ここでは、戦国期~織豊期にかけて発生した備前・讃岐国界 (国境) の変動と、そのまさに変動したエリアである小豆島・直島について分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、いうまでもなく小豆島・直島、および周辺島嶼であり、現在の香川県 小豆郡 小豆島町・土庄町と同県 香川郡 直島町である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。
天保郷帳・国絵図の村々
変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。『天保讃岐国絵図』で示せば、以下に示す部分にあたる。

小豆島は、瀬戸内海では淡路島に次いで 2番目に大きい島で、その最高峰・嶮岨山 (星ケ城) は、淡路島の諭鶴羽山を凌いでもっとも高い。以下はその南麓の景勝地・寒霞渓と内海の港を望む景観 (i)、池田 蒲野 の花寿波 (ii)、および小瀬の 重岩 (iii) である。
注釈
要因と経過
小豆島
小豆島は、『日本書紀』の応神天皇22年 4月の記事 に「阿豆枳辞摩」としてあらわれ、これにより本来は「あづきしま (あずきしま)」と呼ばれていたことがわかる。
その後、「小豆島」と書かれたものが音読みされて、現在の読みになったらしい。永仁5年(1297)『御所大番役定書案』※1には「せうつしまの庄」とあり、すでに「ショウツシマ」と読まれている。一方、国名の記載は奈良期の『平城宮2177号木簡』が最古で、「備前国児嶋郡小豆郷」とある。また、『続日本紀』の延暦3年(784) 10月3日の記事にも「備前國兒島郡小豆嶋」とあって、小豆島は備前国 児島郡として把握されていたことがわかる。
小豆島には、平安末期までに肥土庄と小豆島庄の 2つの荘園が成立した。皇室関係の所領である肥土庄は、治承2年(1178)『後白河院庁下文案』※3に「備前國肥土庄」とあるのが最も古い。一方、石清水八幡宮領の小豆島庄は、建長2年(1250)『九条道家初度惣処分状』※2に荘園 (庄・御厨) と並んで「備後国小豆嶋」と含まれるのが実質的な初出であり、前述の「せうつしまの庄」という直接的な記述がこれに次ぐ。
南北朝期に入ると、延元4年(1339) までに、備前国 児島郡の飽浦を本拠とする佐々木 (飽浦) 信胤によって小豆島は占拠され、小豆島庄・肥土庄はその実体を失ったとみられる。その後、貞和3年(1347) に細川師氏に攻め込まれると信胤はその配下となり、これ以降、小豆島は顕氏を経て頼之へと継承され、讃岐国守護・管領である細川氏の勢力下に置かれることとなった。
もっとも、細川氏の支配になっても、小豆島は引き続き備前国の一部として認識されていた。たとえば、延元2年(1337)『後醍醐天皇倫旨』※4に「備前國小豆島」、応永2年(1395)『応永備前神名帳』に「備前国小豆島郡」※5、応永24年(1417)『淵崎八幡神社旧蔵青銅製鰐口銘』・応永31年(1424)『雲故庵大般若波経奥書』に「備前国小豆島肥土庄」「備前国小豆島北浦小海郷」※5、文明15年(1483)『福寿借銭状』※6に「備前國小豆島」とある。
細川氏が小豆島をどのように位置づけていたのか、これを直接的に示す細川氏側の史料は見当たらず、明確にいえることは何もない。しかし、東寺百合文書に残された史料を突き合わせることで、当時の守護代・安富氏の興味深い見解が浮かび上がってくる。
まず、応永20年(1413) 8月付『備前国棟別銭沙汰并に無沙汰在所注文案』(東寺百合文書ヌ函79) という棟別銭に関係した文書がある。この中には「細川殿御領」として「小豆島」が含まれ、島内の「飛戸郷・池田郷・草部郷・西浦郷・長浦郷」が書き上げられている。一方、これに関係すると考えられるのが年不詳 4月27日付『安富宝城書状』(ヌ函254)※7であり、ここに東寺に対する安富氏の見解が記されている。
小豆島の棟別銭の件、承りました。この島のことは、備前国の内であるとも、あるいはそうではないとも、いまだ最終的な決着がついていない島でございます。その上、何事においても、備前国から課される国役を勤め仕えた前例は、これまでまったくない旨を (在地の者は) 申しております。また別件承った事柄については、こちらの使者に委細口頭で申させます。
