23. 志摩
志摩国の領域は戦国期から織豊期にかけて大きく変動した。

23.1. 中世の伊勢・紀伊・志摩国界
古代の志摩国は現在の三重県 鳥羽市・志摩市から尾鷲市までのリアス海岸全体をその領域としていた。

上には古代の志摩国の範囲と、変動した範囲に含まれる『 和名類聚抄』の英虞郡 各郷、および『 神鳳鈔』の志摩国 各御厨・御薗 (園) にあたる近世の村々を示した (そのほかの史料にあらわれるものについては『23.3. 天保郷帳・国絵図の村々』を参照)。


23.2. 変動の要因と時期: 文禄3年(1594)・慶長6年(1601)
南北朝期以来、北畠氏は伊勢国司を歴任し、室町幕府との和解後は断続的に守護を兼ね、志摩国も支配した。しかし永禄年間(1558~1570) 以降、伊勢国に進出してきた織田信長は北畠具教・具房を攻撃し、天正3年(1575) には家督を強制的に信雄に譲らせ、さらに天正4年(1576) 滅ぼした※1。
一方、南からは熊野新宮の堀内氏善が勢力を拡大し、天正4年(1576) または同6年(1578) 北畠 (織田) 信雄の臣下・加藤甚五郎が配置された長島城を攻撃して落城させた。『紀伊続風土記』には以下のように書かれている。

紀伊続風土記 第85巻 中世以後、北畠家の領地となり、近江の佐々木の支族来りて此地に住し、当荘 (曽根荘) 七箇村を併せて己の領として *中略* 後堀内氏の旗下となり、地遂に堀内氏に併られて、当郡 (牟婁郡) の内となれり。寛永記に、今紀州・勢州の堺なる長島の荷坂峠より西南、二鬼島浦堅ガ﨑まで路䄇十一里五町・村数四十箇村、昔は志摩国英虞郡の地なり、天正十年、新宮堀内安房守攻取りて紀州牟婁郡の中になれりとあり *中略* 今按するに志摩の地は、古大抵伊勢の神領にて後世、北畠家押領せしに、堀内氏、長島荷坂峠までを攻取り、紀ノ国熊野に併せしより、北畠家押領の地は伊勢国度会郡に止りて、本国 (紀伊国) と志摩とは伊勢を隔てたる地とはなれるなり。 |
原文: 中世以後北畠家の領地とな𛃶近江の佐々木の支族來りて此地𛂌住し當荘七箇村を併せて己の領として *中略* 後堀内氏の旗下とな𛃶地遂𛂌堀内氏𛂌併られて當郡の内とな𛄀𛃶寛永記𛂌今紀州勢州の堺なる長島の荷坂峠よ𛃶西南二鬼島浦堅ガ﨑まて路䄇十一里五町村數四十箇村昔は志摩國英虞郡の地な𛃶天正十年新宮堀内安房守攻取𛃶て紀州牟婁郡の中𛂋なれ𛃶と𛀄り *中略* 今按するに志摩の地𛂣古大抵伊勢の神領𛂇て *中世* 後世北畠家押領せし𛂌堀内氏長島荷坂峠まてを攻取り紀ノ國熊野𛂇併せしよ𛃶北畠家押領の地𛂣伊勢國度會郡𛂇止りて本國と志摩とは伊勢を隔てたる地とはな𛄀𛃸𛂅𛃶 |
つまり堀内氏善は天正10年(1582) までに荷坂峠まで攻め取ってその領国 (紀伊国) に組み入れたといい、これだけ読むと氏善の長島支配は継続したように理解され、またそれも北畠 (織田) に真正面から当たって勝ち取ったような印象を受ける。しかし長島城は氏善が落城させたあと、すぐに信雄が在地勢力を利用して奪還したとされ※2、また天正9年(1581) 2月29日付『織田信長朱印状』※3には以下のようにある。
織田信長朱印状 紀州無漏郡 (牟婁郡)、堺目 (境目) を相賀に限り神領と為す。当知行の条、ますます相違あるべからず、すべて神納簡要 (肝要) にそうろうなり |
原文: 紀州無漏郡堺目限相賀為神領、当知行之条、弥不可有相違、全神納簡要候也 |
この朱印状によれば、氏善は信長の臣下に入って安堵を受けており、しかもその北限は「相賀」までであって長島の支配をまったく認められていない。
荷坂峠は長島のすぐ北にあって、現在も JR紀勢線や紀勢自動車道がこの峠の下をトンネルで抜けているように交通の要衝である。つまり長島は重要な戦略拠点であって、信長・信雄は氏善を追い返した上、臣下に入れたあともその支配を認めなかった。この状況が変わるのは天正10年(1582) 6月に本能寺の変が起こってからであり、氏善は混乱に乗じて長島を再び奪い、荷坂峠までをその領国に組み入れたというのが正しいだろう。
その後、豊臣政権下の文禄3年(1594) と慶長6年(1601) の検地によってそれぞれ伊勢・紀伊の領域が明らかにされ、近世の国界は確定した。文禄 (伊勢)・慶長 (紀伊) とも検地帳は多くのところに残存しているほか、紀伊については各村の石高が慶長18年(1613) の紀州御検地帳・紀伊州検地高目録にまとまっている。
近世 伊勢国 渡会郡 (度会郡) に相賀浦、紀伊国 牟婁郡に広域地名として相賀があり、どちらも古代 志摩国の範囲に含まれ、前者は現在の三重県 度会郡 南伊勢町、後者は三重県 北牟婁郡 紀北町にそれぞれ所在する。この 2つの相賀のうち、織田信長朱印状における相賀は後者である。『三重県史』は『通史編 近世1』(2017) で南伊勢町、『資料編 近世1』(1993) で海山町 (当時。現在の紀北町西部) とあって食い違うが、『資料編 近世1』の記述が正しい。
『織田信長朱印状』に記載された「相賀」の範囲は江戸前期の「相賀荘」と変わらないと考えられ、相賀荘には須賀利浦・矢口浦・引本浦・小浦村・小山浦・便ノ山村・古ノ本村・船津村・中里村・上里村・河内村・馬瀬村が含まれる。なお再編成された江戸中期以降の「相賀組」は須賀利浦を除く 11村から編成された。現・紀北町 相賀は明治9年(1876) 古ノ本村から改称した「相賀村」に由来する。
現・南伊勢町 (旧・南勢町) の相賀の読みは「おうか」のまま変わらないが、南勢町誌(1985) のふりがなは「おおか」。現・紀北町 (旧・海山町) の相賀は現在は「あいが」と読む。これはJR紀勢本線の前身のひとつである国鉄 紀勢東線に「相賀駅」が設置された際、すでに「相可駅」が存在していたため「あいが」とされ、のち地名のほうも「あいが」と読むようになったことによる※4。
幕府の指示により編纂された紀伊国の地誌。仁井田好古らが編纂にあたって天保10年(1839) に完成した。
注釈
23.3. 天保郷帳・国絵図の村々
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| 近世 伊勢国 度会郡※1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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注釈

