21. 木曽川・伊勢湾
21.1. 織豊期
尾張国 葉栗・中島・海西の 3郡は、天正17~18年(1589~1590) 豊臣政権下の検地 (天正の検地) を契機として東西に分割され、北西部は美濃国として把握されるようになった。

21.1.1. 変動の要因と時期: 天正17~18年(1589~1590)
天正10年(1582) 6月2日未明、遠征に向けて本能寺に宿泊していた織田信長を明智光秀が急襲した。信長は寺に火を放って自害し、すでに家督を譲られていた長男・信忠も二条御所 (二条新御所) で自害に追い込まれた (本能寺の変)。羽柴秀吉はこの知らせを受け、ただちに備中高松城から京へ駆け戻って光秀を破った (山崎の戦い)。これによって秀吉は発言力を強め、同月27日に行われた柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興との協議 (清洲会議) で信忠の子・秀信 (三法師) が後継者に選ばれたのも秀吉が推したためといわれる。一方で、信長の次男・信雄(北畠信雄) は尾張国を、三男・信孝(神戸信孝) は美濃国をそれぞれの領国に加えたものの、どちらも後継者争いから排除され、秀吉への不満を強めていく。もっともこの二人もまた反目する関係にあった。
信孝は秀吉と対立する柴田勝家・滝川一益を味方に引き入れたが、秀吉は信雄と協調し、これに丹羽長秀・池田恒興も加わった。最終的に賤ケ岳の戦いで柴田勝家が敗れたのを受け、天正11(1583) 5月までに信孝は自害する。また再び秀吉と対立を深めた信雄も、天正12年(1584) 3月に徳川家康と結んで秀吉に反旗を翻したものの (小牧・長久手の戦い)、同年 11月には事実上降服 (名目上は和睦) を余儀なくされ、結果として南伊勢と伊賀を失い、尾張も侵食される。
翌年の天正13年(1585) 11月29日、日本列島中央部を大地震が襲い (天正地震)、尾張・美濃の両国は壊滅的な被害を受けた※1。さらに、天正14年(1586) 6月24日には木曽川が大氾濫し、大地震からの復興もままならない沿岸に一層の荒廃をもたらした。
その後、天正17年(1589) の秋、美濃国の総検地が行われた※2。この総検地を踏まえた天正17年(1589) 11月21日付の宛行状※3※4では「於濃州領知方五千石」が伊木忠次に与えられ、目録には近世 羽栗郡・中島郡となる「北およひ・北舟はら・南舟はら・あさひら・本郷村・竹かはな・ましま・小熊 (三上方・ゑかしら共)・なかいけ・北しゆく・南しゆく (いしき共)」が含まれ、ここで尾張国 葉栗郡・中島郡から近世 美濃国 羽栗郡・中島郡が分割され、成立したことがわかる。
続く天正18年(1590) 7月、小田原城の陥落と後北条氏 (小田原北条氏) の滅亡を受け、秀吉は家康に関東 (伊豆・相模・武蔵・上総の全域と下総の大部分、上野の南過半、下野の一部) を与え、その旧領 (三河・遠江・駿河・甲斐、および信濃の南部) を信雄に与えた。しかし信雄は、この時点の領国である尾張と北伊勢に比べれば大幅な加増だったにもかかわらず、旧領にこだわったために秀吉の怒りにふれ、常陸佐竹氏預かりで下野国 那須郡 烏山 2万石とされ、事実上放逐されてしまった。これを受けた尾張国における知行再編成は天正18年(1590) 8月末から 9月にかけて行われ※5、このときに合わせて実施された検地によって※6、尾張国 海西郡から近世 美濃国 海西郡は分割され、成立したといえる。
天正12年(1584) 小牧・長久手の戦い前後から天正18年(1590) 後北条氏滅亡までの状況を、各郡に分けて整理すると以下のとおりである。
| 郡 | 状況 |
|---|---|
| 羽栗郡 中央部 | 伏屋を本拠とする伏屋市兵衛は、信忠から天正9年(1581) 2月10日付の宛行状※7を発給され、その死後 (本能寺の変後) 信雄から天正10年(1582) 8月9日付の安堵状※8を受けた。しかしこれは、信孝から同年11月付の宛行状※9が発給されたことによって否定され、12月には「下印食 專光坊」に信孝の禁制※10が発布されている。これらから、小牧・長久手の戦い以前からこの部分は信孝の支配となり、基本的に美濃国とみなされていたことがわかる。なお、伏屋市兵衛は小牧・長久手の戦いで伏屋城の留守を任される立場にあった※11、また「濃州 伏屋郷」に対して天正12年(1584) 6月、秀吉から禁制※12も発布された。 |
