22.2. 中世の三河・信濃国界

根羽村 (近世 根羽・月瀬 2村) が三河国だったことは、根羽村所在の宗源寺が近世になってもなお三河国として把握されたことから確認できる。

宗源寺は総持寺の末寺で、三河・遠江・駿河の 3国と伊豆国の一部を統轄するすいさいの支配下にあった。 総持寺は永平寺とともに曹洞宗の大本山となる寺院で、現在は横浜市 鶴見区に所在するが、近世は鳳至ふげし郡にあった。明治期の火災を契機に移転し、もとの場所 (石川県 輪島市 門前町) には「総持寺祖院」がある。

じょうきょう元年 (1684)『宗源寺文書』※1で、宗源寺は以下のように「参州」(三州、三河国) を自称している。

宗源寺文書

参州根羽村宗源寺ハ日域曹洞之大本寺能州総持寺之直末

これは総持寺も同じで、『総持寺史』(1938) には以下のようにある。

記述場所
「開山禮應俊茂 三河根羽 宗源寺」本山五院ごとの直末寺一覧。本山五院は順番に住持 (住職) を勤める支院で宗源寺は伝法庵下。
「賀茂郡根羽村 宗源寺」全国本寺一覧のうち可睡斎 (駿河・遠江・三河・伊豆半国) 分の一覧。
「參州根羽 宗源寺」輪番一覧のうち伝法庵分の一覧。

慶応3年(1867) と推定される 8月13日の日付の先触では、総持寺役局・永福寺は「能州道下より参州根羽迄 驛々問屋中」に対して以下を理由に人馬の差し出しを命じた (句読点は筆者が調整した)※1

先触

右参州根羽宗源寺去年八月當山輪番ニ罷越、今般交代ニ付、當月十六日此地出立ニ而、被致帰国候

つまり明治維新を目前にしてもその認識に変化はなかった。

なおこの先触には「夘八月十三日」(『卯八月十三日』)とあって年不詳だが、『総持寺誌』(1965) によれば、宗源寺が輪番を務めたのは記録が残る元和6年(1629) 以降、元和7年(1621) ・ 延宝2年(1674) ・ 元禄14年(1701) ・ 元文3年(1738) ・ 明和5年(1768) ・ 寛政12年(1800) ・ 天保4年(1833) ・ 慶応2年(1866) の 8回で、翌年 (先触にあるとおり任期は 1年で 8月15日に交代) が卯年であるのは延宝2年(1674)慶応2年(1866) だけである。『下伊那史 第4巻 原始・古代』(1961) によれば「書体・用紙などから見て、江戸時代末期と推定せられる」とあるので、慶応3年(1867) 8月13日に発行されたものということになる。

一方、月瀬村の一心寺について、天明6年(1786) に宗源寺から可睡斎へ差出した文書、および文政3年(1820) の月瀬村一心寺梵鐘銘にはそれぞれ以下のようにある※1

記述史料
「三河国加茂郡根羽村宗源寺小末寺」 ・ 「信濃国伊奈郡月瀬村 一心寺」 ・ 「三河国賀茂郡根羽村 宗源寺 喝用」天明6年(1786) 文書。
「信州下伊奈郡遠山庄月瀬村普學山一心寺」 ・ 「三州賀茂郡根羽村 宗源十六世 梵潮音誌之」文政3年(1820) 梵鐘銘。

つまり宗源寺は自身の所在地を三河国 加茂郡 (賀茂郡) とする一方、一心寺は信濃国 伊奈郡としている。このあたりは高椅神社の状況 (『28.3.2. 高椅(5)』を参照) と同じである。

ほかの史料もあげておけば以下のとおりである。

記述史料
「弘化四月七月二十八日就三州加茂郡根羽村宗源寺泰明和尙得度」『顕道和尚寿碑』※2
「三州ねばね山」 ・ 「同国ねばね山いたの入」(同国 = 三州) ・ 「三州伊那郡根羽山」うじがけ※3元文元年(1736) ・ 寛保2年(1742)
「三州根羽宿」元禄5年(1692)『伊那街道等十六宿問屋手馬付通荷取締願』※4
「三州根羽村」享保5年(1720)『飯田十三町・伝馬町塩・肴商売出入裁定状等留』※5
^ ※1: 『下伊那史 第4巻 原始・古代』(1961)。
^ ※2: 『埼玉県教育史金石文集 下』(1968) 所収、#337、cc.60-61。天保14年(1843) 2月生まれの「猪飼顕道」という人物の (おそらく数え年で) 60歳となったことなどを祝う石碑。
^ ※3: 『奥三河の木地屋』(1957)・『木地師の習俗 2 愛知県・岐阜県』(1969)。
^ ※4: 元禄5年(1692) 11月付、「三」の文字を「信」に修正した跡がある。『長野県史 近世史料編 第4巻3 南信地方』(1983) 所収、#1838、cc.106-107。
^ ※5: 享保5年(1720) 7月付、『長野県史 近世史料編 第4巻3 南信地方』(1983) 所収、#1788、cc.65-66。