21.2. 江戸初期

天正17~18年(1589~1590) に尾張国 海西郡・中島郡から分割され成立した美濃国 海西郡・中島郡のうち、葛木かつらぎろう・大成・後江ひつえ・石田・富安の 6村 (海西郡) と中野村 (中島郡) は元和3年(1617) 以後、寛永5年(1628) までに尾張国へ戻った。

Fig.201 木曽川 ・ 伊勢湾 (尾張 ・ 美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.201 木曽川・伊勢湾 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)

21.2.1. 変動の要因と時期: 元和3年(1617)~寛永5年(1628)

(1) 海西郡 6村の経過

葛木かつらぎ村・ろう村・大成村・後江ひつえ村・石田村・富安村は、元和3年(1617) 以後、順次再び尾張国 海西へ編入され、寛永5年(1628) をもって完了した。

Fig.099 下流 (美濃 ・ 尾張国界): 元和3年(1617)~寛永5年(1628)
Fig.099 下流 (美濃・尾張国界): 元和3年(1617)~寛永5年(1628)

豊臣ひでつぐに重臣として仕えた人物に徳永寿ながまさがいる。寿昌は尾張国 丹羽郡と美濃国の「松木島」に 2万石を与えられて高松城 (松ノ木城) に居住していた※1。このうち美濃国の所領には、天正20年(1592) 12月14日付の『徳永寿昌判物写』※2によれば以下の 37村が含まれる。

#判物写美濃一国郷牒』美濃国村高領知改帳 (元和美濃国郷帳)天保郷帳
国郡国郡国郡
1葛木村美濃国 海西郡葛木村美濃国 海西郡葛木村尾張国 海西郡葛木村
2にろう村二老村二老村二老村
3石田村石田村石田村石田村
n/a後江村後江村後江村
n/a大成村大成村内大成村
n/a外大成村
n/a富安村富安村富安村
4ふたの村かた野村美濃国 石津郡ふたの村美濃国 石津郡札野村
5石龜村石亀村美濃国 海西郡石かみ村美濃国 海西郡石亀村
6森下村森下村森下村森下村
7中嶋村古中島村古中島村古中島村
8そと濱村外浜村外浜村外浜村
9長くほ村長窪村長窪村長久保村
10立野村立野村立野村立野村
11日原村田原村日原村日原村
12長瀨村長瀬村長せ村長瀬村
13駒江村駒替村駒江村駒ケ江村
14大和田村大和田村大和田村大和田村
15秋江村秋江村秋江村秋江村
16加の村麻野村鹿野村鹿野村
17す脇村須脇村須脇村須脇村
18大藪村大薮村大薮村美濃国 安八郡大薮村
19上畑長村岡村岡村美濃国 海西郡岡村
20野寺村野寺村野寺村野寺村
21下畑村下幡長村下幡長村幡長村
22野市庭村野一市場村野市は村野市場村
23瀨古村せこ村せこ村瀬古村
24成戶村成戸村成戸村成戸村
25松木村松木村松木村松木村
26上切村かミ切村かミきり村神桐村
27こう津村上川戸村美濃国 石津郡上川戸村美濃国 石津郡上野河戸村
28上野村
29馬津村馬津村馬津村馬沢村
30は禰村はね村はね村羽根村
31奧條村奥城村奥城村奥条村
32駒野村駒野村駒野村西駒野村
33庭田村にハた村にハた村庭田村
34とく田村徳田村徳田村徳田村
35山崎村山崎村山崎村山崎村
36安江村屋すへ村やすへ村安江村
37大田村大里村大里村大里村

一帯はまったくといっていいほど起伏がなく、その水平面に断片化した自然堤防が散在している。流路跡といえる地形は不連続で、河口デルタのやや上流部で水の流れが滞留する地形にあったかと想像される。自然堤防の断片のうち、松木村 (松ノ木城) を含むものが「松木島」だったのだろう。

