ここでは、古代および近代に発生した大隅・薩摩国界 (国境) の変動と、その変動したエリアである吉田について分析しています。

そもそもどこか? (古代)

変動の舞台は、現在の鹿児島県 鹿児島市の北部であり、これはいわゆる「平成の大合併」以前の旧・吉田町にあたる地域である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

全体
Fig.197 吉田郷 (大隅・薩摩国界): 天正15年(1587)
Fig.197 吉田郷 (大隅・薩摩国界): 天正15年(1587)
詳細
Fig.141 吉田郷 (大隅・薩摩国界): 天正15年(1587)
Fig.141 吉田郷 (大隅・薩摩国界): 天正15年(1587)
薩藩政要録の村々※1
薩摩国 鹿児島郡 近在※2
薩摩国 鹿児島郡 吉田郷
大隅国 日置郡 郡山郷※20
大隅国 姶良あいら郡 帖佐ちょうさ郷※24※25
大隅国 姶良郡 重富郷
大隅国 姶良郡 山田郷※39※40
  • 28. 下名村
  • 29. 大山村※41
大隅国 姶良郡 蒲生郷※42※43

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保薩摩国絵図』で示せば、以下の部分にあたる。

天保薩摩国絵図
Fig.358 天保薩摩国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.358 天保薩摩国絵図 (国立公文書館所蔵)
天保大隅国絵図 (変動なし)
Fig.916 天保大隅国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.916 天保大隅国絵図 (国立公文書館所蔵)
注釈

要因と経過 (中世)

古代から中世にかけて変動した薩摩さつま・大おお隅すみ・日向ひゅうが (薩さつ隅ぐう日にち) の国界は、そもそも曖昧である。これは、はじめ日向一国であったものから、和銅2年(707) までに薩摩国が、さらに同6年(713) に大隅国が分国 (分置) された経緯による。特に財部・深河・救仁、および菱刈については、現存する史料にあらわれた時点ですでに変動後の国郡の荘園として認識されており、それ以前の国郡については推定に頼るほかない。一方、吉田については、中世に「大隅国の吉田院」として成立して以後の変動であるため、その前後の国界や変動した範囲は相対的に明瞭である。

吉田院が史料の上ではじめてあらわれるのは、治暦5年(1069) の『藤原頼光所領配分帳案』※1である。このとき、建部頼光が所持していた所領のなかに「吉田院」があり、弟の頼重に分与されている。吉田院以外も含めた各所領の国は明示されていないが、すべて中世の大隅国の範囲であり、また、これにつぐ建久8年(1197) の『大隅国建久図田帳』には「吉田院十八丁二段」として含まれている。

『大隅国建久図田帳』によれば、吉田院はほぼ全体が正八幡宮領となっている。この状況は鎌倉期を通じて変わらず、祠官の吉田氏が院司として支配したとされ、吉田氏の名も当地を継承したことに由来する※2。しかし、南北朝期に入ると正八幡宮の力も弱まり、吉田氏も守護大名・島津氏の家臣となったほか、永正14年(1517) 以降、当地は完全に島津氏の支配下に入った。以後、文禄元年(1592) まで、北に隣接する蒲生院の蒲生氏に対する前線基地として機能し、その間に島津氏の薩摩・大隅・日向 3国統一とさらなる版図拡大、そしてこれに対する豊臣秀吉の九州侵攻を経験することになる。

天正15年(1587) 3月、大軍を率いた秀吉の侵攻に対し、島津義よし久ひさは抵抗を試みたものの、最終的には総崩れとなって撤退を余儀なくされた。結局、同年 5月8日までに降服し、秀吉はこれを受けて義久に薩摩国、弟の義よし弘ひろ (弟) に大隅国 (ただし肝きも付つき郡と北ほん郷ごう時とき久ひさ旧領を除く) を安堵した (天正15年(1587) 5月9日『豊臣秀吉判物』(義久宛)・同年5月25日付『豊臣秀吉朱印状』(義弘宛)※3、および『豊臣政権下における九州再国分について』による※4)。

天正20年(1592)『薩隅日寺社領注文』※5によれば、当地は「薩之内 吉田」と記されている。この間に目立った動きは確認されないため、安堵の時点で近世の国界が確定し、当地は薩摩国として把握されるようになったといえるだろう。これは、島津氏によって薩摩国の延長とみなされ、そのまま反映された結果と推定される。薩摩国の総検地は文禄3~4年(1594~1595) に実施され※6、文禄4年(1595) 6月29日付『豊臣秀吉朱印知行方目録』※5では「羽柴薩广侍從藏入分」として「同郡の内 よし田村」(同郡 = さつまかこ嶋郡) が義弘 (羽柴薩摩侍従は義弘のこと) に与えられた。

