昭和30年(1955)※1岐阜県 恵那郡 三濃村のうち、近世 美濃国 恵那郡の浅谷・須渕・一色・野原各村にあたる地域は愛知県 東加茂郡 旭村に編入された。旧・県境はかつての美濃・三河国界にあたる。もちろんこの時点で美濃国も三河国も地域区分としては用いられておらず、変動があったのは県境だけである。なお残余は岐阜県 明智町に編入された。

旧・三濃村は、浅谷村 (近世 浅谷・須渕 2村)・野原村 (野原・一色 2村)・横通村 (颪・柏尾・岩竹・安・土助・才坂の 6村) の合併により成立した。岐阜県編集の『岐阜県町村合併史』(1961/1987) よれば、岐阜県における町村制施行は明治22年(1889) 7月1日であり、旧・三濃村も同日に合併・成立した。しかし愛知県編集の『市町村沿革史』(1968) は、これを明治23年(1890) 5月1日としている。ごく自然に考えて岐阜県の情報が正しいが、愛知県が何によって明治23年(1890) 5月1日としたのかはわからない。なお愛知県における町村制施行は明治22年(1889) 10月1日なので、これに引きずられたわけでもない。
同じ角川日本地名大辞典でも『角川日本地名大辞典 21 岐阜県』(1980) では明治22年(1889) だが、『同 23 愛知県』(1989) では明治23年(1890) となっている。『旭町誌 通史編』(1981) では混在し「村落誌」では明治22年(1889) だが、「行政・財政」「年表」では明治23年(1890) となっている。
| ^ ※1: | 昭和30(1955) 年4月1日付。 |
| ^ ※1: | 天保郷帳では「古者小路志須淵村」と付記され、元禄郷帳では「小路志須淵村」。 |
| ^ ※2: | 明治6年(1873) 合併し横通村、したがって対応する近代の大字は「横通」。 |
| ^ ※3: | 明治8年(1875) 浅谷村に編入、したがって対応する近代の大字は存在しないが、昭和30年(1955) 旭村編入時に「須渕」として分離。 |
| ^ ※4: | [中世~織豊期] 明徳元年(1390): 「美濃國遠山庄手向鄕之內」の「安主名」(足利義満袖判御教書写、恵那市史 史料編,1976)、ほか。 |
| ^ ※5: | 現在の表記は「安主」。 |
| ^ ※6: | 明治8年(1875) 野原村に編入、したがって対応する近代の大字は存在しないが、昭和30年(1955) 旭村編入時に「一色」として分離。 |
| ^ ※7: | 昭和30年(1955) 上切・上中切・下中切・下切・島崎に分離、野原は消滅。近世も同様に集落が分かれていた。 |
『恵那郡史』(1926/1982) には野原村について以下のように記載されている。
恵那郡史 この地もと三河國であつた。それが美濃國の內となつたについて、この地方では次のやうに傳へられてゐる。それは足利將軍の威勢やうやく輕く、地方亂れて豪强の族は互に割據する頃であつた。東三河の山間部のさる大名はその姬を、霧ケ城主なる遠山氏に遣した。矢矧の流れを渡つて遠く水晶山下に遠山の若殿と伉儷相契る姬の門出に、その化粧料として割き與へた地が野原の一邑であるとか。それかあらぬか今三濃村高瀨家にある毘沙門天の棟札には、長祿三年三州賀茂郡足助庄仁木鄕野原村とあるといふ。 |
これらによれば過去にこの地域でも国界の変動があった可能性が示唆される。しかし伝承は伝承であることを差し引いても具体性に乏しく、記載されている以上の検討はできない。なお同じ内容を口語訳したものが『旭町誌 資料編』(1981) でも紹介されている。同誌によれば、近世 野原村の一部である上切 (現在の豊田市 上切町) に高瀬姓が 2世帯含まれ、地図に「毘沙門堂跡」があるのは確認できる。また『岐阜県町村合併史』(1961/1987) によれば「殊に三濃村大字野原の区域は、かつて旭村とともに三河国に属し、旭村八幡社の同一氏子として、その祭神を中心に日常のまじわりが深かい関係にあった」という。