27.6.3. 論点と争論の経過
(1) 武蔵国 (秩父郡5村)

『神川村郷土誌』に引用されている『元禄十三年二月武州方より代官へ差出したる書状』よれば、武蔵国側 (秩父郡 5村) は、神道裁許状の存在およびその記載内容を根拠に神流川が国界であると主張した。

元禄十三年二月武州方より代官へ差出したる書状

武蔵国と上野国の境界 (国界) は昔から神流川で間違いない。神流川を境界として南東川上は秩父郡、川下は児玉郡である※1

秩父領と山中領の境界 (領界) は昔からさか峠・ごえ峠・坂丸峠・土坂つっつぁか峠 (がある分水嶺) である※2

ぐり権現の祠官・黒沢石見守が裁許状を所持しているが、その裁許状には『武州秩父郡山中野栗権現の祠官・黒沢石見守』と書いてある※3

戸野村妙見の祠官・宮前和泉守が裁許状を所持しているが、その裁許状には『武州児玉郡山中妙見祠官・宮前和泉守』と書いてある※4

神流川を隔てた上野国の相原村明神の祠官が裁許状を所持しているが、その裁許状には『上州甘楽郡相原村丹生明神祠官・宮前伊勢様』と書いてある※5

神道裁許状は、神職に与えられた免許状で、寛文5年(1665) 以降、幕府の支配体制のなかで制度化され、京の吉田家によって発行された。

Fig.641: 神道裁許状の一例 (境原山邉家資料#08-09-13・佐賀県立図書館所蔵)

一般に寺社における国郡認識は堅固で変化せず、より古い記憶をそのまま留めていることが多い (『22. 根羽村』『28.3.2. 高椅』を参照)。また神道裁許状の性格上、公的な書類に相当する。つまり武蔵国側 (秩父郡 5村) の主張は正しい。

「野栗権現」(現在の乃久里神社、上野村 新羽字野栗※6) と「戸野妙見」(明治期の戸野神社、現在は戸野を含む神流町 生利の御鉾神社に合祀※6) は実際に妙見社 (妙見宮、現在の秩父神社) を勧請したもので※8、神道裁許状も妙見社から添状を得て取得していた。このため上野国側 (山中領) も扱いに困っていたようで、元禄13年(1700) 2月『山中領村々上州・武州国境画定につき願状』※7には以下のように書かれていた。

山中領村々上州・武州国境画定につき願状

新羽村の野栗権現の神職・石見 (黒沢石見守) は、元禄3年(1690) 武州秩父領大宮の近江守方からの添状 (同) を得て京都へ持参し、吉田様から裁許状をいただいた際、それには『武州秩父郡野栗』と書いてあったので、『上州甘楽郡』であると再三申し上げたものの、(受け入れらず) 添状のとおりに裁許状をいただいた※9

生利しょうり村の戸野妙見の神職・和泉 (宮前和泉守) は、貞享4年(1687) 武州秩父郡大宮村の宮本方より添状 (何らかの証書か紹介状) を得て京都へ行き、吉田様から裁許状をいただいたところ、それには『武州児玉郡山中下山』とあったが、あまり気にしないまま帰った。その後、国郡ともに間違っていることに気がついたものの、再度京都へ行くのも大変なので、そのままにした※10

しかし上記のとおりで変更できず、また「武州」の表記がある棟札について武蔵国側 (秩父郡 5村) から指摘されると、上野国側 (山中領) は「全体的に文字ははっきりしない」※11という苦しい弁明しかできなかった。

前述のように武蔵国側 (秩父郡 5村) は正しく、そもそも譲る必要はないが、その主張に固執する理由 (具体的な利害) があったとすれば、国界が分水嶺になれば野栗権現・戸野妙見 (乃久里神社・戸野神社) と妙見社 (秩父神社) の結びつきが失われることにあったのではないかと思われる。規模の大きい神社で祭礼が行われると、周辺の村々や関係のある神社 (末社) は分担金や奉仕を求められることが多い。2社が離れれば 5村の負担が重くなる懸念を抱いていたのかもしれない。

