19.3. 国界の曖昧化

めいれき元年(1655) からかんぶん8年(1668) にかけて、近世 越前国 大野郡 牛首村・風嵐かざらし村と加賀国 能美郡 ぞう村との間で「白山争論」が再燃し、最終的に福井藩と加賀藩の対立 (または松平家と前田家の対立) にまで発展した。

白山争論

白山 (御前峰ごぜんがみねおおなんじみねけんみねの総称) は古くから信仰の対象とされ、その頂上の社殿を維持・管理する権利をめぐってしばしば争いが起こっていた。権利を得れば、参拝者 (登山者) から直接的に得られる利益 (奉納された金銭や進物など) を独占し、山林資源も優先的に利用することができたという。牛首村・風嵐村と尾添村も戦国期のころから対立が目立つが、これは牛首村・風嵐村の介入に起因する。牛首村・風嵐村はぜんじょうどうと呼ばれる登山道※1から外れたところにあって、本来白山信仰に直接関係する立場にはなかった。

これについて徳川政権 (江戸幕府) は、越前藩の預かりとなっていた東谷 (牛首谷)・西谷 (丸山谷) 16村はその扱いを解除、加賀藩には尾添谷 2村の代替となる所領を与えてた上で、18村をまとめて直轄支配するものとした。このため 18村は「白山麓十八か村」として集合的に把握されるようになり、その国郡は徐々に曖昧になっていくことになった。

たとえば延宝元年(1673) 『白山麓一六カ村めんじょう目録』には「白山麓牛首谷・丸山谷御蔵入拾六ケ村」※2、元禄7年(1694)『なり可納おさむべき割付状』※3には「白山麓丸山村」、元禄10年(1697)『白山争論に付尾添村訴状控』※4に 「白山麓尾添村」とある。ただし『白山麓一六カ村免定目録』では「拾六ケ村」とあるように東谷・西谷 (越前国) の 16村についての文書であり、尾添谷 2村 (加賀国) とは区別されている。『白山争論に付尾添村訴状控』では「加賀国能美郡白山麓尾添村」ともある。また、元禄11年(1698)『尾添村と出入のうけがき※5には「越前国大野郡牛首村」「同国同郡風嵐村」「加州尾添村」、同18年(1705)『皆済目録』※6には「越前国大野郡白山麓 丸山村」、寛保3年(1743)『白山争論に付尾添村へ過料銭申付覚』※7には「加賀国能美郡尾添村」ともあって、国郡による表記も失われていない。

しかし、天明3年(1783)『二口村五人組御仕置帳』※8に「加賀・越前国白山麓 二口村」(『越前』『加賀』は併記) とあるのをはじめとして、文化15年(1818)『瀬戸村村民盗難屈』『 瀬戸村村民葉煙草盗難届』※8に「越前加賀白山麓瀬戸村」「越前・加賀白山麓瀬戸村」(同)、文政5年(1822)『三村山一件訴状およびすみくちしょうもん』に「越前・加賀白山麓五味島村」(同)「同断釜谷村」「同断女原村」「同断深瀬村」「同断鴇ケ谷村」「同断杖村」「同断尾添村」「同断牛首村」、安永6年(1823)『年貢米金皆済目録』※9に「越前加賀白山麓 須納谷村」とあるように、江戸後期には「白山麓」のほか「加賀・越前」を冠称することが多くなっていく。これは郷帳でも同様で、元禄郷帳では何も冠称しないが、天保郷帳ではすべて統一的に「越前・加賀 白山麓」を冠称している (『越前』『加賀』は併記、国絵図では何も冠称しない)。

「白山麓十八ケ村」については、享保17年(1732)『取次元帯刀由緒口上書』※8に「白山麓拾八ケ村」とあり、これが初出かと思われる。元文元年(1736)『福井藩御預所より木滑関所通行規定に付書状』※8では「越前・加賀国白山麓 拾八ケ村」(『越前』『加賀』は併記) といった表現も使用されている。

