(5) 寺社朱印状と高椅

(a) 高椅地域の寺社領朱印状

この地域の寺社領に宛てられた朱印状はまとまったかたちで残っている※1。国郡の記載に注目すると以下のとおりである。

高椅大明神社 (高椅神社)

将軍記載
所在地寺社領
けいあん元年(1648)いえみつ下総国 結城郡 (『下総国結城郡』※2)下総国 結城郡 高橋村之内 (『同郡高橋村之内』※2)
じょうきょう2年(1685)つなよし下総国 結城郡※3下総国 結城郡 高橋村之内※3
きょうほう3年(1718)よしむね下野国 都賀郡※3下野国 都賀郡 高橋村之内※3
えんきょう4年(1747)いえしげ下野国 都賀郡※3下野国 都賀郡 高橋村之内※3
ほうれき12年(1762)いえはる下野国 都賀郡※3下野国 都賀郡 高橋村之内※3
てんめい8年(1788)いえなり下野国 都賀郡※3下野国 都賀郡 高橋村之内※3
てんぽう10年(1839)いえよし下野国 都賀郡※3下野国 都賀郡 高橋村之内※3
あんせい2年(1855)いえさだ下野国 都賀郡※3下野国 都賀郡 高橋村之内※3
まんえん元年(1860)いえもち下野国 都賀郡※3下野国 都賀郡 高橋村之内※3

延島村 ほう性寺しょうじ

将軍記載
所在地寺社領
慶安元年(1648)家光下野国 結城郡 延島村 (『下野国結城郡延嶋村』※4)下野国 都賀郡 本郷※5 (『同郡本郷内』※4)
貞享2年(1685)綱吉下野国 都賀郡 延島村 (『下野国都賀郡延嶋村』※6)下野国 都賀郡 本郷 (『同郡本郷内』※6)
下野国 都賀郡 延島村 (『下野国都賀郡延嶋村』※6)下総国 結城郡 本郷之内 (『下総国結城郡本郷之内』※6)
享保3年(1718)吉宗下野国 都賀郡 延島村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
延享4年(1747)家重下野国 都賀郡 延島村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
宝暦2年(1762)家治下野国 都賀郡 延島村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
天明8年(1788)家斉下野国 都賀郡 延島村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
天保10年(1839)家慶下野国 都賀郡 延島村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
安政2年(1855)家定下野国 都賀郡 延島村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
万延元年(1860)家茂下野国 都賀郡 延島村※3下総国 結城郡 本郷之内※3

福良村 宝蔵坊 (ふく城寺じょうじ)

将軍記載
所在地寺社領
慶安元年(1648)家光下総国 結城郡 福良村 (『下総国 結城郡福良村』※7)下総国 結城郡 本郷之内 (『同郡本郷之内』※7)
貞享2年(1685)綱吉下総国 結城郡 福良村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
綱吉下総国 結城郡 福良村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
享保3年(1718)吉宗下総国 結城郡 福良村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
延享4年(1747)家重下総国 結城郡 福良村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
宝暦12年(1762)家治下総国 結城郡 福良村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
天明8年(1788)家斉下総国 結城郡 福良村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
天保10年(1839)家慶下総国 結城郡 福良村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
安政2年(1855)家定下総国 結城郡 福良村※3下総国 結城郡 本郷之内※3
万延元年(1860)家茂下総国 結城郡 福良村※3下総国 結城郡 本郷之内※3

これらによれば、高椅大明神社の所在地は享保3年(1718) に、延島村 宝性寺の所在地は貞享2年(1685) に、それぞれ 下野国 都賀郡 に変更され、福良村 宝蔵坊については 下総国 結城郡 のまま変更されていない。

また、延島村 宝性寺の寺領は結城本郷だが、貞享2年(1685) の朱印状のち 1通目では所在地が 下野国 都賀郡 に変更された一方、寺領の表現が「同郡本郷」のままだったため、文脈上は結城本郷が下野国 都賀郡に存在することになってしまった。2通目では「同郡」が「下総国結城郡」と特定され、正しい内容となっている。

注釈

(b) 寺社に宛てられた朱印状の国郡記載

高椅神社やほう性寺しょうじ・宝蔵坊に同じ年次の朱印状が複数存在するのは、「御朱印改め」(御朱印御改) として、徳川政権 (江戸幕府) の将軍が代替わりするたびに書き改められたことによる。中世~織豊期、支配者が替わるたびに行われた「安堵」と本質的には同じものであり、寺社としても所領や特権の保証を得るためには必要不可欠のものだったが、第4代・いえつながそれまでまちまちだったものを一斉に発給 (いわゆる『かんぶん印知』) し、様式などが定まってからは権威的・儀礼的な色彩が強まった。

御朱印改めは全体で 3つの段階からなるが、内容は第1段階ですべて決まる。第2段階は幕府で新しい朱印状を作成する期間、第3段階はそれを発給する (受け取る) 行事である。なお、第3段階は地元 (代官所など) で済んだが、第1段階では寺社は江戸に出向かなければならず、1か月前後の滞在を必要とした。第2段階は長く、寺社は新しい朱印状を受け取るまで 1~2年ほど待たされた。

