| 国界はいつ変わったのか |
9世紀はじめに確立された 68国は、そのまま近代まで経過したわけではなかった。ここではそのサカイ、つまり国界がいつどのように変動したかを時系列に追っていく。
10. 辺境の国界
辺境の国界は、曖昧であるがゆえに定着しないまま、あるいは長い時間をかけて変動した。ここでは変動を経験した木曽・伊師・置津郷・薩隅日・鶴間・小豆島の各地域を順に見ていこう。

10.1. 木曽: 美濃・信濃国界
これはいまの岐阜・長野県境に相当する。周知のとおり、木曽あるいは木曽路・木曽谷は現在、基本的に長野県に含まれる。しかし古代は美農国、つまり岐阜県の範囲に含められていた。もっとも、美農国府から離れた木曽は未開発の辺境であって、その所属は当初から曖昧だった。中世以降はさらにはっきりしなくなり、その間に信濃国を根拠とする勢力の影響が強まって、最終的に近世は信濃国の一部として把握されることになった。

詳細は『14. 木曽』を参照。
10.2. 伊師: 播磨・美作国界
伊師は現在の兵庫県 佐用町の石井地区にあたる。山深いところにあって観光地ではないので、馴染みのある人は少ないと思われるが、鉄道趣味の面々には智頭急行線が通っているところといえば、すぐにわかるかもしれない。佐用駅から北上する智頭急行線は大原駅へ向かうが、その途中の石井駅があるのが当地で、この先で越えるのが現在の兵庫・岡山県境であり、古代の播磨・美作国界である。

古代から中世にかけて荘園が展開されるなか、ここでは緩やかな峠を越えて開発の手がおよび、しだいに国界は曖昧になって伊師は美作国の一部とみなされるようになった。
詳細は『15. 伊師』を参照。
10.3. 置津郷: 安房・上総国界
安房・上総国界も古代から中世にかけて変動した。古代、置津郷は海路を前提に安房国から連続した土地とみなされた。しかし荘園の展開にともなって、上総国の開発が夷隅川上流にも及ぶようになると、やがて置津郷もその一部に組み込まれた。

変動した国界は現在の鴨川市と勝浦市の市境に相当する。JR外房線では鵜原・上総興津・行川アイランドの 3駅がある区間で、「上総興津」とあるように安房国であった記憶はずいぶん遠い。
詳細は『16. 置津郷』を参照。
10.4. 薩隅日 (古代): 薩摩・大隅・日向国界
薩隅日 (薩摩・大隅・日向) でも、荘園が展開されるなか、菱刈、救仁、および財部・深河の 3地域で国界が変動した。

ただしここでの国界はほとんど定着しないまま乱れてしまい、ほとんどその痕跡を留めていない。
詳細は『17. 薩隅日』を参照。
10.5. 鶴間 (高座川左岸): 相模・武蔵国界
「鶴間」は、現在でも神奈川県 相模原市と東京都 町田市にまたがる地名で、戦国期以降の相模・武蔵国界によって分割されている。もともと原野にあって国界は曖昧に把握されていたものの、相模野と多摩丘陵が尽きる当地では中世以降に開発の手が伸び、さらに在地勢力の拡大とせめぎあいのなか新しい領域認識が形成され、以後固定化されたものと考えられる。

現在でも相模原市 (相模) と町田市 (武蔵) にまたがって「鶴間」地名が存在し、相模原市の鶴間・西鶴間の間に小田急江ノ島線の「鶴間駅」がある (公式の所在地は西鶴間)。
詳細は『24.2. 鶴間』を参照。
10.6. 小豆島: 備前・讃岐国界
小豆島は本来、備前国に属していたが、南北・室町期以降、讃岐国守護・管領細川氏の勢力下に置かれ、その領国の一部に組み込まれた。もっとも瀬戸内海では淡路島に次ぐ大きさを持つ小豆島は、備前か讃岐かというより、小豆島という独立した地域を構成するようになって国界は曖昧化した。この状況は江戸期に入っても変わらず、幕府は当初から讃岐国として把握していたとみられるものの、在地の認識とは元禄年間(1688~1704) を過ぎてようやく一致した。

詳細は『26. 小豆島』を参照。