葛木村・二老村・大成村・後江村・石田村・富安村は、元和3年(1617) 以後、順次再び尾張国 海西へ編入され、寛永5年(1628) をもって完了した。

豊臣秀次に重臣として仕えた人物に徳永寿昌がいる。寿昌は尾張国 丹羽郡と美濃国の「松木島」に 2万石を与えられて高松城 (松ノ木城) に居住していた※1。このうち美濃国の所領には、天正20年(1592) 12月14日付の『徳永寿昌判物写』※2によれば以下の 37村が含まれる。
| # | 判物写 | 『美濃一国郷牒』 | 『美濃国村高領知改帳 (元和美濃国郷帳)』 | 天保郷帳 | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 国郡 | 村 | 国郡 | 村 | 国郡 | 村 | ||
| 1 | 葛木村 | 美濃国 海西郡 | 葛木村 | 美濃国 海西郡 | 葛木村 | 尾張国 海西郡 | 葛木村 |
| 2 | にろう村 | 二老村 | 二老村 | 二老村 | |||
| 3 | 石田村 | 石田村 | 石田村 | 石田村 | |||
| n/a | 後江村 | 後江村 | 後江村 | ||||
| n/a | 大成村 | 大成村 | 内大成村 | ||||
| n/a | 外大成村 | ||||||
| n/a | 富安村 | 富安村 | 富安村 | ||||
| 4 | ふたの村 | かた野村 | 美濃国 石津郡 | ふたの村 | 美濃国 石津郡 | 札野村 | |
| 5 | 石龜村 | 石亀村 | 美濃国 海西郡 | 石かみ村 | 美濃国 海西郡 | 石亀村 | |
| 6 | 森下村 | 森下村 | 森下村 | 森下村 | |||
| 7 | 中嶋村 | 古中島村 | 古中島村 | 古中島村 | |||
| 8 | そと濱村 | 外浜村 | 外浜村 | 外浜村 | |||
| 9 | 長くほ村 | 長窪村 | 長窪村 | 長久保村 | |||
| 10 | 立野村 | 立野村 | 立野村 | 立野村 | |||
| 11 | 日原村 | 田原村 | 日原村 | 日原村 | |||
| 12 | 長瀨村 | 長瀬村 | 長せ村 | 長瀬村 | |||
| 13 | 駒江村 | 駒替村 | 駒江村 | 駒ケ江村 | |||
| 14 | 大和田村 | 大和田村 | 大和田村 | 大和田村 | |||
| 15 | 秋江村 | 秋江村 | 秋江村 | 秋江村 | |||
| 16 | 加の村 | 麻野村 | 鹿野村 | 鹿野村 | |||
| 17 | す脇村 | 須脇村 | 須脇村 | 須脇村 | |||
| 18 | 大藪村 | 大薮村 | 大薮村 | 美濃国 安八郡 | 大薮村 | ||
| 19 | 上畑長村 | 岡村 | 岡村 | 美濃国 海西郡 | 岡村 | ||
| 20 | 野寺村 | 野寺村 | 野寺村 | 野寺村 | |||
| 21 | 下畑村 | 下幡長村 | 下幡長村 | 幡長村 | |||
| 22 | 野市庭村 | 野一市場村 | 野市は村 | 野市場村 | |||
| 23 | 瀨古村 | せこ村 | せこ村 | 瀬古村 | |||
| 24 | 成戶村 | 成戸村 | 成戸村 | 成戸村 | |||
| 25 | 松木村 | 松木村 | 松木村 | 松木村 | |||
| 26 | 上切村 | かミ切村 | かミきり村 | 神桐村 | |||
| 27 | こう津村 | 上川戸村 | 美濃国 石津郡 | 上川戸村 | 美濃国 石津郡 | 上野河戸村 | |
| 28 | 上野村 | ||||||
| 29 | 馬津村 | 馬津村 | 馬津村 | 馬沢村 | |||
| 30 | は禰村 | はね村 | はね村 | 羽根村 | |||
| 31 | 奧條村 | 奥城村 | 奥城村 | 奥条村 | |||
| 32 | 駒野村 | 駒野村 | 駒野村 | 西駒野村 | |||
| 33 | 庭田村 | にハた村 | にハた村 | 庭田村 | |||
| 34 | とく田村 | 徳田村 | 徳田村 | 徳田村 | |||
| 35 | 山崎村 | 山崎村 | 山崎村 | 山崎村 | |||
| 36 | 安江村 | 屋すへ村 | やすへ村 | 安江村 | |||
| 37 | 大田村 | 大里村 | 大里村 | 大里村 | |||
一帯はまったくといっていいほど起伏がなく、その水平面に断片化した自然堤防が散在している。流路跡といえる地形は不連続で、河口デルタのやや上流部で水の流れが滞留する地形にあったかと想像される。自然堤防の断片のうち、松木村 (松ノ木城) を含むものが「松木島」だったのだろう。
徳永寿昌は関ヶ原の戦いの論功行賞で加増されて高須城に入り、その後所領は子の徳永左馬助 (昌重) に引き継がれた。上にまとめたように『徳永寿昌判物写』の 37村は『美濃一国郷牒』ではすべて海西郡として把握され、後江・大成・富安の 4村が加わる一方、天保郷帳では葛木・二老・大成 (内大成・外大成)・後江・石田・富安の 6村が尾張国 海西郡であるのはもちろんのこと、大藪 (大薮) 村は美濃国 安八郡、札野村ほか 10村は石津郡である。ここから当初は徳永領ほか 1村が一括して海西郡として把握されたものが、その後の国郡と所領の再編成の過程で見直され、葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村は尾張国へ戻ったといえる。なお徳永領以外の 1村とは日根左京高継に与えられた者結村で、これは美濃国 海西郡のまま経過し、特に変動はない。
