ここでは、戦国期~織豊期にかけて発生した備前・讃岐国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである小豆島・直島について分析しています。

そもそもどこか?

変動の舞台は、いうまでもなく小豆島直島、および周辺島嶼であり、現在の香川県 小豆郡 小豆島町・土庄町と同県 香川郡 直島町である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

Fig.146 小豆島 (備前・讃岐国界): 戦国期〜織豊期
Fig.146 小豆島 (備前・讃岐国界): 戦国期〜織豊期

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界 (現在の勝浦・鴨川市境) である。『天保讃岐国絵図』で示せば、以下に示す部分である。

Fig.669 天保讃岐国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.669 天保讃岐国絵図 (国立公文書館所蔵)

小豆島は、瀬戸内海では淡路島に次いで 2番目に大きい島で、その最高峰・けん山 (星ケ城ほしがじょう) は、淡路島のづる山を凌いでもっとも高い。以下はその南麓の景勝地・かんけいと内海の港を望む景観 (左)、池田 蒲野 のはな寿 (中)、および小瀬 重岩かさねいわである。

寒霞渓
寒霞渓
寒霞渓
花寿波
花寿波
花寿波
重岩
重岩
重岩
『小豆島旅ナビ フォトダウンロード』から取得(寒霞渓©cubic-tt[島空撮] / 花寿波・重岩©一般社団法人 小豆島観光協会)

要因と経過

小豆しょうどしま『日本書紀』おうじん天皇22年 4月の記事 に「阿豆枳辞摩」としてあらわれ、これにより本来は「あづきしま (あずきしま)」だったことがわかる。以下はその慶長年間(1596~1615) 写本における記述である。

Fig.666 日本書紀 第10巻 慶長年間(1596~1615) 写本 (部分・国立公文書館所蔵)
Fig.666 日本書紀 第10巻 慶長年間(1596~1615) 写本 (部分・国立公文書館所蔵)

その後「小豆島」と書かれたものが音読みされて現在の読みになったらしい。えいにん5年(1297)『御所大番役定書案』※1に「せうつしまの庄」とあり、すでに「ショウツシマ」と読まれている。一方、国名の記載は奈良期の『平城宮2177号木簡』が最古で「備前国児嶋郡小豆郷」とあり、『続日本紀』えんりゃく3年(784) 10月3日の記事にも「備前國兒島郡小豆嶋」とあって、小豆島は備前国 児島郡として把握されていたことがわかる。以下は『平城宮2177号木簡』と『続日本紀』の記述である。

Fig.667 平城宮2177号木簡・続日本紀 第29巻 明暦3年(1657) 刊本
Fig.667 平城宮2177号木簡・続日本紀 第29巻 明暦3年(1657) 刊本

小豆しょうどしまには、平安末期までに小豆島庄・庄が成立した。基本的に前者はいわ清水しみず八幡宮領、後者は皇室関係の所領である。小豆島庄は、前述の「せうつしまの庄」が直接的な記述としては初出だが、先行するけんちょう2年(1250)『九条道家初度惣処分状』※2に荘園 (庄・御厨) と並んで「備後国小豆嶋」が含まれている。肥土庄治承じしょう2年(1178)『後白河院庁下文案』※3に「備前國肥土庄」とあるのが初出である。

南北朝期に入ると、えんげん4年(1339) までに備前国 児島郡の飽浦あくらを本拠とした佐々木 (飽浦) のぶたねによって小豆島は占拠され、小豆島庄・肥土庄はその実体を失ったとみられる。その後、貞和3年(1347) 細川もろうじに攻め込まれ、信胤はその配下となった。小豆島はあきうじを経てよりゆきの所領に組み込まれ、南北・室町期を通じて讃岐国守護・管領細川氏の勢力下に置かれるところとなった。

もっともこの間、延元2年(1337)『後醍醐天皇倫旨』※4に「備前國小豆島」、応永2年(1395)『応永備前神名帳』に「備前国小豆島郡」※6、応永24年(1417)『淵崎八幡神社旧蔵青銅製鰐口銘』・応永31年(1424)『雲故庵大般若波経奥書』に「備前国小豆島肥土庄」「備前国小豆島北浦小海郷」※6、文明15年(1483)『福寿借銭状』※5に「備前國小豆島」とあるなど、引き続き備前国の一部として認識されている。