とはいえ幕府の裁許を求める争論では、江戸への往復・滞在費用のほか、役人への土産物などその費用は相当なものになる。元禄15年閏8月『山中領村々上州・武州国境論争裁許覚』※12によれば、武蔵国側 (秩父郡 5村) は最終的に国界が分水嶺であってもかまわないという姿勢を示した。結局その負担は妥協可能な範囲であって、生活に直接的な影響を及ぼすようなものではなかったのだろう。

(2) 上野国 (山中領)

上野国側 (山中領) の文書は先行するものとして、元禄12年(1699) 5月『山中領村々上州・武州国境論争申立書』※13と元禄13年(1700) 2月『山中領村々上州・武州国境画定につき願状』※14があるが、前述のように実態はともかく公式には武蔵国側 (秩父郡 5村) が正しいため、その主張はよくあるように回りくどく客観性・論理性に欠け、反論にも成功していない。また山中領としては客観性を追求したところで無意味なので、領内が二分された場合の生活の困窮に訴えるしかないが※15、どこか取り繕ったところがあって、伝わってくるものがない。

それを感じ取ったのか、元禄15年(1702) 6月『山中領村々上州・武州国境紛争につき故障口上書』※16では、内情が詳細に記載された。

山中領村々上州・武州国境紛争につき故障口上書

小百姓 (田畑の少ない農民) は、神流川の対岸の細々とした小作田で耕作しているので、それを理由とする慣習を頼りに (対岸で) 薪・秣も採取して生活している。これは山が荒れるので地主は不満だが、今までは村内のこととして双方の名主・乙名百姓 (村の自治にかかわる農民) が話し合って治めてきた。もし国界が神流川に定まって村が分かれれば、(不満を感じてきた地主は) 小作田で耕作できないようにするだろうから、農業を続けられない農民が日向・日陰ともにあらわれるだろう※17

年貢を納めるのに窮した百姓は、対岸の田畑を質に入れている。この場合も小作田と同じように (田畑があることを理由とする慣習を頼りに、対岸で) 薪・秣を採取していることについて、当分の間とはいえ質に入れた田畑に関しては、薪場・秣場の地主は同意しかねている。その上、別々の村になるようなことになったら、質に入れた土地をそのままにしておくことは難しくなって (すぐに借金を返さなければならない、または薪場・秣場の利用を諦めなければならないから) 日向・日陰とも百姓は困窮することになるだろう※18

つまり相互扶助もひとつの郷村であるから成り立つのであって、別々の郷村になれば簡単に瓦解することが明らかにされている。このほか焼き畑跡の相互利用 (薪場・秣場) や道・橋の修繕、茅葺き屋根の葺き替え (材料・人手の協力) も成り立たなくなることが記載された。

別の項目によれば、一般の入会地利用に関して、たとえば北岸の万場村が南岸の森戸村の入会地を利用する場合など証文を取り交わすケースもあったが、全般的には信頼関係で成り立っていた※19。しかし元禄7年(1694) から実施された検地では、そのような入会地をすべて書き出すことが要求された。これによって所有権・利用権を明確にしなければならなった結果、ありとあらゆる入会地で争いに発展する気配があったという※20

『万場町誌』(1994)は、この争論の結果について「自分たちの主張を実現させるために山中領の百姓たちの示した底力は、躍動感にあふれ、その結束力と名主・長百姓を中心とした指導力は、後世にも語り継がれるべき出来事でもある」とあるが、どうだろうか。