元和2年(1616) 『美濃国村高領知改帳 (元和美濃国郷帳)』では、札野村ほか 10村が石津郡に改められているが、葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村は引き続き美濃国 海西郡に含められている (大藪 (大薮) 村も変わらず安八郡)。翌年、昌重は徳川秀忠から元和3年(1617) 9月5日付の朱印状※3を受けて加増されたが、海西郡の石高は減っていることから、ここで一部は尾張藩の支配かつ尾張国 海西郡として把握された可能性がある。その後、寛永5年(1628) 2月、前年の大坂城改築工事における不手際によって昌重は改易され、所領はすべて没収された※4。ここですべてが尾張藩支配・尾張国 海西郡となった。
葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村は水害による荒廃のため、江戸幕府による初期の総検地 (備前検) も行われなかった※7。木曽川の堤防は、豊臣政権下の文禄3年(1594) や徳川政権下の慶長6年(1601)・同13~14年(1608~1609) に相次いで構築・改修されたといわれ、その間に派川の分流部が次々に締め切られ、近世初期の大規模な治水工事は一応の完成をみたとされる※5。しかし6村を含む地域は、寛永元年(1624) に複合的な輪中 (一円輪中) が完成してようやく治水対策が完了し※6、寛文4年(1664)に葛木村・二老村・石田村・富安村で、寛文6年(1666)に外大成村・石田村・富安村で尾張藩による検地が行われた※7。
前述のように当初の美濃国 海西郡は徳永領ほか 1村が一括して把握された領域だった。これは豊臣政権下でも同じで、直前の領域認識がそのまま国郡に反映され、検地によって確定した。しかしこの海西郡の東部は水害による荒廃が甚だしく、検地も行えない状況が継続した。改善されるのは寛永元年(1624) のことで、このときまでに木曽川本流は 6村を含む輪中の西を流れるようになっていたことから、尾張藩領の支配に変更され、さらに国郡に反映されたとみられる。
中野村についても同様の経過があったとみられるが、近世初期の大規模な治水工事の完了をもって木曽川左岸 (東岸・尾張国側) になって、より早い段階で尾張国 中島郡に戻ったと考えられる。

『美濃国尾張領村々覚書』※8は変動の時期を、以下のように慶長17年(1612) としている。
美濃国尾張領村々覚書 尾州海西郡葛木村・二老村・大成村・後江村・石田村・冨安村、先年德永左馬之助知行之時分ハ、濃州海西郡之内ニて御座候処、權現様御諚を以、木曾川切ニ尾張國ニ罷成、慶長拾七壬子之年より、右之六ケ村尾州高之内へ入申候 |
尾州中嶋郡中野村、先年保々長兵衛知行之時分ハ、濃州中嶋郡之内ニて御座候、右同断を以尾州高之内へ入申候 |
これによれば、慶長17年(1612) にはすでに尾張藩の支配に移されていたとみられる。
元和2年(1616) 『美濃国村高領知改帳 (元和美濃国郷帳)』 における美濃国 海西郡の徳永昌重領は、者結村を除く 29村であり、合計は 10445.073石、このうち葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村は 1183.100石である。一方、元和3年(1617) 9月5日付『徳川秀忠領知朱印状』で海西郡の石高は 9,463石余となっている。後者は目録がないため、内訳や厳密な石高 (斗以下) はわからない。
10445.073石と 9,463石余 (9,463.000~9,463.999) の差分は 981.074~982.073石である。これは 6村の 1183.100石には満たないので、一部は9,463石余に含まれ、それを除く分が差分の 981.074~982.073石にあらわれていることになる。その一部を二老村とすれば、23村と二老村とで 9464.423石、差分は葛木・大成・後江・石田・富安の 5村で 980.650石となり、これがもっとも近い。 しかし 980.650石は 981.074~982.073石からわずかに外れ、9464.423石も「9.464石余」であって「9,463石余」ではない。二老村だけ荒廃が著しく扱いが別になった、とすれば説明しやすいが悩ましい。
表紙には「慶長六年丑年」、奥書には「慶長十八年」とある郷帳。内容から慶長6年(1601) 以降、寛永年間(1624~1644) はじめごろまでの領主とその所領一覧を書き継ぎ、さらにそれを整理したものと考えられ、慶長6年(1601) 時点でも慶長18年(1613) 時点でもない。扱いに注意が必要だが、これでしかわからない情報も多く貴重な史料である。『岐阜県史 史料編 近世1』(1965) 所収、#1・cc.34-54。
表紙に「元和弐年」「美濃國村高御領知改帳」とある郷帳で、奥付によれば元和2年(1616) 8月7日付。『岐阜県史 史料編 近世1』(1965) 所収、#2・cc.54-71。
| ^ ※1: | 『寛政重脩諸家譜』・『海津町史 通史編 上』(1983)。 |
| ^ ※2: | 『佐織町史 資料編2』(1987) 所収、古代・中世#245・c.107。 |
| ^ ※3: | 『徳川秀忠領知朱印状』、『岐阜県史 史料編 近世2』(1966) 所収、#23・cc.59-60。 |
| ^ ※4: | 『輪之内町史』(1981) など。 |
| ^ ※5: | 『木曽川町史』(1981)・『佐屋町史 通史編』(1996) など。 |
| ^ ※6: | 『新編 立田村史 通史』(1996)。 |
| ^ ※7: | 『尾州海西郡覚書帳』、『校訂復刻 名古屋叢書続編 第2巻 寛文村々覚書 中』(1965/1983) 所収、cc.198-242。 |
| ^ ※8: | 寛文5年(推定,1656) 11月6日付、『岐阜県史 史料編 近世4』(1968) 所収、#8・cc.85-143。 |