加賀藩

寛文8年(1668) 尾添・荒谷 2村の代替として加賀藩に与えられたのは、遠隔地である近江国 高島郡 海津中村町 (現在の高島市 マキノ町海津付近) の一部が与えられた※10。しかし当地は琵琶湖の重要港の一角であり、すでに近隣の今津村・弘川村 (同じく現在の高島市 今津町今津と今津町弘川の付近) を持っていた加賀藩にとっては何ら支障なく、むしろ面倒ごとばかり起こす尾添・荒谷の 2村を手放すことができて好都合だったようだ※11

福井藩

寛文8年(1668) の裁定で、福井藩は預かりだった東谷・西谷の 16村についてその扱いが解かれただけだった。このため代替となる所領は与えられていない。この得失の評価は難しいが、基本的には一時的かつ幕府の裁量によって変更されうる土地の、しかも実入の小さいわりには面倒な土地がなくなっただけであって、影響はほとんどなかったかと思われる。なおこの預かりは、転封により寛永21年(1644) から勝山藩が存在しなかったことによるものであり、「勝山御領分」などと総称されていた※12

文化2年(1805)『白山麓の唱に付十郎右衛門書上』※13には、「ほん御役所」に対して、以下のような見解が示されている※14

白山麓の唱に付十郎右衛門書上

白山麓 尾添村・荒谷村の 2箇村について、元禄年間(1688~1704) まで『加賀国 能美郡』だったのに、その後どういった理由で『白山麓』を称するようになったのか

原文: 白山麓尾添村・荒谷村弐ヶ村之儀者、元禄年中迄ハ加賀國能美郡ニ有之候処、其後何を之訳を以白山麓と唱候哉

右両村 (尾添村・荒谷村) については、往年は加賀藩領で国郡は加賀国 能美郡でありましたところ、寛文年間(1661~1673) となる前より、白山について尾添村と牛首・風嵐 2村の間で争いになり、*中略* このとき尾添・荒谷両村白山と一体に公料 (公領、幕府直轄領) になりました。*中略* しかしながら右両村 (尾添村・荒谷村) は以前加賀国 能美郡でありましたので、公料 (公領、幕府直轄領) となっても以前と同じように能美郡としばらく称したかと思いますが、そもそも白山麓十八か村は往年加賀領で、国郡は加賀国 能美郡だったところ、天正年間(1573~1592) に越中領となったという経緯があるのです。したがって現在は越前国 大野郡ではありますが、*中略* 郡の代わりに「白山麓」と書いたほうがわかりやすいのでそのようにしており、*snip* 右 2か村 (尾添村・荒谷村) も 18か村の一部ですから、郡の代わりに「白山麓」と書いています。以前より寺社関係の国郡は加賀国 能美郡との通達を受けていますから能美郡を称し、かつまた公儀 (幕府) から (村々について)「白山麓」と書くのは差し障りがあり、郡を書くよう仰せ付けられていますから、その場合は「大野郡 白山麓」と書いています。

右両村之儀、先年者加賀御領分、土地能美郡ニ御座候処、寛文年号前、白山之儀ニ付尾添村と牛首・風嵐、此両村申分ニ相成、*中略* 其節尾添・荒谷両村白山と一集ニ御公料ニ相成、然所右両村前々加賀国能美郡ニ御座候得者、御公料ニ相成候而も前々ゟ相唱候能美郡と暫相唱候哉ニ候へ共、元来白山麓十八ケ村之儀者先年加賀領ニ候得者、土地郡者加賀能美郡ニ候得共、天正年中ニ越前江罷成候得者、今ニ而者郡者大野郡ニ御座候、然処 *中略* 郡之替りニ白山麓と書候得者相分り申ニ付、*中略* 右弐ケ村も十八ケ村之内ニ候得者、白山麓と郡之替りニ書上来申儀ニ御座候、前々ゟ土地能美郡之伝達を以、寺法ハ能美郡と唱申候、且又御公儀様ゟ白山麓斗ニ而者相成不申、郡を書候様被仰付事御座候而者、大野郡白山麓ニ而御座候。

