28.3.2. 高椅

(1) 変動の要因と時期: 寛永14年(1637)

Fig.081 高椅 (下総 ・ 下野国界): 寛永14年(1637)
Fig.081 高椅 (下総・下野国界): 寛永14年(1637)

この地域※1は、和名類聚抄わみょうるいじゅうしょうに含まれる下総しもうさゆう郡の高橋郷にあたる。

Fig.675 元和3年(1617): 倭名類聚鈔 第6巻 古活字版(20巻本) (国立国会図書館所蔵)
Fig.675 元和3年(1617): 倭名類聚鈔 第6巻 古活字版(20巻本) (国立国会図書館所蔵)

たかはし神社もえんしき (延喜式神名帳)』に下総国 結城郡の神社として記載されている。

Fig.532 延喜式 第9巻 現存最古の写本 (部分 ・ 東京国立博物館所蔵 ・ ColBase公開)
Fig.532 延喜式 第9巻 現存最古の写本 (部分・東京国立博物館所蔵・ColBase公開)
▼(参考) 現在の高椅神社 (とちぎ旅ネット 栃木の観光・旅行情報サイト フォトライブリーより)。
Fig.674 (参考) 現在の高椅神社
Fig.674 (参考) 現在の高椅神社

しかし近世は下野しもつけ郡に含まれ、国界が南へ移ったことがわかる。

この付近では、古くから結城氏が下総を、やま氏が下野を勢力下に置いていた。この構図は中世を通して変わらなかったが、南北朝期に入ると、てんじゅ6年/|こうりゃく2年~こう2年/えいとく2年(1380~1382) に「小山よしまさの乱」、その後、えいきょう12年~きつ元年(1440~1441) には「結城合戦」が起こるなど、動乱に巻き込まれていくことになった。

小山義政の乱

鎌倉公方第2代・足利うじみつは北関東の在地諸勢力を抑え込んで自身の権力拡大を狙っていた。そのタイミングで発生したのが小山義政の乱で、天授6年/康暦2年、対立する宇都宮基綱を義政は氏満の制止を無視して攻撃・殺害し、これが氏満に絶好の口実を与えることになった。氏満はただちに討伐を命じ、義政は本拠する小山城 (祇園城) に籠城したものの降服、しかしその後二度に渡って再び蜂起するなど抵抗しつづけ、終結したのは宇都宮基綱の殺害から 2年後の弘和2年/永徳2年(1382) のことだった。さらに元中3年/至徳3年(1386) には行方不明になっていた義政の遺児・若犬丸が挙兵し、これも抵抗と逃亡を繰り返してようやく収まったのは応永4年(1397) のことだった。なおここで断絶した小山氏は、その後、結城氏からやすともを迎えて再興された。

結城合戦

えいきょう10~11年(1438~1439) の乱 (永享の乱) では、破れた鎌倉公方第4代・足利もちうじが自害し、鎌倉公方は断絶した。しかし密かに逃れていたその遺児 (春王丸・安王丸) を結城うじとももちともが保護、永享12(1440) 反乱を起こして結城城に籠城した。これに北関東の諸氏が応じて戦いは 1年におよぶことになったが、最終的に城は陥落し氏朝・持朝は自害した。春王丸・安王丸も捕らえられ、のちに死亡した。結城氏は幼少のため逃がされていたしげともが継承した。

Fig.676 結城合戦絵詞 嘉永3年(1850) 写本 (『結城合戦絵巻』 ・ 部分 ・ 国立国会図書館所蔵)
Fig.676 結城合戦絵詞 嘉永3年(1850) 写本 (『結城合戦絵巻』・部分・国立国会図書館所蔵)

てんしょう3年(1575) 小山氏の本拠・祇園城 (小山城) は北条うじてるに攻略された。その後、天正10年(1582) 小山ひでつなが形式的に復帰するものの、天正18年(1590) に結城はるともによって攻略された。

小山秀綱と結城晴朝は兄弟であり、父は小山たかとも、祖父は結城まさともという関係にある。結城晴朝の祇園城攻略は、すでに豊臣秀吉が小田原城を包囲する状況にあって、豊臣陣営についた立場としてやむを得なかったとみられ、また小山氏の旧臣が内応したともいわれる※2

しかしこれによって小山氏の旧領は結城領に組み込まれ、下野・下総の 2国にまたがる領域が形成されることになった。経緯こそ異なるものの、これは多賀谷領の状況 (『28.2.2. 下妻鬼怒川東流部(1)』を参照) と同じである。さらにこの新たな結城領は結城ひでやすが継承した。秀康は徳川家康の次男で、天正12年(1584) 小牧・長久手の戦い後に秀吉の養子 (実質的には人質) となって羽柴秀康を名乗り、さらに天正18年(1590) 晴朝の求めに秀吉が応じてその養子となっていた。そしてけいちょう5年(1600) 関ケ原の戦いで家康が勝利すると、秀康は論功行賞で加増・転封となって越前国 北庄 (現在の福井) へ移ることになり、やはり多賀谷領と同じように当地一帯に空白が生じることになった (そもそも多賀谷三経領については要因そのものが同じ)。

結城領は山川領とともに一時的に幕府直轄地となって代官・伊奈ただつぐの支配下に入ったとみられる※3。このとき引き継ぎが不十分だったのか当地の領域認識は曖昧化した。その後、高椅では寛永14年(1637) に高橋村※4・中島村、同15年(1638) に延島村※5で検地が行われた。このうち中島村の検地帳が現存し、その表紙には「下野国結城領中嶋村」とある※6。これにより高椅が下総国 結城郡から下野国 都賀郡に移されたのはこの時点ということができる。

