22. 根羽村
三河・信濃の国界は戦国期から織豊期にかけて変動し、根羽村は信濃国に属するようになった。

22.1. 変動の要因と時期: 天正19年(1591)
すでに信州 伊那谷を制圧していた武田信玄 (晴信) は、元亀2年(1571) 三河国へ侵入し、家康に服属していた足助鈴木氏の松山城 (足助城) を攻め落とした。周辺の諸城も次々に落城・開城して信玄の支配域は三河にまで拡大した。さらに元亀3年(1572) には遠江国に侵入、三方原の戦いで家康・信長の連合軍を大敗させ、元亀4年(1573) 三河の野田城 (徳川方・菅沼定盈) を攻め落とした。しかしその帰路で信玄は病死する。家督を継いだ勝頼は家康・信長に対抗したものの、天正3年(1575) 長篠の戦いで大敗し、天正10年(1582) までに武田氏は滅びた。
武田氏滅亡後、本能寺の変とその後の混乱を経て伊那谷は家康の支配下となり、天正18年(1590) 豊臣政権下で家康が関東に転封されると毛利秀頼の支配となった。このとき検地が行われ、天正19年(1591) の検地帳 (『青表紙御検地帳』)※1に根羽村 (近世 根羽・月瀬 2村) は「信州伊奈郡」の「下条領」に含まれ、信濃国して把握された。
この「下条領」は下条氏の旧領に相当する。下条氏は武田氏の伊那侵攻以来その家臣だったが、天正10年(1582) 織田信長の侵攻が伊那谷に及んだとき、下条氏長が当主の兄・信氏を追放して寝返った。氏長は信長に旧領を安堵されたものの、この経緯から家臣の不信を買って本能寺の変後の混乱のなか、今度は信氏の次男で家康に通じた下条頼安に殺害された。さらにその頼安も天正12年(1584) の年始、敵対する小笠原氏 (松尾小笠原氏) の計略にかかって殺害され、統制を失った下条氏は天正15年(1587) までに没落した※2。
『下条記』には、天文13年(1544) 敵対する関氏を滅ぼしてその旧領を組み入れた時点と考えられる下条領について言及があって、根羽・月瀬はその西限として記載されている。またこれは当初の下条領ではなく西へ拡大した部分と読み取れる。したがって近代の根羽村 (近世 根羽・月瀬 2村) にあたる地域は、下条氏が勢力を拡大するなかでその所領に組み込まれ、それが天正19年(1591) の検地で反映され、信濃国 伊奈 (伊那) 郡として把握されることになった。
『下条記』は下条氏の代々についてさかのぼって調査・編纂した記録であり、著者は佐々木喜庵、宝永年間(1704~1711) の成立と考えられている。その冒頭、および『新編伊那史料叢書 第4巻』(1975) 所収の『下条記』(1949) の解説 (市村咸人) によれば、青年時代の明暦元年(1655) に思い立って祖先からの伝承・覚書・証文・寺社の位牌・棟札などから正しいと考えられるものを収集したが、その後は多忙となり、隠居した晩年にそれら史料をあらためて整理・追加調査の上、編纂したという。『新編伊那史料叢書 第4巻』(1975) 所収の『下条記』(1949) は佐々木家に保存されていた自筆本、およびその自筆本に付箋・細字で指示されていた訂正が反映された写本を校訂したものであり、これが原本ということになる。ただし表紙に記載された書名は後筆であり、著者が意図した本来の書名は不明である。
一方『下条由来記』は『信濃史料叢書 下巻』(1969) 所収で、『下条記』の写本の一つとされる。市村によれば、原本と比較して文章の追加・削除・改変・順序の変更が多いといい、実際に意味が通らなくなった部分や事実と異なる部分が見受けられる。しかし基本的には原本ではわかりづらいところや不完全な記述を補おうとした結果と考えられ、それ以上の恣意は感じられない (粗雑であることは否定しない)。下条領の一覧も、原本では関氏旧領以外で明示されているのは境界付近の村々に限られるが、下条由来記では詳細化され、根羽・月瀬については具体的に「三州にて伐取分」となっている。何に拠るものかは不明。
郷土史家・関盛胤の『伊那温知集』『伊那神社仏閣記』では、それぞれ根羽村・惣源寺 (宗源寺) について以下のように書かれている※3。
| 記述 | 史料 |
|---|---|
| 「古來は三河國の分也、信玄安助合戰に伐取、信濃國へ入る」 | 『伊那温知集』 |
| 「按するに、古代は三州加茂之內に而候。天正年中、武田信玄信州御手に入、又三州之安助迄攻取此節、信州之內へ入候也」 | 『伊那神社仏閣記』 |
