20. 長島
古代~中世の肥後・薩摩国界は、織豊期に変動し、長島は薩摩国に属するようになった。

20.1. 変動の要因と時期: 天正15年(1587)
純粋に地形だけを考えた場合、長島は天草諸島の一部である。『 六国史』の宝亀9年(778) 11月13日の記事には「肥後国天草郡西仲島」としてあらわれ、このとき唐から帰国途中に嵐に遭遇、漂流していた遣唐使船の一部が当地に流れ着いた。

漂着地点の唐隈には現在、記念碑が建っている。
また鎌倉末期にあった「山田野」「河床」とほか散在の地頭職を巡る争いでは、裁許を記した元徳元年(1329) 11月29日付『鎮西下知状』※1に「長嶋山田野」、同年12月5日付および同月25日付『鎮西御教書』※2に「肥後國天草嶋山田野」、決定を実行に移そうとした『肥後国守護代藤原秀種請文』※3に「肥後国天草山田野」「長嶋山田野」とあって、長島が肥後国天草郡の一部として扱われ、肥後国守護代の支配下に置かれていたことがわかる。なおこの「山田野」は「山門野」(近世 山門野村・下山門野村) と推定され※4、「河床」は「川床」(近世 川床村) にあたる。
長島は戦国期を迎えるころには薩摩国勢力の圧迫を受けるようになった。そして永禄8年(1565) 出水の薩州島津氏 (忠兼、前当主・実久の弟、現当主・義虎の叔父) に攻略され、天正9年(1581) までに島津義虎の支配が確立された※4。
一方、天正15年(1587) 3月、豊臣秀吉は大軍を率いて九州への侵攻を開始した。島津義久 (本家) は弟の義弘らと薩摩・大隅・日向の 3国を領国として統一して、さらに版図を広げていた。しかし大軍を前に総崩れとなって撤退を余儀なくされ、5月8日までに降服した。これを受けて秀吉は、義久に薩摩国を※5、義弘に大隅国 (ただし肝付郡と北郷時久旧領を除く) を※6それぞれ安堵した※7。このとき近世の国界が確定し、長島は薩摩国の一部として把握されるようになったと考えられる。
義久宛の判物・義弘宛の朱印状とも郡や村の詳細な一覧は示されていないが、文禄3~4年(1594~1595) に行われた※8薩摩国の総検地までに変動は確認できない。また長島を支配する薩州島津氏の忠辰 (義虎の子) は先行して天正15年(1587) 4月27日に※9降服したが、その支配にあった長島には早くも 4月中に秀吉から 3箇条の定書※10が発布され、これに「薩摩国長島」とある。なお文禄2年(1593) 忠辰は不手際から所領を没収され、旧領は文禄4年(1595) 4月に宗義智に与えられた。この知行目録※11は総検地後であって村単位で石高が示され、長島の各村は「薩摩国出水郡内」として把握されている。その後、慶長4年(1599) 長島を含む出水郡は義弘に与えられて島津氏 (本家) に戻り※4、近世を通じて薩摩藩が支配した。
長島の村々は下記のとおり:
| 目録 | 薩藩政要録 |
|---|---|
| 本城村 | 26. 城川内村※4 |
| 平尾村 | 20. 平尾村 |
| 蔵のもと村 | 27. 蔵之元村 |
| たかのす村 | 23. 鷹巣村 |
| さすへ村 | 25. 指江村 |
| 川とこ村 | 21. 川床村 |
| 目録 | 薩藩政要録 |
|---|---|
| 山との村 | 29. 山門野村※ |
| かせと村 | 29. 山門野村の加世堂集落 |
| ミふね村 | 22. 浦底村の三船集落 |
| おはま村 | 27. 蔵之元村の小浜集落 |
| ししかしま | 30. 獅子島 |
| 宮のうら | 23. 鷹巣村の宮ノ浦集落 |