律令制にもとづく地理区分は、68国が確立・固定化した時点で「国郡郷」、つまり「国 (クニ)」「郡(コオリ/グン)」「郷(サト/ゴウ)」であり、これが荘園制の解体や、その後のいわゆる「村切り」によって江戸期の元禄年間(1688~1704) までには「国郡村」、つまり「国」「郡」「村(ムラ/ソン)」に落ち着いた。「村」は行政上認識される領域単位のうち最小のものである。
この「村」を検討する場合、一般には『旧高旧領取調帳』が多く利用されるが、本稿では『天保郷帳』を基本とした。これは「国」のサカイを探求するのに『国絵図』は必須であり、そうであれば『国絵図』とセットで存在する『郷帳』が自然と選択されるからである。『国絵図』に描かれた村々はその台帳である『郷帳』の村々とかならず 1:1 (厳密には N:1) に対応する (国絵図・郷帳の詳細はあとで扱う)。しかしそればかりではない。
筆者にとって『旧高旧領取調帳』で困るのは、明治初期に行われた国郡の再編と村の分合が反映されてしまっていることで、しかもそれがまちまちで基準がないことにある。また能登・越中※1・ 但馬・出雲・石見・隠岐・豊前・豊後と、丹波の氷上・多紀 2郡が欠けているので、結局『旧高旧領取調帳』の村を全国で統一された「単位」にすることはできない。また1969~1979年に木村礎が校訂・翻刻した刊行本や、それをもとに電子化されたデータベースを前提とする場合、村名の正規化 (明治期の情報による校訂) が行われ、原本における表記が失われている点も、筆者のような地理の立場としてはかなりの抵抗感がある。
『旧高旧領取調帳』のほうが多く利用されるのは、知られた時期が早いことにもよるが、歴史・統計の立場では『天保郷帳』がまったく役に立たないことが理由として大きい。『旧高旧領取調帳』には村ごとに支配の形態 (直轄・藩・旗本知行・寺社、直轄の場合は代官も) が記載され、これが複数ある場合はそれぞれの石高が明示されている。これに対して『天保郷帳』は支配についての情報はいっさい含まず、したがって村単位の石高しか含んでいない。しかし地理の立場にある筆者にとってはこれは問題にならない。
なお『旧高旧領取調帳』は明治政府によって集成されたものであることから、特に石高について、幕末もすでに見えている天保年間に江戸幕府がまとめた『天保郷帳』より精度が高く、また実態の反映された情報が得られるのではないか、という期待があるかもしれない。しかし『旧高旧領取調帳』も『天保郷帳』と同様、差し出し (申告) に基づくものであって、改めて実測 (検地) を行ったわけではないので、その石高は基本的に変わらない。差分は天保年間(1830~1844) 以後の新田開発で生じた分と、二重帳簿でいえば表帳簿における帳尻合わせでしかない (その追及の過程で裏帳簿が出てくることはあったかもしれないが)。
天保国絵図・郷帳だからこそ見えてくるものもある。村々の地理的な分布がわかることは当然のこととしても、天保国絵図・郷帳からは村々の分合の様子や、それぞれの支配者が郷村をどのように把握しようとしていたのかが浮かび上がってくる。これらは各地域に固有の地誌や、明治期の郡村誌・個別の村明細を参照すればわかることばかりだが、まず広く俯瞰することで概観をつかめるということには大きな意味がある。
天保国絵図・郷帳は、歴史遺産としての価値は認められていても、これまで史料としてはほとんど活用されてこなかった。本稿によって少しでも興味が高まれば、と思っているところである。
本稿における村々の番号は、天保郷帳に記載されている順に郡単位で筆者が振ったものである。国絵図にしかない村のうち、分村・合併の場合は当該村を含む村 (郷帳に載っている村) の番号にアルファベットを付加したものを、それ以外の場合は郡の村数よりも大きい番号とアルファベットを組み合わせたものとした。なお、各地形図では説明に関係しない村々を省略した場合がある。村と村の間に省略した村がある場合は注記したが、そうではない場合 (縁辺など) は断りなく省略した。
| ^ ※1: | 煩雑になるのを避けるため、本稿では「こしのみちのなか」等の原義に基づく読みはすべて省いた。 |