵の国界が北へ移動した。葛西がそうだったように関東の領域認識は、後北条氏の滅亡・徳川家康の入国以来、江戸初期は渾沌としている。当地ではこれに河川の乱流も加わって混乱していたものが寛永年間(1624~1644) に見直されたとみられる。

詳細は『27.2. 烏川』を参照。
11.11. 高椅 (利根川・鬼怒川): 下総・下野国界
天正年間、後北条氏 (小田原北条氏) の支配下に置かれた小山氏の本拠・祇園城は、豊臣秀吉の小田原城攻撃の過程で天正18年(1590) 結城晴朝によって攻略され、小山氏は滅亡した。これによって、小山氏の旧領は結城領に組み込まれ、下野・下総の 2国にまたがる領域が形成されることになる。しかし慶長5年(1600) 関ケ原の戦い後、論功行賞で加増・転封となって結城晴朝・秀康は越前国 北庄 (現在の福井) へ移ることになり、当地一帯には空白域が生じて下総・下野国界は曖昧化した。その後、高椅地域では寛永14年(1637) に検地が行われ、下野国として把握された。

詳細は『27.6.2. 高椅』を参照。
11.12. 渡良瀬川 (渡良瀬川・利根川): 下野・上野国界
寛文8年(1668) 渡良瀬川 (現在の渡良瀬川本流の流路) と矢場川 (古代の渡良瀬川本流の流路) の間に位置した村々のうち下流部 (東部) の村々は、下野国から上野国に移された。

詳細は『27.3. 渡良瀬川』を参照。
11.13. 桐生川 (渡良瀬川・利根川): 上野・下野国界
近世の上菱村・下菱村・小友村にあたる菱地区は、寛文8年(1668) 再び下野から上野国に移された。

しかし延宝元年(1673) には三たび国界は変動し、菱地区は下野国に戻った。

詳細は『27.4. 桐生川 (寛文8年・延宝元年)』を参照。