15. 伊師

15.1. 古代

「伊師」は『播磨風土記』に記された播磨国はりまのくに 讃容郡さよのこおり 讃容里さよのさとの一部で、現在の兵庫県 佐用郡 よう町の石井地区に当たる。

Fig.682 播磨風土記 文久2年(1862) 写本 (部分 ・ 国立公文書館 所蔵)
Fig.682 播磨風土記 文久2年(1862) 写本 (部分・国立公文書館 所蔵)
播磨風土記

讃容里さよのさと、事はこおりと同じ、土は上の中なり。かわ (本名は玉落川)、大神の玉、の川に落ちき、ゆえに玉落とう。今、かわうは、稲狹部いなさべのおおかわの村にり、ゆえかわう (の山に黄連かくまぐさゆ)。くら比売命ひめのみことの山にかなくらを得たまいき、ゆえに山の名をかなくら、川名をくらう。すなわこれくらかわかみ、川底いすごとし、ゆえう (の山に精鹿・升麻とりのあしぐさゆ)。

原文: 讃容里、事与郡同、土上中。吉川 (本名玉落川)、大神之玉、落於此川、故曰玉落。今云吉川者、稲狹部大吉川、居於此村、故曰吉川。(其山生、黄連)。桉見、佐用都比賣命、於此山得金桉、故曰山名金肆、川名桉見。伊師、即是桉見之河上、川底如床、故曰伊師 (其山生、精鹿升麻)。

これによれば「伊師」はくら川の川上のことで、川底が平な岩盤で「いす」のようだからこのように呼ぶという。桉見川は佐用町を還流して赤穂市で瀬戸内海に注ぐ千種川 (古名: くま川) のことで、この場合は主要な支流である佐用川の上流部のことを指しているのだろう。本流・支流や河川名称が厳密になるのは近現代に入ってからであり、交通路としては現在も急行線や鳥取自動車道がそうであるように佐用川のほうが意識される。

Fig.200 伊師 (播磨 ・ 美作国界): 古代~中世
Fig.200	 伊師 (播磨・美作国界): 古代~中世

この播磨国 讃容郡 (佐用郡さよのこおり) の伊師は、古代の末までに美作みまさか国の庄として把握されるようになった。

15.1.1. 変動の要因

伊志庄に関する史料は限られる。ほうげん3年(1158) 『かんせん※1に初めて名前があらわれ、「石清水八幡宮并宿院極楽寺」の寺領として「美作国」の「伊志庄」が含まれている。げんりゃく2年(1185) 『源頼朝下文くだしぶみ※2でも「八幡宮寺領」「美作国」の「伊志庄」、てんぷく元年(1233)『石清水八幡宮寺申文』※3にも「美作国伊志庄」が含まれる。しかしこれ以外に史料は現存せず、開発の経緯や美作国とみなされた理由はわからない。おそらく比較的なだらかな峠 (現在の国道373号が通るルート) を越えた西からの開発意欲が当地に及んだためと考えられるが、もともと人口希薄で地形的にも曖昧な国界が正確に把握されず、美作国の延長にあたるとみなされてしまっただけかもしれない。

『石清水八幡宮寺申文』は武士の濫妨を訴えるものであり、伊志庄の荘園としての実態は、南北朝期を迎えるころまでには失われたと考えられる。しかしほかと同様、地域的なまとまり (広域地名) はそのまま残って江戸期は「石井庄」として把握された。

近世に美作国 吉野郡として把握される各村のうち、中山村 (現在の佐用町 東中山) については古代の伊師との関連は見当たらず、中世の伊志庄にも含まれなかったと考えられる。近世の美作国東部の地誌である『東作誌』によれば、「中山村と云うは播作の中の山なる故の名なり。何れの頃にや、播州の地を作州へ取込みたる故、其の所を国広と云う。国を広げたる故の名なりと」という※4

Fig.683 東作誌 第41巻 明治10年(1877) 写本 (部分 ・ 国立公文書館 所蔵)
Fig.683 東作誌 第41巻 明治10年(1877) 写本 (部分・国立公文書館 所蔵)