これによれば、十郎右衛門 (白山麓十八か村の支配的位置にあった人物) は白山麓十八か村の全体を越前国 大野郡とみなしており、誤った認識を示している。しかしこれは、藩領と国郡の区別が未熟であることに加えて、織豊期の変動により加賀国から越前国になった経緯や、そこに近世 越前国 大野郡 16村と加賀国 能美郡 2村からなる「白山麓十八か村」という領域が生じたこと、寺社関係はそのまま加賀国 能美郡として把握されたままだったことも起因し、理解の難しい状況にあったのは確かなようだ。

禅定道・馬場

ぜんじょうどうは加賀・越前・美濃の 3国からそれぞれあり、加賀禅定道・越前禅定道・美濃禅定道と呼ばれた。また禅定道の起点を馬場ばんばといい、加賀馬場・越前馬場・美濃馬場はそれぞれ現在のしらやま神社・へいせんはくさん神社 (正式には単に『白山神社』)・ながたきはくさん神社であり、神仏分離前の寺院としてはそれぞれはくさん・平泉寺・長瀧寺ちょうりゅうじである。越前国を経由する美濃禅定道には、途中の石徹白に所在するはくさんちゅうきょ神社が拠点として加わる。なお神仏習合であることにはほかと変わらないが、この白山中居神社だけ神職による支配であり、別当寺 (神宮寺) は存在しなかった。

禅定道・馬場神社備考
加賀はくさんしらやま神社白山本宮。白山寺は神仏分離の過程で廃され現存しない。
越前へいせん平泉寺はくさん神社同じく平泉寺も現存しない。現在の正式名称は単に「白山神社」。
美濃長瀧寺ちょうりゅうじながたきはくさん神社白山中宮。美濃禅定道は直接白山へ達しておらず、越前・加賀を経由する。そのためかはわからないが、戦乱・争論に巻き込まれず、明治初期の混乱も比較的平和にやり過ごして寺社ともに現存する。
(石徹白)なしはくさんちゅうきょ神社仏像・仏具は存在し、神仏分離の混乱はあった。
Fig.204 三馬場と三禅定道
^ ※1: 『白山の自然誌 21 白山の禅定道』(2001) など。
^ ※2: 延宝元年(1673) 1月付、『石川県尾口村史 第1巻・資料編1』(1979) 所収、近世#27-1・c.292。『牛首谷』『丸山谷』は併記。
^ ※3: 元禄7年(1694) 11月付、『新丸村の歴史』(1966) 所収、c.46。
^ ※4: 元禄10年(1697) 7月付、『白山史料集 上巻』(1979) 所収、cc.205-207 (#7『白山一巻留書』cc.201-220内#7)。
^ ※5: 『白峰村史 下巻』(1959) 所収、cc.483-484。
^ ※6: 『新丸村の歴史』(1966) 所収、c.48。
^ ※7: 『石川県尾口村史 第1巻・資料編1』(1979) 所収、近世#22-34・c.268。
^ ※8: 『石川県尾口村史 第1巻・資料編1』(1979) 所収。
^ ※9: 『新丸村の歴史』(1966) 所収、c.47。
^ ※10: 『白山争論記』(白山史料集 上巻(1979)、#26・cc.258-265) 所収史料、『白山収公一件』(白山所属争議(1934)、cc.28-72) 所収史料など。
^ ※11: 『石川県尾口村史 第3巻・通史編』(1981)
^ ※12: 『越前国知行高之帳』『福井県史 通史編3 近世1』(1994)
^ ※13: 『石川県尾口村史 第1巻・資料編1』(1979) 所収、近世#45・cc.310-311。
^ ※14: 中黒を含む句読点は筆者が適宜追加・調整。(あれば) 括弧内は割注。