| 羽栗郡 東部 | 『織田信雄分限帳』には、近世 尾張国 葉栗郡の村々に対応する郷村は含まれていても、近世 美濃国 羽栗郡の村々に対応する郷村は見当たらない。小牧・長久手の戦いでは犬山城 (秀吉) と小牧城 (信雄・家康) で睨み合う持久戦のなか、この一帯は秀吉に奪われてそのまま回復しなかったとみられるが、地形的に見れば、そもそもそれ以前から曖昧化していたのかもしれない。 |
| 羽栗郡 南西部 | 小牧・長久手の戦いの過程で加賀野井城 (中島郡) と竹ケ鼻城 (葉栗郡) は落城し、信雄から秀吉に奪われた。秀吉は天正12年(1584) 6月21日付の宛行状※13で、毛利広盛 (掃部助) に「石田・東方・野条・大藪・八上桑原」(本知分) と「奥村・城屋敷・加賀野井・中野」(新知分)」を与え、天正13(1585) 11月3日付の判物※14で伊木忠次 (清兵衛) に「不破源六分、竹鼻近辺所々」を与えた 。なお、天正12年(1584) と推定される、家康の家臣・本多忠勝が芦田時直 (弥平兵衛) に送った 5月16日付の書状※15には「濃州境目おうら、三柳」とあって、本来よりも尾張国に寄った大浦村・三柳村付近が国界とみなされているので、そもそもこの一帯についてもすでに曖昧化していた可能性がある。 |
| 中島郡 | |
| 海西郡 | 小牧・長久手の戦いの当時、信雄は長島城を本拠としており、羽栗郡・中島郡とは異なって地理的に近い海西郡は侵食を許さなかった (そこまで追いつめられた、ともいえる)。その後も検地や知行編成を含めて独自の領国経営を継続し※16、天正14年(1586) 7月23日付の宛行状※17では「大屋ぶの郷、野寺はたをさ両郷・下はたをさ郷・岡村郷・須脇郷・野市場郷・横江(但里無之)・松木郷・かのゝ郷・上切郷・なるとの郷」が吉村又三郎にあらためて与えられている。この吉村又三郎は信雄に従って戦った人物であり、戦前の天正10年(1582) 12月や天正11年(1583) 1月にも宛行状※18※19を受けていた。 |
つまり近世 羽栗郡の大部分 (中央部・東部) は、天正12年(1584) 11月の小牧・長久手の戦い以前から信孝・秀吉の勢力下にあって、戦後これに羽栗郡の残りと中島郡が加わることになった。一方、海西郡は引き続き信雄の領国として残って、天正18年(1590) まで維持された。
尾張国 葉栗 (羽栗)・中島・海西 3郡の分割と美濃国編入の要因は古くからから議論があって、小牧・長久手の戦いの和解として信雄から秀吉に差し出された、木曽川を家康に対する防衛線とするために秀吉が信雄に割譲させた等々あって、時期も天正12年(1584) から天正18年(1590) まで幅がある※20。
実際にはここまでに見てきたように漸次変容してきたものが検地によって確定したといえるもので、また何らかの目的のもと全体にそれが反映されたわけでもなく、先行して美濃国とみなされた羽栗・中島両郡の領域認識が天正17年(1589) の検地で国郡に反映され、海西郡については天正18年(1590) に反映された。
注釈
21.1.3. 国界と河川
変動前後の国界は、どちらも設定当時の木曽川本流の流路が基準となっている。つまり古代に設定された変動前の国界は木曽川本流の旧流路を基準とし、変動後の国界は木曽川本流の新流路を基準としている。また木曽川本流の新流路は天正14年(1586) の洪水の影響を少なからず受けている。
これに関係して『笠松町史 上巻』(1956)には、「河道変更の洪水」と「美濃編入の時期」の項目で以下のように説明している。
笠松町史 上巻: 河道変更の洪水 この洪水の時、前渡と尾張国葉栗郡草井村との間を、激流西に向つて衝突し、上中屋・間島・栗木の諸村の地を貫き *中略* 、円城寺村と北方村との間を貫き |
笠松町史 上巻: 美濃編入の時期 概ね新木曾川筋を国境としたことを合せ考えれば、天正十四年六月の洪水以後であることは勿論である。若し洪水以前新川筋の無い時に郡を分割したとすれば、*snip* 予め判然分け得る筈がない |