一方、応永19年(1412) と推定される『安富宝城書状』※8では、東寺から備前国分の棟別銭を求められたことに関連して以下のような見解を示している。

この島は備前の内であるとも内ではないとも、いまだ決まっていない島である

小豆嶋棟別事、承候、此嶋事ハ備前之内にて候共、内にて候ハぬ事共、いまた落居なき嶋にて候

安富宝城書状

『蔭涼軒日録』の明応2年(1493) 6月18日の記事※7にも以下のように記されている。

讃岐国は 13郡からなり、6郡は香川氏の支配 *中略* 7郡は安富氏の支配である *中略* 小豆島も安富氏の支配である

識岐國者十三郡也、六郡香川傾之 *中略* 七郡者安富領之 *中略* 小豆島亦安富管之

蔭涼軒日録

つまり、讃岐国には 13郡と同格の「小豆島」が存在する。安富氏・香川氏はともに守護・細川氏の代官 (守護代) である。これらによれば、小豆島の国郡は曖昧化しており、また (備前国でも讃岐国でもなく) 小豆島は小豆島である、という傾向もみられる。ただし明王寺釈迦堂には「大永八年五月五日 宥泉之書」と刻まれた瓦と「讃州小豆島池田之住人 宥泉」と刻まれた瓦があり※9、大永8年(1528) の時点で讃岐国と自認する住人もいたことがわかる。

この傾向は、戦国・織豊期を経て江戸期に入ってからも同じで、慶長10年(1605) の徳川政権 (江戸幕府) による池田村の検地帳表紙には単に「小豆島之内池田村」とあって※10国郡の記載はない。慶安元年(1648) 坂手村の検地帳でも「小豆島之内草加部村」(中略)「坂手村分」※11、延宝7年(1679) 福田村・吉田村の検地帳にも「小豆島福田吉田村」※12とだけある。

一方、『慶長備前国絵図』に小豆島は含まれず、ほかの絵図からも江戸初期には讃岐国として把握されていたと考えられる。ただし郡の扱いはきわめて曖昧なまま扱われ、また在地と公式の認識が一致する時期は遅かったようだ。

なお、小豆島の荘園は小豆島庄・肥土庄のほかに、けん元年(1275)『長勝寺鐘銘文』※13に「小豆島西方池田御庄」とある池田庄おうえい4年(1397)『草加部八幡宮鰐口銘』※14や応永14年(1407)『八幡宮鰐口銘』※15に「小豆島草賀部庄」とある草加部 (草賀部) 庄、『寸簸之塵きびのちり※16所収の永禄9年(1566)『備前国郡郷庄帖』に「尾美庄・草部庄・池田庄・肥土庄」※17とあるが知られる。これらについてわかることはほとんどないが、近世の村名を見ると、基本的には小豆島庄の内訳と考えられ、それがそのまま広域地名として残ったようだ。

Fig.169 小豆島 (備前・讃岐国界): 戦国期〜織豊期
Fig.169 小豆島 (備前・讃岐国界): 戦国期〜織豊期
天保郷帳・国絵図の村々
近世 讃岐国 小豆島 草加部村
近世 讃岐国 小豆島 池田村
近世 讃岐国 小豆島 土庄村・渕崎村・上庄村
近世 讃岐国 小豆島 小海村・大部村・福田村
近世 讃岐国 直島

直島も、小豆島と同様の変遷を経験した。直島が古代~中世に備前国として把握されていたことがわかる直接の史料は、建長5年(1253) 近衛家所領目録并相伝系図※38に「同国 直嶋 顕氏卿」(同=備前) とあるのがおそらく唯一だが、地理的に自明ではある※39

在地における国郡認識

延享3年 (1746) 巡検使の派遣に先立って代官が小豆島・直島を訪れた。このとき草加部村の庄屋は以下のように回答した※11※17

宝永五子年、小豆島の儀、直島、女木・男木島、塩飽島とも松平讃岐守様お預り地になり、その節より始めて諸帳面等、讃岐国と書き上げ来り申し候。

草加部村 庄屋の回答

つまり宝永5年(1708) になるまでは「讃岐国」とは書かなかったという。これは「備前国」と書いていたというより、それまでは何も書かなかったということだろう。『慶長小豆島絵図』では各地名に国名を付記しているが、備前・播磨・淡路だけでなく本来必要のない讃岐についても記載している※40。正保年間(1644~1648) の作成と考えられている『正保小豆島絵図』でも変わらず、小豆島はあくまでも小豆島であるとして認識されていた期間の長さがわかる。なお元禄2年(1689) の文書※41には「備前国小豆島土庄村」とあるといい、混乱そのものは継続していた。

Fig.515 慶長小豆島絵図 (昭和14年(1939) 写本・東京大学史料編纂所所蔵)
Fig.515 慶長小豆島絵図 (昭和14年(1939) 写本・東京大学史料編纂所所蔵)
Fig.516 正保小豆島絵図 (昭和14年(1939) 写本・東京大学史料編纂所所蔵)
Fig.516 正保小豆島絵図 (昭和14年(1939) 写本・東京大学史料編纂所所蔵)
注釈

更新履歴

内容

:

  • 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 『国絵図と国界』の一部として、追補。

:

  • 同、追補。

:

  • 同、新規作成。