石築地役配符

『石築地役配符』は、第一次のモンゴル襲来 (文永の役) 後、博多湾に構築された石築地 (防塁) の負担配分を記した文書であり※7、大隅国の荘園・郷などが書き出されている。『鹿児島県史料 旧記雑録前編1』(1979) 所収、建治2年(1276) 8月付、#773・cc.158-161。

鹿児島諏訪社祭次第

『鹿児島諏訪社祭次第』は、諏訪神社の御佐山 (御射山) 祭礼に関して、7年に 1度の負担配分を定めたものである※8。近隣の村々が 7組に分けられている。『鹿児島県史料 旧記雑録前編2』(1980) 所収。この諏訪神社は現在の鹿児島市 清水町に鎮座する南方神社であり、島津氏久が勧請したという。

注釈

そもそもどこか? (近代)

吉田では、近代に入って再び国界が変動した。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

全体
Fig.208 吉田郷 (大隅・薩摩国界): 明治初期
Fig.208 吉田郷 (大隅・薩摩国界): 明治初期
詳細
Fig.179 吉田郷 (大隅・薩摩国界): 明治初期
Fig.179 吉田郷 (大隅・薩摩国界): 明治初期

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保大隅国絵図』で示せば、以下の部分にあたる。

天保薩摩国絵図 (変動なし)
Fig.915 天保薩摩国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.915 天保薩摩国絵図 (国立公文書館所蔵)
天保大隅国絵図
Fig.359 天保大隅国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.359 天保大隅国絵図 (国立公文書館所蔵)

要因と経過 (近代)

地形図に示したように、変動したのは、吉田のうち思川の下流方向へ突出した部分であり、近世 薩摩国 鹿児島郡 触田村にあたる。ただし、この触田村は薩摩藩独自の行政単位である「郷 (外城)」では 大隅国 姶良郡 重富郷を構成しており、村と郷の間で国郡が一致していなかった (触田村を除く平松・船津・春花の 3村は、郷と同じ大隅国 姶良郡)。このため、下財部村や南之郷村の場合と同様、郷と村自体の間における国郡のねじれを解消することを目的に、薩摩国 鹿児島郡から大隅国 姶良郡へ編入されたとみられる (下財部村・南之郷村については、『財部・深河・救仁: 日向・大隅国界 (国境)の変遷』を参照)。

この詳しい経緯は記録に残っていないが、下財部村の変更が明治5年(1872) 4月10日付の太政官布告第119号と連動していることから、触田村の編入時期も同様と考えられる。また、地理院地図によれば、現在の大字平松に小字として「触田上」「触田下」が存在すること、および明治12年(1879) 年調査の『旧高旧領取調帳』や同年 7月の『鹿児島県治一覧概表』に触田村が含まれないことから、郡の変更と同時に平松村へ編入されたと思われる。

なお、薩摩国 鹿児島郡の触田村が大隅国 姶良郡の重富郷に含まれるのは、同村の成立経緯に起因する。『御分国之巻』(『三州御治世要覧 巻36』)※1には、触田村の付記として「薩州吉田郷内東佐多浦名ゟ別立」と記され、また『薩隅日地理纂考』※2には、重富郷の説明として「旧名脇元ト云ヘリ。元文二年二十二代・島津継豊ノ時、帖佐郷内三村、及鹿児島郡吉田郷佐多浦村ノ内ヲ割テ、脇元ニ併セテ一郷トシ、其弟周防忠紀ニ与ヘ食邑トナサシム」と記されている。これらによれば、触田村は、元文年間(1736~1741) に重富郷が設置されたときに、薩摩国 鹿児島郡の東佐多浦から分割されて成立した。このため触田村は、村としては薩摩国 鹿児島郡のまま経過することになり、以後、郷との間にねじれを生じることになったのである。

注釈

データシート

データシート (古代 / 吉田: 大隅・薩摩国界)
変動地域吉田
要因戦国期~織豊期の軍事勢力による支配地域化、および豊臣政権によるその承認
曖昧化の時期戦国期~織豊期
変動の確定時期天正15年(1587)
データシート (近代 / 吉田: 大隅・薩摩国界)
変動地域吉田
要因明治初期の是正
変動の確定時期明治初期

更新履歴

内容

:

  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 『国絵図と国界』の一部として、新規作成。