第1段階における幕府 (寺社奉行) の業務は、現行および過去に発給を受けたすべての朱印状とその写し (複数)・目録を提出させ、新しい朱印状を作成するための情報を収集するとともに、朱印状の現状を確認することが主になっている。その注意は、提出物が定められた形式・数量となっていることや、写しの精密さ、過去の朱印状の有無・保存状態、および不備があるのならその始末書の確認に終始し、変更事項や文字の訂正などに関しては、すべて寺社側に申告を求めた。つまり、申告がなければ新しい朱印状に現状が反映されることはなかった。高椅神社は下野国 都賀郡に移った時期を元禄9年(1696) 以降と認識し (『28.3.2. 高椅(2)』を参照)、朱印状ではきょうほう3年(1718) 以降にその認識が反映され、ようやく正しくなった。

また、たとえ近接する寺社であっても幕府側で整合性を考慮することはなかった。宝性寺 (延島村) は高椅神社より先行してじょうきょう2年(1685) に所在地が正しくなっている一報で、宝蔵坊 (福良村) はまったく訂正されないまま明治維新を迎えた。なお寺社の御朱印改めは、宗派ごとに江戸または付近所在の有力寺院 (ふれがしら) を通して通達された※1。延島村 宝性寺は真言宗 (智山派)、福良村 宝蔵坊 (福城寺) は天台宗、高椅神社は神主支配で別当寺はなかったとみられる。

なお寺社に宛てられたものではないが、寛文4年(1664) 大和守ひろゆきに宛てられた朱印状でも、その領知目録の中で、中河原村・高橋村・福良村・中島村は「下総国結城郡之内」に含まれる※2

注釈

(c) 寺社の御朱印改め (御朱印御改)

御朱印改めは、特に江戸往復・滞在費用の負担が大きく、それ以外にも献上品や挨拶回りの土産なども用意しなければならず、江戸から遠い場合はもちろん、石高が小さい場合は割に合わないものだったようだ※1

浜名 白須賀のぞうぼう※2『28.2.1. 新方(2)』でも言及した安国寺※3は以下のように書き残している。

蔵法寺

日数がだいぶかかり一同迷惑し、拙寺も 4月18日に到着したのに *中略* 5月29日の改め (ここでは第1段階最終日の儀式のこと、以下同じ) となって、思っていたより手間取り 6月10日に寺に帰った

原文: 日数大分相懸り一同迷惑仕・拙寺坏も四月十八日ニ着候得共 *中略* 五月廿九日之御改ニ相成存外・手間取六月十日ニ帰寺仕候※4

安国寺

1日だと聞いて行ったのに、おおむね4~50日ほどで (ようやく) 終わった。心構えとして記しておく

原文: 一日間ニ窺ニ罷出候、凡四五拾日程ニ相済申候、為心得記シ置候※5

もっとも、どちらかといえば期間そのものより、寺社奉行を訪ねたら何日に来いといわれ、その日に行ったらまた何日に来いといわれる、といったことの繰り返しで予定が立たないことや、無駄足・連絡不行届きへの不満が大きかったらしく、ほかの史料にも同じようなことが書き残されている。一方で、『22. 根羽村』で扱った地域に所在する伊那 ふるじょうの八幡宮※6は、往復の旅や江戸滞在中も名所見物・参詣・食事などを満喫し、奉公に出ていた地元の若者との再会を喜ぶなど、楽しんでいた向きもあり※7、このあたりは伊勢参りに似ている。

朱印状の写しは、内容が同じであることは当然のこととして、仮名・漢字の別や改行も含めて一致するよう精密さが求められ、そのほか目録の書式なども細かく指定された。以下は一例として第13代・家定の触書で、内容はほかの代も基本的に同じである。

触書

本書之通文字賦り行、或は仮名にて有之所は其通 御本書ニ少も違無之 *中略* 上包幷上書等も 御本書御同様※8

また、過去の朱印状の有無・保存状態と不備についても念入りに確認され、たとえば おおだい正寺しょうじ※9は具体的な箇所を示した上で以下のように弁明している。ほかにも始末書を提出した例は少なくない※10

弁明 (大正寺)

水に濡れた跡がありますが、前々より改めの際は申告し、御了承いただいており、なおまた今回の改めでもこのとおり申告いたします (ので同じように御了承いただきたく)

原文: 水染御座候、前々御改之節御届奉申相済来候、猶又今般御改ニ付、此段御届奉申上候※11

変更事項については、たとえば以下のように朱印状が発給される側からの申告を求め、寺社奉行ではそれを照査するという手順になっていた。

申告の要求

提出する目録について、延享のとき (前回) 御朱印をいただいてから村替などあっただろうか、村名の違い・文字の違い等々すべて、これまでにいただいた御朱印と違うことがあれば記載するように

原文: 指出之目録は、延享之度御朱印頂戴以後村替等有之歟、村名違文字違之類何も当時迄所持之御朱印ニ違候儀有之候ハゝ可指出候※12

通達の経路については、前述のとおり宗派ごとに触頭を通して通達されたが、にいくら ほうどう※13には例外的に所在地の陣屋からも通達 (御触書) が届き、基本的には後者の指示に従った※14。触頭は江戸 愛宕下の真福寺、陣屋は上野国 高崎藩のどめ領を管轄した野火止陣屋。当時、高崎藩主の松平右京亮てるとしが寺社奉行見習いだったが※15、それが理由かはわからない。

前回までの朱印状は第1段階の最終日、儀式の終了後に返却された※16。具体的な様子は『16. 置津郷』で扱った地域に所在する賀茂大明神 (賀茂大神宮、現在の高滝神社)※17の記録に詳しい※18。現在、例外を除いて寺社に原本が残っていないのは、基本的に明治初期に新政府が回収したためである※19

注釈