^ ※1: 原文: 武藏國と上野國境目往古より神名川國境に紛無御座候神流川を限り南東川上は秩父郡川下は兒玉郡にて御座候。
^ ※2: 原文: 秩父領と山中領との境往古より志賀坂峠小越峠坂丸峠土坂峠領境目に御座候。
^ ※3: 原文: 野栗權現祠官黑澤石見守裁許狀所持仕候ニ付寫取申候右裁許狀武州秩父郡山中野栗權現の祠官黑澤石見守と御座候。
^ ※4: 原文: 戶野村妙見祠官宮前和泉守裁許狀所持仕候右裁許狀に武州兒玉郡山中妙見祠官宮前和泉守と御座候。
^ ※5: 原文: 神流川を隔て上野の內相原村丹生明神の祠官裁許狀所持仕候右裁許狀には上州甘樂郡相原村丹生明神祠官宮前伊勢樣と御座候。
^ ※6: 『万場町誌』(1994)
^ ※7: 『群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1』(1977) 所収、#182・cc.204-205。
^ ※8: 『元禄十三年二月武州方より代官へ差出したる書状』に「武州鎭守妙見本社秩父郡大宮町に御座候右妙見勸請致所武州の內所々に御座候右貳拾六ケ所の內にも妙見の社二ケ所御座候」とあるなど。
^ ※9: 原文: 新羽村之内野栗権現之社人石見儀、元禄三午ノ年武州秩父領大宮近江守方ゟ之添状ヲ取、京都へ持参仕吉田様ゟ御裁許状頂戴仕候節、武州秩父郡野栗と御書出シ被下候ニ付、上州甘楽郡ニ而御座候段再三御断申上候得共、添状之通御裁許状被下候。
^ ※10: 原文: 生利村之内戸野妙見之社人和泉儀、貞享四卯年武州秩父郡大宮村宮本方ゟ添状取上京仕、吉田様ゟ御裁許状被下候ニ武州児玉郡山中下山と有之候へ共、無何心頂戴仕罷帰候、以後国郡共ニ相違仕候儀心付候へ共、又々京都へ罷上り候儀難成候故、其通ニ存罷在候由和泉申候。
^ ※11: 原文: 「惣而文字不分明ニ御座候」、元禄13年(1700) 2月『山中領村々上州・武州国境画定につき願状』。
^ ※12: 『群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1』(1977) 所収、#184・cc.207-208。
^ ※13: 『群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1』(1977) 所収、#181・cc.203-204。
^ ※14: 『群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1』(1977) 所収、#182・cc.204-205。
^ ※15: 国郡と山中領は本来別の概念であって、国界の位置に関係なく山中領は一体的なまま存在できると思われるが、ここではその可能性についての検討は省く。神流川が国界となれば山中領が二分されるという前提で論理が展開されているため。
^ ※16: 『群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1』(1977) 所収、#181・cc.206-207。
^ ※17: 原文: 「小百姓者、神流川をまたき小作田地入組為作申候ニ付、其由緒を以薪秣取渡世送り申候、是者山荒申候故地主者望不申事ニ候得共、壱郷壱村故双方名主乙名百姓相談相対を以左様ニ仕来申候、若神流川切ニ国訳り申候ハゝ、川をまたき小作田地為作申間鋪候様ニ奉存候、然者渡世ニはなれ候百姓日向日影ニ出来可仕と奉存候」。
^ ※18: 原文: 「御年貢ニ指詰り申候百姓者、川をまたき田地しちニ入置、御年貢御上納仕来候、是又小作田地同前ニ薪秣為取申候ニ付、当分迚茂他村へしち物ニ為入候儀者、其所之者同心仕兼候、殊ニ国をまたき候而者しち地指置候儀不自由ニ罷成、日向日影百姓困窮ニ可罷成と奉存候」。
^ ※19: 原文: 秣薪入相之事、神流川をまたき日向之方万場村日影之方森戸村証文ニ而入相申候 *中略* 右之外神流川をまたき日向日影村々百姓壱郷壱村ニ而御座候得者、証文無御座互ニ心入ニ而 *中略* 内証ニ而永々之儀、当分和談ニ而相極候。
^ ※20: 原文: 山林入会之場所御究御水帳ニ御載可被成由候 仰渡候ニ付、内証吟味仕候所ニ悉ク出入出来可仕様子ニ御座候。