つまり天正14年(1586) の洪水以前には「新川筋の無い」状態で、そこを「激流西に向つて衝突し」「円城寺村と北方村との間を貫」いたのだという。
しかし人の手が十分に加わらない限り、沖積平野の河川は分流・合流を繰り返しながら網の目状に流れ、堆積が進んで流れが滞るようになれば別の流路をとるようになって、これが沖積平野そのものを成長させていく。新流路もすでに存在し、旧流路は土砂の堆積とそれによる河床の上昇によって流れが滞りつつある状況にあった、と考えるのが自然である。また、洪水では河道または堤防から溢れた水が面上に広がっていくが、「激流」が一直線に向かってくることはない。
洪水が治まると、流路が健全であれば水はまたもとのとおりに流れるようになる (後背湿地は残る)。天正14年(1586) 洪水では、流量の大部分が新流路を選択し、それが河道を掘り広げるとともに、自然堤防が旧流路の閉塞を強めたのだろう。『笠松町史』の記述は内容から明らかに『岐阜県治水史 上』(1953)を参考にしており、その原文も全体としては問題がないわけではないものの、少なくとも「木曽川幹流」という言葉を使用している点では適切である (本稿でも冗長に思えるほど『本流』という言葉を使用しているのも理由は同じ)。
そもそも、天正14年(1586) の洪水以後の木曽川本流にもすでに相当の流量があったと推定される。そうでなければ、前述の天正12年(1584) 小牧・長久手の戦い前後の状況を説明できない。直接的には羽柴秀吉から丹羽 (惟住) 長秀へ送付した天正10年(1582) 8月11日付の書状※1が興味深い。これによれば、織田信孝は長秀と秀吉に尾張・美濃の国界を問い、秀吉は以下のように回答した 。
専光寺所蔵文書 (天正10年(1582) 8月11日付) 尾濃境目の儀につきて承り候如く、三七殿 (信孝) よりこちらへも仰せ越され候 *中略* 『大河切』に然るべく存じ候 |
尾濃境目之義ニ付而如承候、三七殿より此方へも被仰越候 *中略* 大河切可然存事候 |
つまり尾張・美濃の国界は「大河」(木曽川) であるべきだとの認識を示した。新流路の流量が旧流路よりも多くなければこれは成り立たない。なお『笠松町史』に「一村をも二分したものがあり、今日美濃側に河田島・光法寺・西加賀井野があるに対し、尾張側に河田・三法寺・東加賀野井があることは、その証左である」のも誤解による。少なくとも「加賀野井 (東加賀野井)」「西加賀野井」については、『織田信雄分限帳』で加賀野井弥八の「𛀙ゝの井ノ郷」と不破勝兵衛「西𛀙ゝの井」とが区別され、後者にはさらに「𛂰つ𛁭 おき」(堀津・沖) とともに「何も西方也」とあって※2、2村は洪水以前から何らかの流路で 2村に分かれていた。ほかも同様といえるだろう。
織田信雄の家臣および寺社領等の知行形態を貫高表示で書き上げたもので、天正12年(1584) 9月以降、天正12年(1586) 14年7月以前の状況を示している。小牧・長久手の戦い直前の知行地と、多くの場合にそれに「相違」、つまり変更があることを付記した上で、戦後の知行地を「当知」として併記している点が大きな特徴となっている。複数の伝本を校合して注釈を加えたものが『新編一宮市史 資料編 補遺2』(1980) に収録され (#114・cc.108-153、担当した新井による『「織田信雄分限帳」諸本の系統について』が『信濃 第32巻 第12号 (通巻372)』(1980) に収録されている。

注釈
21.1.2. 天保郷帳・国絵図の村々
(1) 上流
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注釈
(2) 上中流
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| 近世 美濃国 羽栗郡※1 |
| 近世 美濃国 中島郡 |
| 近世 尾張国 葉栗郡※46 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
注釈(3) 中下流表示する![]()
注釈(4) 中下流表示する![]()
注釈(5) 河口デルタ表示する![]()
注釈 |