『余州図』の下総国絵図に着目すると、『下総一国之図』(『6. 寛永国絵図・日本六十余州国々切絵図』を参照) を除いて、結城本郷にあたる「ゆふき」はほかの村々のオブジェクトとは異なる、特徴的な塗り分けが施されている。

Fig.732 日本六十余州国々切絵図 下総国 (『下総国11郡絵図』 ・ 秋田県公文書館所蔵)
Fig.732 日本六十余州国々切絵図 下総国 (『下総国11郡絵図』・秋田県公文書館所蔵)

凡例には「赤キハ下野」「黒キハ常陸」「白キハ下総」とあり、本図では結城本郷が 3国で塗り分けられている。これは寛永下総国絵図にあたる『寛永下総国絵図』でも同様である。厳密な意味については、ほかに情報が書かれていないので不用意に断定することは避けたいが、少なくとも結城本郷という町は、下総国であることは確かであるものの (下野国絵図・常陸国絵図にはこのオブジェクトは存在しない)、かなり曖昧な位置づけになっていることは確かである。おそらく高椅を含む周辺地域にも同じことがいえ、それが確定するのが寛永14~15年(1637~1948) の検地だったと推定される。

注釈

(2) 在地における国郡認識

めい7年(1770) 『高橋村高椅大明神社楼門再建立につき披露状』※1には「元禄九年より下野国都賀郡へ御加入被仰付侯、然は国郡も相改」とあり、高椅神社が認識する国郡変更の時期は元禄9年(1696) だった。

注釈

(3) 天保郷帳・国絵図の村々

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Fig.081 高椅 (下総 ・ 下野国界): 寛永14年(1637)
Fig.081 高椅 (下総・下野国界): 寛永14年(1637)
近世 下野国 都賀郡※1
55.
延島村※2※3※4
56.
延島新田村※5
57.
中川原村※6※3※7※8
62.
63.
64.
中島村
280.
田間村※14
281.
武井村※15
282.
野田村※16※17
285.
おお※18※19
286.
稲葉郷
287.
中久喜村※20
288.
神鳥谷村※21※22※23
289.
犬塚村※24
290.
犬塚新田村※25※26
293.
泉崎村
294.
とう※27
295.
塚崎村※28
296.
出井いでい※29
297.
はちがた※30
298.
向野村
299.
雨ケ谷村※31
300.
横倉村※32
303.
喜沢村※33
373.
山田村
374.
飯田村※34※35
375.
上茅橋村※36※37
376.
下茅橋村※36※37
377.
やな※3※38
378.
向原新田※39
近世 下野国 河内郡※1
147.
磯部村※40
148.
絹板村※41
155.
船戸村※42
189.
下吉田村
近世 下総国 結城郡※43
1.
結城本郷※44
2.
おお※45
3.
小田林村※46
4.
すけ※47
5.
小森村※48
6.
小森新田村※49
7.
久保田村※50
8.
中村※51
9.
中村新田※52
12.
作野谷村※53※54
13.
上成村※55
14.
田間村※56
21.
武井村※57
田間・武井

近世 下総国 結城郡と下野国 都賀郡には、同名の田間・武井 2村が国界を挟んで相対している。文禄3年(1594) 前後の中世 相模国 東郡 相原郷 (はら郷、『24.1. 相原』を参照) や、明治29年(1896) 前後の近世 下総国 葛飾郡 東金野井・西金野井 2村、親野井・西親野井 2村、西宝珠花・東宝珠花 2村など (『28.4.3. 庄内領』を参照) のように、貫流する河川流路が変動後の国界となったために分断された郷 (村) の例があるが、下総の田間・武井 2村も下野の田間・武井 2村も、それぞれ集落は台地上にあって間には飯沼上流部の低湿地が存在する。また国界の地形的な特徴が変化するという意味では中世 相模国 鶴間郷 (つる郷、『24.2. 鶴間』を参照) 付近の相模・武蔵の国界と類似する。

元亨元年(1321)『山河貞重寄進状案』※58によれば、「下総国結城郡下方内毛呂郷」の四至牓示として「大町境・武井境をもって北を限る (限北大町堺武井堺於)」とあり、大町と武井との境界が毛呂郷 (近世 下総国 結城郡 東茂呂村・北南茂呂村) の北限となっていた。しかし、毛呂郷自体が「毛呂河」(飯沼上流部の低湿地を流れる小河川、現在の西仁連川にあたる) より東にあるため、この文書は下総の武井村との境界しか描写していない。

中世の史料ではほかに、永禄7~8年(1564~1565) 『山川氏重等連署寄進状写』※58と天正18年(1590)『豊臣秀吉宛行状』※58の「田間」が下総の田間、天文5年(1536)『小山高朝伊勢役銭算用状写』にある「下郷」の「たんま」「たけい」と天文23年(1554) 『足利梅千代丸印判状』の「小山領十一郷」の「多摩」「武井」が下野の田間・武井、文禄5年(1596)『結城秀康知行充行状写』※59の「小山領武井村内」が下野の武井である。時期が重なることから、すでに山川領 (下総国) としての田間・武井 2村と小山領 (下野国) としての田間・武井 2村が併存していたと考えられるが、両者の間で収奪が行われた可能性が完全に否定されるわけでもない。

国界の変動があったとすれば、毛呂郷の存在を前提に、飯沼上流部の低湿地をまたいで西側にも張り出していた下総国 結城郡の田間・武井 2村が、山川領と小山領に分かれ、これがそのまま検地の過程で下総・下野の国界に反映されたと考えるのがもっとも自然だが、確かにそうだといい切るには情報が足りない。

注釈