小豆嶋棟別事、承候、此嶋事ハ備前之内にて候共、内にて候ハぬ事共、いまた落居なき嶋にて候、其上何事にても、備前よりの国役きんし候例、更々なく候由被申候、又一ケ条承り候間事、御使ニ委細令申候也、恐々謹言
上記によれば、小豆島は「備前国の内であるとも、あるいはそうではないとも、いまだ最終的な決着がついていない島」であるという。これは、東寺への棟別銭支払いを拒むための方便に近いが、備前国であるとは明言しない一方で、かといって讃岐国であるともいい切らない、どちらとでも取れる絶妙な表現になっている。
なお、『蔭涼軒日録』の明応2年(1493) 6月18日の記事※8には、以下のような記述がある。これは細川氏による直接的な領域認識そのものではないものの、現地における当時の支配の空気感がわかって面白い。
讃岐国は 13郡であり、6郡は香川がこれを領有している。寄子衆もまた、皆小さな分限 (身分・領地等) である。そうではあるが、香西とともによく従っている者たちである。7郡は安富がこれを領有している。しかし、国衆は大きな分限の者がすこぶる多い。そうではあるが、香西党を筆頭として、皆がそれぞれ勝手三昧で安富に従わない者がすこぶる多い。小豆島もまた安富 (の領地) である。
識岐國者十三郡也、六郡香川領之、寄子衆亦皆小分限也、雖然興香西能相從者也、七郡者安富領之、國衆大分限者惟多、雖然香西黨爲首皆各〻三味不相從安富者惟多也、小豆島亦安富之云〻
上記では、小豆島は讃岐国の「十三郡」には含めて数えられていない。にもかかわらず、讃岐の支配状況を伝える文脈の延長で「小豆島もまた安富 (の領地) である」と付け加えられている。讃岐国の内なのか外なのかわからない、この曖昧な記述そのものが、小豆島の位置づけを物語っている。
その後、戦国・織豊期を経て江戸初期に作成された国絵図のうち、『慶長備前国絵図』をはじめとする備前国絵図に、小豆島は一貫して含まれていない。つまり、徳川政権初期の国郡認識において、小豆島は備前国の外に存在していた。しかし同時に、『慶長小豆島絵図』の存在からいえば、讃岐国の中にも含められておらず、まさに国と国の狭間に置かれたような位置づけだったことがうかがえる。同絵図では備前・播磨・淡路の各地名は「備前岡山」「播磨国宝津」「淡路国三原」とそれぞれの国名を冠称しているが、これは讃岐についても「讃岐国八島」「讃岐国引田」とあって、どちらの国にも所属していないかのように記されている※9。
この曖昧な状態が改められるのは寛永国絵図であり、この寛永国絵図の略図・縮図と考えられ、68国のすべてが揃う『日本六十余州国々切絵図』を見ると、讃岐国には小豆島が描かれている (備前国にはもちろん描かれていない)。
小豆島が「国と国の狭間」に位置づけられてしまった背景のひとつには、前述の『蔭涼軒日録』にあらわれたような、中世以来の境界認識があげられる。しかし、これを決定づけたのは豊臣政権と考えるのが妥当だろう。小豆島は蔵入地 (直轄領) に組み入れられ、小西行長によって独立した支配が行われた。これによって、備前でもなく讃岐でもない「小豆島は小豆島である」といったような自立意識が生じたものと想像される。その後、江戸初期の所領編成と地理上の境界確定が進むなかで、小豆島は最終的に讃岐国とされた。このとき備前国とされなかったのは、中世の細川氏による支配があったからであり、狭間に置かれた小豆島も、ついに備前国に戻ることはなかった。
小豆島の荘園
前述の通り、小豆島には平安末期までに肥土庄と小豆島庄の 2つの荘園が成立したが、ほかに史料上は「池田庄」「草加部 (草賀部) 庄」「尾美庄」の 3つの荘園も知られる。池田庄については、建治元年(1275)『長勝寺鐘銘文』※10に「小豆島西方池田御庄」、草加部 (草賀部) 庄については、応永4年(1397)『草加部八幡宮鰐口銘』※11や応永14年(1407)『八幡宮鰐口銘』※12に「小豆島草賀部庄」、尾美庄については、『寸簸之塵』※13所収の永禄9年(1566)『備前国郡郷庄帖』に草部庄・池田庄・肥土庄とならんで「尾美庄」、などとある。しかし、これらについてわかることはほとんどなく、基本的には小豆島庄の内訳と考えられ、それがそのまま近世以降の広域地名として残ったようだ。
