19.1.1. 変動の要因と時期: 天正12年(1584)

室町期から戦国期にかけて、浄土真宗 (真宗) 本願寺派の門徒は組織を形成し、近畿・北陸・中部の各地で支配者に対して武力蜂起した (いっこう一揆いっき)※1。特に加賀国では、ちょうきょう2年(1488) 守護のがしまさちかを倒して門徒が自ら国を経営する体制を確立し、内紛や変質を経験しながらも長く持ちこたえた。しかしてんしょう年間(1573~1592) に入ると、織田信長の猛攻によって各地の一揆は壊滅し、主導する石山本願寺も籠城戦に追い込まれるなど周辺状況は悪化していった。天正3年(1575) には信長によって加賀の一揆も南部を制圧され、天正7年(1579) には柴田かついえ・佐久間もりまさ (勝家の甥) が越前から本格的に侵攻、次々に拠点を攻略していった。

同年 7月には、盛政と柴田かつまさ (盛政の実弟、同じく勝家の甥だがその養子となった) が手取川最上流域へ谷峠を越えて侵入した。これに対して在地勢力の加藤藤兵衛は降服したので盛政は受け容れ、加藤が東谷・西谷を引き続き支配することを許して安堵した。この結果、東谷・西谷の 16村は柴田勝家の所領に組み込まれた。

備考
東谷 (牛首谷)島・うしくびしもわら鴇ケ谷とがたにふかかまたにしまふたくちおなばら・瀬戸・風嵐かざらし牛首川 (手取川最上流の別称) の谷筋。ただし瀬戸村は地形的には尾添谷にある。
西谷 (丸山谷)須納谷すのだに・白山しんつえ・丸山・はら大日川 (手取川支流) の谷筋。
尾添谷尾添・荒谷尾添川 (手取川支流) の谷筋。

勝家の越前国支配は天正11年(1583) はじめまで継続した。しかし天正10年(1582) 6月の本能寺の変とその後の清洲会議を経て、秀吉との対立が激化し、天正11年(1583) 4月に入って本格的な戦闘に発展すると、勝家は敗れて北庄で自害した (しずたけの戦い)。佐久間盛政も敗走中に捕らえられて殺害されたという。

その後、越前国 北庄にはながひでが入って、天正12年(1584) 豊臣政権下の検地 (太閤検地) が実施された※2。このとき柴田勝家以来の領域認識が国郡に反映され、加賀・越前の近世の国界は確定した。『越登賀三州志』は以下のように説明している※3

越登賀三州志

柴田勝家、越前の主たる時、の甥・佐久間盛政、天正三年の頃加州の谷峠 (加・越分界の地。属大野郡) よりえて働き入るに、石川郡吉野むら等八邑不從之これにしたがわず。(八邑とは中宮・木滑・市原・瀨浪・・吉野・尾添・荒谷、是也 *中略* 能美郡風嵐等十六邑は從之これにしたがい、以來勝家領となり、同十一年勝家北庄きたのしょうほろぶる後もなお越前に屬すればなり。(秀吉公、勝家をち、ながひでに越前を賜ふ時、秀吉公檢地を命ず。長秀、白山下十六邑をも共に檢地して、高六十八萬二千六百五十四石の內十六邑を高辻には二百三十石五斗五升二合にきまり、此の時專ら越前大野郡ととなふと也。れば此の時、せい加・越の國界を失ふに似たり)

また『白山下御公領等之覚書』は以下のように説明している (同)。

白山下御公領等之覚書

柴田勝家、越前ニ鎮タリシ時、其甥・佐久間げんしばしば越前谷峠ヲ越テ加州ヘ働ラク、このとき十六邑ハ従カヒシヨリ、ツカラ越前ニ属スルナルヘシ、勝家ほろびながひでコレヲ領ス、このとき秀吉公ノ命ヲ奉シテ越前国ヲ検地スルニ、この十六邑ニモ及フ、共ニ打立六十八万二千六百五十四石、内十六邑ノ高辻ハ、二百三十石五斗五升二合ニマリ、このとき越前大野郡トとなフル由

上記に先立って「同十一年勝家北庄きたのしょうほろぶる後もなお越前に屬すればなり」(『越登賀三州志』)・「ツカラ越前ニ属スルナルヘシ」(『白山下御公領等之覚書』) とある「越前」は、国郡ではなく越前領 (柴田勝家領) を指しているのだろう。

なお、残る尾添谷 (近世 ぞうあらたにの 2村) は、東谷・尾添谷が合流する付近の村々 (近世 吉野・なみ・市原・木滑きなめり・中宮の 6村) とともに抵抗を続けたが、天正10年(1582) に殲滅された。

一向一揆

浄土真宗 (真宗) 本願寺派の門徒による組織化された武力蜂起・闘争、およびその集団の総称。ぶんめい6年(1474) から天正8年(1580) までの一世紀にわたって、僧侶や門徒の農民が在地の小勢力と連合して支配者 (荘園領主・守護大名・戦国大名) に対抗した※1。開始を金森一揆 (金森合戦) のかんしょう6年(1465) とする場合や、終結を加賀のぞう・荒谷・吉野・なみ・市原・木滑きなめり・中宮の 8村 (荒谷を尾添に含める場合は 7村) が殲滅された天正10年(1582) とする場合もある。

越登賀三州志

富田かげちか著の越中・能登・加賀の史書・地誌。『重訂 越登賀三州志』(1933/1973) の解説および『改訂増補 加能郷土辞彙』(1956)によれば、原書はかんせい10年(1798) から部分ごとに順次脱稿していったとされ、ここで関係する『本封叙次考 (本邦叙次考)』は序に文化9年(1812) の日付がある。

白山下御公領等之覚書

しらやま神社記録』※4としてまとめられている文書のひとつで、文化11年(1814) の日付がある。著者は田辺まさおの

^ ※1: 『本願寺と一向一揆』(1986)『本願寺百年戦争』(1976) など。
^ ※2: 『福井県史 通史編3 近世1』(1994)
^ ※3: 中黒を含む句読点は筆者が適宜追加・調整。(あれば) 括弧内は割注。
^ ※4: 『白山史料集 上巻』(1979) 所収、#25・cc.247-258。『白山下御公領等之覚書』は細目#7・cc.247-249。