やはり曖昧な国界を越えた美作国の勢力によって取り込まれ、そのまま美作国の一部とみなされるようになったのだろう。広域地名でいえば江戸期は「讃甘さのも庄」に含まれることから、同名荘園の開発の過程で取り込まれたのかもしれない。

念のため讃甘庄の史料を示せば、鎌倉末期と推定される『足利氏所領奉行人きょうみょう※5にはじめてあらわれる。ちょうろく2年(1458)『足利義政はん御教みぎょうしょ※6にも「美作国讃甘庄地頭職六分一」とあることから、室町期も足利氏の支配下におかれ、のち在地勢力に侵食されて荘園としての実態を失ったかと推定される。『美作古簡集註解』※7所収のこう2年(1556) の書状では後藤勝基が安東平五郎に「讃甘庄之內豐福肥前分」を与えている。讃甘庄についても伊志庄と同様、史料は限られ、中山村が取り込まれた経緯を含めてこれ以上の詳細はわからない。

東作誌

美作国 東部6郡の地誌、文化12年(1815) の成立。『作陽誌』に含まれない西部6郡について津山藩士の正木輝雄が完成させた。『作陽誌』とは異なり藩の事業ではない。本稿では国立公文書館所蔵の明治10年(1877) 写本 (#4243011) を参照した。

作陽誌

美作国 西部6郡の地誌、元禄4年(1691) の成立。津山藩主・森長成の意向で家老の長尾勝明が江村宗晋 (東部)・河越玄俊 (西部) に編纂させたが、河越が担当した部分は完成しなかった。

当地における古代の播磨・美作国界は分水嶺である。

注釈

15.1.3. 天保郷帳・国絵図の村々

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Fig.102 伊師 (播磨 ・ 美作国界): 古代~中世
Fig.102 伊師 (播磨・美作国界): 古代~中世
近世 美作国 吉野郡
26.
下庄村
27.
宮本村※1
32.
中山村※2
33.
下石井村※3
34.
青木村
35.
今岡村
36.
笹岡村※4
37.
辻堂村※5
38.
上庄村※6
39.
上石井村※3
40.
東町村
41.
さね※7
42.
水根村
43.
桑野村
44.
うち
45.
奥海おねみ
46.
西町村
47.
小原田村
49.
下町村
近世 播磨国 佐用郡
71.
仁方村
72.
豊福村※8
73.
平谷村※9
74.
末包村
75.
大畠村※10
76.
淀村
77.
大猪伏村※11
83.
奥長谷村
84.
平福村
85.
正吉村※12
86.
庵村
87.
友延村
注釈

15.2. 近代

石井地区 (古代 ) と東中山は、近世 美作みまさか国 吉野郡の石井庄と讃甘さのも庄の一部 (中山村) として経過したが、近代に入って再び播磨はりま国として把握されることになった。

Fig.171 伊師 (美作 ・ 播磨国界): 明治29年(1896)
Fig.171 伊師 (美作・播磨国界): 明治29年(1896)

これは明治29年(1896) 3月29日付の法律第56号による。

法律第56号 (明治29年(1896) 3月29日付)

美作国 吉野郡 石井村 (岡山県管下) を播磨国 郡 (兵庫県管下) に編入し、美作国 吉野郡 讃甘村 大字中山 (同) を播磨国 佐用郡 江川村 (同) に編入する

原文※1: 岡山縣美作國吉野郡石井村ヲ兵庫縣播磨國佐用郡ニ編入シ岡山縣美作國吉野郡讃甘村大字中山ヲ兵庫縣播磨國佐用郡江川村ニ編入ス

兵庫県における郡制の施行が同年 (岡山県は明治32年(1899) であることから、これにあわせて地理・行政上の不便を解消したものと思われる。しかし近代 石井村には近世 美作国 吉野郡 石井庄の各村が含まれ、讃甘村の大字中山は近世 美作国 吉野郡 中山村であることから、これによって美作・播磨国界は古代へ戻ることになった。

注釈