(5) 古河・小山周辺所領史料

古河公方の成立後、その経済基盤となったのはしもこう庄である。ここではこれに関係して本稿でも参照する諸史料をあげておく。

(a) 小山氏所領目録

『小山ともまさ所領注文案』または『小山氏所領目録』は、所領を書き上げた史料で年月日は記載されていない。本稿に関係して「下総国 下河辺庄付新方 幸嶋下庄 大方郷」が含まれている。

この文書について、『栃木県史 史料編 中世1』(1973)は『小山朝政所領注文案』とし「承久三年から建治二年までの間に作製されたと推定される」としている。一方、『小山市史 史料編 中世』(1980)は『小山氏所領目録』とし、(A) かん2年(1230) 2月20日付『小山朝政ゆずりじょう』、および (B) かんおう元年(1350) 8月20日付『藤原ひでちか譲状』(ぬま秀親譲状) に、そのほかの諸史料から得られた情報 (a)~(h) を組み合わせたものとした上で「作成年次は室町時代、十五世紀中葉以降~戦国時代のものと考える」と結論づけている。

この両者について、どちらが合理的でより妥当といえるかでいえば後者であり、少なくとも『藤原秀親譲状』を前提とすれば、『栃木県史』がいうじょうきゅう3年~けん2年(1221~1276) 成立は否定され、観応元年(1350) 以後ということになる。しかし「下総国 下河辺庄付新方 幸嶋下庄 大方郷」については (f) の記号を与えられた部分にあるので、この文書の作成時期がわかったとしても、参照された文書がどのようなものなのかわからず、その年月日も得られない。

なお『小山市史』では (B)を何らかの理由で混入してしまったもので、記載された所領は小山領には含まれないとしている。しかし根拠のひとつとしている「五通の足利尊氏書状はいずれも、尊氏花押の筆勢が弱く、偽文書の可能性がある。偽文書でないにしても、写しであろう」という点については、そもそも写しであるのなら花押の筆勢は問題ではなく、この文章自体が矛盾を内包しているように感じられる。『千葉史学 第8号』(1986)の寄稿※1では古文書学の知見に基づいた精査が行われており、これを踏まえるとなお検討が望まれる※2

(b) 小山高朝伊勢役銭算用状写

『小山高朝伊勢役銭算用状写』※3は、小山領における「伊勢役銭」の負担額を小山高朝が書き上げ、佐八掃部大夫へ送付した目録で、当時の小山領の全体を網羅している。天正5年(1577) 11月27日付だが、天文5年(1536) の誤りと考えられている。伊勢役銭は伊勢信仰に関係して徴収された費用負担、また佐八氏は内宮の神職であり御師※4

(c) 足利梅千代丸印判状

『足利梅千代丸印判状いんばんじょう※5は、後北条氏 (小田原北条氏) 第3代・北条うじやす) によって擁立された古河公方・足利よしうじ (梅千代丸) が野田氏に所領を安堵した書状で、本領 (『先御落居之地廿五郷』『重而御落居之地』) のほか小山氏の所領の一部 (『小山領十一郷』) が含まれる。天文23年(1554) 12月23日付。

(d) 古河公方家料所書立案

Fig.727 古河公方家料所書立案 (御料所之書立之案)(NDLDC『喜連川文書 第1巻』所収)
Fig.727 古河公方家料所書立案 (御料所之書立之案)(NDLDC『喜連川文書 第1巻』所収)

『御料所之書立之案』に含まれる文書※6で、永禄4年(1561) 4月15日付。古河公方の御料所 (直轄地) である郷が広域地名ごとに書き上げられ、さらに小山氏に押領された郷も記載されている。

(e) 足利義氏(推定)知行充行状写

Fig.726 足利義氏(推定)知行充行状写 (御料所之書立之案)(NDLDC『喜連川文書 第1巻』所収)
Fig.726 足利義氏(推定)知行充行状写 (御料所之書立之案)(NDLDC『喜連川文書 第1巻』所収)

喜連川文書『御料所之書立之案』に含まれる文書※7。年不詳 12月15日付、天正2年(1574)、古河公方第5代・足利義氏によるものと推定されている。野田氏に充てがわれていたとり郷を白戸越前守へ 1代に限って充てがうとする知行宛行状で、ほかに大野郷・小堤郷・栗山郷・中里郷が野田氏に与えられていることがわかる。

(f) 小山押領之内野田拘之分書立

『御料所之書立之案』に含まれる文書※8。年月日不詳、天正3~4年(1575~1576) と推定されている。永禄3年(1560) まで古河公方・足利義氏から野田氏に宛てがわれていたが、その後、小山氏に押領された郷が書き上げられている。『古河公方家料所書立案』の小山氏押領分とは重複しないので※9、直轄または他氏 (野田氏以外) の知行分であると考えられる。

Fig.728 小山押領之内野田拘之分書立 (御料所之書立之案)(NDLDC『喜連川文書 第1巻』所収)
Fig.728 小山押領之内野田拘之分書立 (御料所之書立之案)(NDLDC『喜連川文書 第1巻』所収)

(g) 御料所方認書

『御料所之書立之案』と同様、喜連川文書のひとつ※10、天正2年(1574) 12月2日付。古河公方の御料所である郷が広域地名ごとに書き上げられ、義氏の側近、季竜きりゅう周興しゅうこう (芳春院)・松嶺しょうれい昌寿しょうじ (寿首座) の連署があり、後北条氏第4代・北条うじまさ宛。すべての郷が記載されているのではなく、直前のせき宿やど城攻撃などで荒廃したか、そのほかの何らかの問題が生じていた各郷であると考えられている。

Fig.729 御料所方認書 (部分 ・ NDLDC『喜連川文書 第1巻』所収)
Fig.729 御料所方認書 (部分・NDLDC『喜連川文書 第1巻』所収)
注釈