甲府盆地と諏訪盆地の間に険しい峠は存在せず、回廊状に接続している。

上は回廊部分について標高900~1,100メートルを強調して示したもので (標高900メートル以下と 1,100メートル以上の分解能はない)、わずかに高い地形 (森) が対峙する部分に分水嶺がある。変動前の甲斐・信濃国界は、東西どちらの水系も尽きる原野、いいかえれば双方の領域が広がってなお空白として残るところに生じたのだろう。これは上総・下総国界の状況 (『28.1.4. 下総台地』を参照) と同じで、明確になるのは新田・牧・鷹場としての活用が進行する過程においてである。甲斐・信濃国界も同様で、江戸期に開発された新田の分布からもそれがいえる。
『神使御頭之日記と堺川』には享禄元年(1528) の出来事として以下のような記事がある。
神使御頭之日記① 八月廿二日ニ武田信虎堺ヘ出張候テ、蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同廿六日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ、同晦日ニ神戸堺川一日ノ内ニ二度合戦候テ、朝神戸ニテハ諏方負候、晩堺川ニテ諏方打勝 |
これによれば、享禄元年(1528) 8月22日、武田信虎・諏訪頼満が衝突し、頼満は朝に神戸で負けたが晩には「堺川」で勝ったという。この「堺川」は分水嶺上を流れる現在の松目沢と考えられ、境界になり得る「堺川」が流れていたから国界が定まったのではなく、国界の上を流れているから目印として「堺川」と呼ばれたのだろう。
回廊部分の両側はこの国界の延長上に設定される。西 (南) は松目沢とそれをさかのぼった先の南アルプス (赤石山脈) の稜線であり、東 (北) は八ケ岳の裾野を放射状に流れ落ちる沢の分水嶺である。前者は松目沢の部分、後者は全体として回廊部分と動揺に漠然と把握されていたと考えられる。
変動前の甲斐・信濃国界について、これを立場川~釜無川とする考え方も存在する※1。しかしこの考え方は、変動後の国界が甲六川~釜無川であることから変動前の国界も河川であったに違いないという先入観と、境界は明瞭な地形でなければならないという思い込みに支配されている。あるいは近現代の視点で上空から見下ろしていることも原因かもしれない。
河川の上流部では水域は一体的に把握され、境界になることは少ない。『14. 木曽』 『15. 伊師』 『19. 白山麓十八か村の東谷・西谷』 『22. 根羽村』 『25. 依上保』で取り上げた変動域や、地名だけを紹介した大寸又 (千頭・井川、遠江・駿河) などが好例である。それぞれの地域が一体化した要因は一概にはいえないし、多分に相対的なものだが、河川がもはや移動の制約にならない一方、わずかな谷底平野を両岸で分割してはもはや生活が成り立たないからだろう。立場川は一見すると規模の大きい河川に思えるが、これは川が流れる谷を上空から巨視的に見ているからであって、立場川それ自体は小さな流れであることは降り立ってみればわかる。
また、変動前の甲斐・信濃国界を立場川~釜無川とする考えた場合、立場川にしろ釜無川にしろ、視点の動かし方を下流から上流へ向かう方向に固定していないだろうか。釜無川の場合、横岳峠付近で南アルプス (赤石山脈) に達したらそのまま稜線を南へたどっていくことになるが、反対方向からたどった場合、そこで釜無川の谷へ向かうことをうまく説明できない。そのまま稜線をたどって入笠山を過ぎてから松目沢の谷へ降りていくほうが合理的だろう。なぜならそこは諏訪湖 (諏訪盆地) と甲府盆地の分水嶺なのだから。
『神使御頭之日記』は、享禄元年(1528) から天文23年(1554) まで、諏訪大社上社の祭礼を担った郷と関係する情報、および諏訪に関係する事件等を書き留めた私記※2。その享禄元年(1528) の出来事 (武田信虎と諏訪頼満の衝突) と「堺川」ついてはすでに取り上げたとおりだが、天文4年(1535) の和解についても以下のように記述している。
神使御頭之日記② 武田信虎ト碧雲斎於堺川ニ参会、当社御宝モタセラレ、於堺川ニ御宝鈴ヲ被仰候」(中略)「信虎・碧雲両所ノ間ニテ神長申立ツカマツリナラシ申候、堺川マテ御宝御越候事往古ヨリ是始ニ候、彼川ノ北ノハタテナラシ申候 |
これによれば、武田信虎と碧雲斎 (諏訪頼満) が「堺川」で参会するにあたり、前例のないことだったが諏訪大社上社の宝鈴が北の川辺まで持ち出されて両者の間で鳴らされたという。この「「堺川」は同じ私記の近い時期に記されている以上、享禄元年(1528) の「堺川」と同じ川を指していると考えられる。なお現存する宝鈴は鉄鐸を 6つ束ねたものであり※3、おそらく当時も同じようなものだっただろう。
『神使御頭之日記』の堺川 (松目沢) は諏訪地域か、もっと狭ければ諏訪大社上社が認識するだけだったかもしれない。諏訪大社上社から堺川へは距離があるが、御射山神戸やその後背の原山 (神野) の存在からいえば心理的に近しいものだったかと想像される。
国道20号の茅野市コミュニティバス・木舟入口バス停付近から西を向くと、『諏訪史 第3巻』(1954) の写真「しらざれ城址」と同じ山が見える。宮川の曲流部が山をえぐるような地形であり、確かに山城に向いている。
| ^ ※1: | 代表するものとして『戦国大名武田氏の研究(1993, 笹本)』所収の『堺川の位置をめぐって』がある。 |
| ^ ※2: | 『新編信濃史料叢書 第14巻』(1976) 所収。 |
| ^ ※3: | 諏訪大社上社宝物殿に展示されている。 |