小貝川 (古代の鬼怒川本流) 東流部は下総・常陸の国界であり、中世には下総国に豊田庄・松岡庄が展開され、常陸国には下妻庄が成立した。永享7年(1435)『常陸国富有仁等注文写』※1によれば「下妻庄内」に「古沢郷」「山尻郷」が含まれ、応永2年(1395)『鎌倉公方足利氏満所領宛行状』※2に「常陸国下妻庄内小島郷半分」、応永24年(1417)『関東管領上杉憲基施行状』※3に「常陸国下妻庄内小島郷」などとある。
戦国期に入ると、北方の関城を根拠とする多賀谷氏が勢力を強めて南下し、下妻城を拠点に下総国の豊田庄・松岡庄を含む一帯にまでその領域を拡大した。多賀谷氏はもともと結城氏の家臣だったが、のち半ば独立して結城氏をしのぐ勢力にまで成長していた。しかし最終的にその結城氏と佐竹氏のどちらに従うかで内部分裂し、天正17年(1589) 多賀谷重経・宣家親子 (ただし宣家は養子、佐竹義宣の弟) と三経 (重経の実子) の二派に分裂する※4。
この結果、双方のその後は大きく異なることになった。慶長6年(1601) 関ケ原の戦いで態度をはっきりさせなかった佐竹義宣は、家康から減封・転封の処分を受け、義宣に従った重経・宣家は所領を没収された。一方、結城秀康は大幅な加増を受け、これに従った三経は相応の所領を得ることができた。ただし、宣家が義宣に従って出羽国 久保田へ移る一方、三経もまた秀康に与えられた越前国 北庄へ移ることになった (重経は下妻城に居座ったが追放され、各地を放浪した)。
当地の領域認識はこれによって曖昧化したとみられる。元和年間(1615~1624) までに作成されたと推定されている、[SHMSFNBSH:alt]には中世以降の鬼怒川 (板戸井開削以前の流路) から東、小貝川 (古代の鬼怒川) までの部分が描かれていない。つまり近世 下総国 豊田郡の大部分が欠けている。

これは『余州図』の下総国絵図でも同じである。

『13. 下総国(3)』では以下のように描写されている。

小貝川の流路 (古代の鬼怒川本流、下総・常陸国界) は描かれておらず、大房村・三坂村と中世以降の鬼怒川沿いの村々に限られる。また本来は近世 常陸国 河内国である下妻 (城廻村 ・当郷村など) や長塚村まで含まれ、国郡認識の乱れがあらわれている。
織豊期から江戸初期に国界の変動が確定したほかの事例によれば、基本的に、検地に当たって直前の国郡認識が反映されるか、または旧領が安堵されることで本来の領国の拡大部分 (領域認識) がそのまま取り込まれて国界は変動した。これは認識がスムーズに継承されることが前提であって、当地にも関係する佐竹氏の依上保がその典型的な事例である (『25.1. 変動の要因と時期』を参照)。しかし多賀谷重経・宣家の旧領の場合、没収の経緯や重経の反抗的な態度、宣家の減封・転封 (正確には佐竹義宣のそれに従った移動) が重なってこれが不十分だった可能性がある。そしてその旧領に豊田郡の大部分 (鬼怒川以東) が含まれる。さらに多賀谷領が常陸国 下妻城を拠点に常陸・下総にまたがった領域を形成した上、分裂して鬼怒川以西 (近世 下総国 岡田郡に相当) を支配した実子である三経もまた、加増・転封 (これも正確には結城秀康の加増・転封による) によって当地一帯に空白が生じたことも影響したのかもしれない。
当地では、鎌庭村には表紙に慶長9年(1604) 10月8~16日付の検地帳が現存し、表紙には「下総国下妻領鎌庭村御縄打水帳」とある※5。このとき小島村・古沢村・山尻村でも検地が実施され、「下総国下妻領」として把握されたと推定される。しかし郡について整理が完了するのはおそらく正保国絵図以降だろう。
地形的には小島村・古沢村の付近に 2つの流路跡があって、北をⒶとして南をⒷとすれば、Ⓑのほうが流路の幅・自然堤防の発達とも規模が大きい。山尻村の付近にも現在の小貝川流路に対して、その南西には規模の大きい流路跡が認められる。

おそらくⒶを流れていた鬼怒川の本流は、やがて堆積によって流れが滞って南へ向かうようになる一方、Ⓑの流路も残ってしばらく一定の流れはあったと考えられ、山尻村の流路もこれにともなって変わったか、その後の流量の変化に関係して変動したものと推定される。そしてこのような自然環境の変化が、領域認識の継承が不十分ななか影響を及ぼし、小島村・古沢村付近、および山尻村が最終的に下総国とみなされることにつながったのだろう。
正保常陸国絵図にあたる中川忠英旧蔵の常陸国絵図に小島村・古沢村・山尻村は含まれず、国界付近の描写はその後の元禄国絵図と共通する。

なお元禄・天保の下総国絵図 (#764295・#764245) では小島村が流路の北に配されている。

小島村は村内を流路が貫流 (横断) し、村域の大部分はそれより南にあるのでこれは不思議に思える。しかし、『迅速測図・仮製地形図・迅速測図原図』で確認できる集落は下妻市街地から続く台地の南端、熊野神社・観音堂がある付近に限られ、流路以南となる低地は水田として利用されている。
つまり村は文字どおりに村落のことであって、国絵図においても村落が存在するところに村は配されたのだろう。
武蔵国 多賀谷郷 (多ケ谷郷とも※6、近世 武蔵国 埼玉郡 騎西領 内田ケ谷村・現在の埼玉県 加須市 内田ケ谷) から出た一族。南北朝期の小山義政の乱 (天授6年/康暦2年~弘和2年/永徳2年,1380~1382) 後、結城氏との関係が生まれ、のちその家臣となったが、戦国期までに勢力を拡大して事実上結城氏から独立していた。ほかに結城氏の重臣で多賀谷政広という人物がいる (重経の祖父と政広の父が兄弟)。
| ^ ※1: | 永享7年(1435) 8月9日付、『下妻市史料 古代・中世編』(1996)、#166・cc.66-67。 |
| ^ ※2: | 応永2年(1395) 10月17日付、『下妻市史料 古代・中世編』(1996)、#156・c.64。 |
| ^ ※3: | 応永24年(1417) 3月10日付、『下妻市史料 古代・中世編』(1996)、#159・c.65。 |
| ^ ※4: | 『下妻市史 上 原始古代・中世』(1993)・『関城町史 通史編 上巻』(1987) など。 |
| ^ ※5: | 『村史 千代川村生活史 第3巻 前近代史料』(2001)。 |
| ^ ※6: | 『新編武蔵国風土記稿・新編相模国風土記稿』。 |