明王寺釈迦堂瓦銘
小豆島町池田の明王寺釈迦堂 (国指定重要文化財、小豆島八十八ケ所 第36番) には、大永8年(1528) の日付が刻まれた瓦が保管・展示されている※14。棟札によれば、堂は大永2年(1522) 4月の着工、天文2年(1533) の完成といい※15、その後の葺き替えの際に外された当時の瓦が一部、保存されたもののようだ。このうちの 1枚には「讃州小豆島池田之住人 宥泉」と刻まれており、この時点ですでに讃岐国を自認する住人がいたことがわかる。国界の変動を経験したほかの地域と同様の混乱または曖昧化の例といえる。
上に示したうち、iは釈迦堂のある明王寺 (小豆島八十八ケ所 第37番)、iiは釈迦堂、iiiは釈迦堂内で保存・展示されているうち軒丸瓦である。
直島
直島もまた、小豆島と同様の変遷を経験した。直島が古代から中世にかけて備前国として把握されていたことがわかる直接の史料は、建長5年(1253)『近衛家所領目録并相伝系図』※16が唯一と考えられる。この史料には「同国 直嶋 顕氏卿」(同=備前) と記載され、直島は備前国として把握されている。
地理的に自明といえば自明ではある。直島は小豆島よりもさらに児島 (現在の児島半島) に近く、小豆島が備前国に含まれていたのなら、とうぜん直島も備前国に含まれていたことになる。
注釈
在地における国郡認識
延享3年 (1746)、巡検使の派遣に先立って代官が小豆島・直島を訪れた。このとき、草加部村の庄屋は以下のように回答した※1。
宝永五子年、小豆島の儀、直島、女木男木島、塩飽島とも松平讃岐守様お預り地になり、その節より始めて諸帳面等、讃岐国と書き上げ来り申し候。
つまり、宝永5年(1708) になってはじめて諸帳面に「讃岐国」と書くようになったという。前述のように、中世に曖昧化した国界が確定し、小豆島が正式に讃岐国へ移されたとみなせるのは寛永国絵図以降である。この寛永国絵図の略図・縮図と考えられ、68国のすべてが揃う『日本六十余州国々切絵図』を見ると、讃岐国には小豆島が描かれる一方、備前国には描かれておらず、ここに中央と在地における認識の違いがあらわれている。
ただし、正保年間(1644~1648) の作成と考えられている『正保小豆島絵図』でも、「讃岐国引田」など、同じ国内の地名であっても引き続き「讃岐国」を冠称している※2。つまり、地名の表記に関しては『慶長小豆島国絵図』と大差はない。正保国絵図の仕様および作成過程からいえば、『正保小豆島絵図』はあくまでも『正保讃岐国絵図』(現存しない) の入力・下絵と考えられる。それでもなお、当地における国界の曖昧さが江戸前期になっても継続していたことがわかる。なお、元禄2年(1689) の文書※3には「備前国小豆島土庄村」とあるといい、混乱もまた続いていた。
注釈
「小豆島」「直島」という郡
小豆島・直島は、『天保讃岐国絵図』と『天保讃岐国郷帳』では「香川郡」といった通常の郡には含まれず、郡と同じ位置づけで「小豆島」「直島」があって、その中に各村が含まれている※1。いわゆる寛文印知のあった寛文4年(1664) を前後して、中世に乱れた郡は再編され、可能な限り古代のものへ戻された※2。しかし当然ながら、小豆島・直島が含まれるべき郡は讃岐国には存在しないため、このような扱いになったのだろう。

注釈
データシート
| 変動 | 小豆島・直島、および周辺島嶼 |
|---|---|
| 要因 | 戦国期~織豊期の軍事勢力による支配地域化、および豊臣政権によるその承認 |
| 曖昧化の時期 | 戦国期~織豊期 |
| 変動の確定時期 | 織豊期 |
更新履歴
内容
:
- 全般的にわかりにくい論述を改めた。
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- 未移行だった郡の扱いについての記事を「『小豆島』『直島』という郡」として改訂・移行した。
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- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、追補。
:
- 同、追補。
:
- 同、新規作成。