| 近世 紀伊国 牟婁郡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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注釈
23.4. 伊勢・志摩・紀伊の天保国絵図
時期はかなり遅くなるが (ただし江戸期を通じてその後の変動はない)、天保国絵図で変動後の国界を観察してみよう。
『天保志摩国絵図』は以下のとおりで、その範囲は現在の志摩半島の先端に限られている。

一方、『天保伊勢国絵図』は以下のとおりで、志摩国の一部を吸収したことで、その領域はリアス海岸が発達した沿岸に達している。

『天保紀伊国絵図』は以下のとおりで、あくまでも国絵図における表現ではあるが、縁辺を拡大しただけに見える伊勢国に対して紀伊国のほうが大きく伸長している印象がある。

慶長16年(1601) 検地に基づき慶長18年(1613) に集計された郷帳の写本。前者は欠落があるといい、実際に本稿で扱った範囲にも欠落・誤りが確認される。前者は『和歌山県史 近世史料1』(1977)、後者は『和歌山県史 近世史料3』(1981)所収、不完全なものを先行させたのは和歌山県立図書館所蔵のためかと思われるが (後者は個人所蔵)、詳しくは不明。
『角川日本地名大辞典 24 三重県』(1983)、および『同 30 和歌山県』(1985) の各項目には元禄郷帳への言及がある。国立公文書館に現存する元禄郷帳の副本 (写し) 17国分 19冊に紀伊国は含まれないので、角川日本地名大辞典はほかを参照していると判断できるが、どの所蔵によるものかは明示がなくわからない。三重県史・和歌山県史には収録・言及がなく、後者は元禄郷帳について角川日本地名大辞典を参照している。和歌山県立文書館・和歌山県立図書館・三重県立図書館・三重県総合博物館 (公文書館の機能を持つ) のデジタルライブラリー・蔵書検索・刊行された目録類に該当する史料を見出すことができず、横断検索可能な JAPAN SEARCHのほか、本項執筆時点でここに参加していないと思われる東京大学史料編纂所にも見当たらない。