つまり関盛胤は国界変動の要因を、元亀2年(1571) 信玄が足助 (安助) を含む一帯を攻略し、三河へその支配域を拡大したことに求めている。しかし信玄の国郡認識は史料からはわからない。その行動からいえるのは、三河への伸長の過程で下条氏を支配下におき、その所領 (下条領) を安堵した、ということまでである。また領域認識という点では、それを変えたのは下条氏であって信玄ではなく、また時期も天文13年(1544) までさかのぼる。
『伊那温知集』は関盛胤が元文5年(1740) までに編纂・完成させた地誌で、『伊那神社仏閣記』はその一部とされる。どちらも『新編伊那史料叢書 第2巻』(1975) 所収。
注釈
22.2. 中世の三河・信濃国界
根羽村 (近世 根羽・月瀬 2村) が三河国だったことは、根羽村所在の宗源寺が近世になってもなお三河国として把握されたことから確認できる。
宗源寺は総持寺の末寺で、三河・遠江・駿河の 3国と伊豆国の一部を統轄する可睡斎の支配下にあった。 総持寺は永平寺とともに曹洞宗の大本山となる寺院で、現在は横浜市 鶴見区に所在するが、近世は能登国 鳳至郡にあった。明治期の火災を契機に移転し、もとの場所 (石川県 輪島市 門前町) には「総持寺祖院」がある。
貞享元年 (1684)『宗源寺文書』※1で、宗源寺は以下のように「参州」(三州、三河国) を自称している。
宗源寺文書 参州根羽村宗源寺ハ日域曹洞之大本寺能州総持寺之直末 |
これは総持寺も同じで、『総持寺史』(1938) には以下のようにある。
| 記述 | 場所 |
|---|---|
| 「開山禮應俊茂 三河根羽 宗源寺」 | 本山五院ごとの直末寺一覧。本山五院は順番に住持 (住職) を勤める支院で宗源寺は伝法庵下。 |
| 「賀茂郡根羽村 宗源寺」 | 全国本寺一覧のうち可睡斎 (駿河・遠江・三河・伊豆半国) 分の一覧。 |
| 「參州根羽 宗源寺」 | 輪番一覧のうち伝法庵分の一覧。 |
慶応3年(1867) と推定される 8月13日の日付の先触では、総持寺役局・永福寺は「能州道下より参州根羽迄 驛々問屋中」に対して以下を理由に人馬の差し出しを命じた (句読点は筆者が調整した)※1。
先触 右参州根羽宗源寺去年八月當山輪番ニ罷越、今般交代ニ付、當月十六日此地出立ニ而、被致帰国候 |
つまり明治維新を目前にしてもその認識に変化はなかった。
なおこの先触には「夘八月十三日」(『卯八月十三日』)とあって年不詳だが、『総持寺誌』(1965) によれば、宗源寺が輪番を務めたのは記録が残る元和6年(1629) 以降、元和7年(1621) 延宝2年(1674)
元禄14年(1701)
元文3年(1738)
明和5年(1768)
寛政12年(1800)
天保4年(1833)
慶応2年(1866) の 8回で、翌年 (先触にあるとおり任期は 1年で 8月15日に交代) が卯年であるのは延宝2年(1674) と慶応2年(1866) だけである。『下伊那史 第4巻 原始・古代』(1961) によれば「書体・用紙などから見て、江戸時代末期と推定せられる」とあるので、慶応3年(1867) 8月13日に発行されたものということになる。
一方、月瀬村の一心寺について、天明6年(1786) に宗源寺から可睡斎へ差出した文書、および文政3年(1820) の月瀬村一心寺梵鐘銘にはそれぞれ以下のようにある※1。
| 記述 | 史料 |
|---|---|
| 「三河国加茂郡根羽村宗源寺小末寺」 | 天明6年(1786) 文書。 |
| 「信州下伊奈郡遠山庄月瀬村普學山一心寺」 | 文政3年(1820) 梵鐘銘。 |
つまり宗源寺は自身の所在地を三河国 加茂郡 (賀茂郡) とする一方、一心寺は信濃国 伊奈郡としている。このあたりは高椅神社の状況 (『28.3.2. 高椅(5)』を参照) と同じである。
ほかの史料もあげておけば以下のとおりである。
| 記述 | 史料 |
|---|---|
| 「弘化四月七月二十八日就三州加茂郡根羽村宗源寺泰明和尙得度」 | 『顕道和尚寿碑』※2 |
| 「三州ねばね山」 | 氏子駈帳※3、元文元年(1736) |
| 「三州根羽宿」 | 元禄5年(1692)『伊那街道等十六宿問屋手馬付通荷取締願』※4 |
| 「三州根羽村」 | 享保5年(1720)『飯田十三町・伝馬町塩・肴商売出入裁定状等留』※5 |
注釈
22.3. 天保郷帳・国絵図の村々
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近世 信濃国 伊那郡 (下条領) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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