徳永寿昌は関ヶ原の戦いの論功行賞で加増されて高須城に入り、その後所領は子の徳永左馬助 (まさしげ) に引き継がれた。上にまとめたように『徳永寿昌判物写』の 37村は美濃一国郷牒』ではすべて海西郡として把握され、後江ひつえ・大成・富安の 4村が加わる一方、天保郷帳では葛木・二老・大成 (内大成・外大成)・後江・石田・富安の 6村が尾張国 海西郡であるのはもちろんのこと、大藪 (大薮) 村は美濃国 安八郡、札野村ほか 10村は石津郡である。ここから当初は徳永領ほか 1村が一括して海西郡として把握されたものが、その後の国郡と所領の再編成の過程で見直され、葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村は尾張国へ戻ったといえる。なお徳永領以外の 1村とは日根左京高継に与えられたじゃけつ村で、これは美濃国 海西郡のまま経過し、特に変動はない。

元和2年(1616) 美濃国村高領知改帳 (元和美濃国郷帳)』では、札野村ほか 10村が石津郡に改められているが、葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村は引き続き美濃国 海西郡に含められている (大藪 (大薮) 村も変わらず安八郡)。翌年、昌重は徳川秀忠から元和3年(1617) 9月5日付の朱印状※3を受けて加増されたが、海西郡の石高は減っていることから、ここで一部は尾張藩の支配かつ尾張国 海西郡として把握された可能性がある。その後、寛永5年(1628) 2月、前年の大坂城改築工事における不手際によって昌重は改易され、所領はすべて没収された※4。ここですべてが尾張藩支配・尾張国 海西郡となった。

葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村は水害による荒廃のため、江戸幕府による初期の総検地 (備前検) も行われなかった※7。木曽川の堤防は、豊臣政権下の文禄3年(1594) や徳川政権下の慶長6年(1601)・同13~14年(1608~1609) に相次いで構築・改修されたといわれ、その間に派川の分流部が次々に締め切られ、近世初期の大規模な治水工事は一応の完成をみたとされる※5。しかし6村を含む地域は、寛永元年(1624) に複合的な輪中 (一円輪中) が完成してようやく治水対策が完了し※6、寛文4年(1664)に葛木村・二老村・石田村・富安村で、寛文6年(1666)に外大成村・石田村・富安村で尾張藩による検地が行われた※7

前述のように当初の美濃国 海西郡は徳永領ほか 1村が一括して把握された領域だった。これは豊臣政権下でも同じで、直前の領域認識がそのまま国郡に反映され、検地によって確定した。しかしこの海西郡の東部は水害による荒廃が甚だしく、検地も行えない状況が継続した。改善されるのは寛永元年(1624) のことで、このときまでに木曽川本流は 6村を含む輪中の西を流れるようになっていたことから、尾張藩領の支配に変更され、さらに国郡に反映されたとみられる。

(2) 中島郡 中野村の経過

中野村についても同様の経過があったとみられるが、近世初期の大規模な治水工事の完了をもって木曽川左岸 (東岸・尾張国側) になって、より早い段階で尾張国 中島郡に戻ったと考えられる。

Fig.139 中下流 (美濃 ・ 尾張国界): 元和3年(1617)~寛永5年(1628)
Fig.139 中下流 (美濃・尾張国界): 元和3年(1617)~寛永5年(1628)

(3) 各史料の叙述

(a) 美濃国尾張領村々覚書

『美濃国尾張領村々覚書』※8は変動の時期を、以下のように慶長17年(1612) としている。

美濃国尾張領村々覚書

尾州海西郡葛木村・二老村・大成村・後江村・石田村・冨安村、先年德永左馬之助知行之時分ハ、濃州海西郡之内ニて御座候処、權現様御諚を以、木曾川切ニ尾張國ニ罷成、慶長拾七壬子之年より、右之六ケ村尾州高之内へ入申候

尾州中嶋郡中野村、先年保々長兵衛知行之時分ハ、濃州中嶋郡之内ニて御座候、右同断を以尾州高之内へ入申候

これによれば、慶長17年(1612) にはすでに尾張藩の支配に移されていたとみられる。

(b) 元和美濃国郷帳と『徳川秀忠領知朱印状』の差分

元和2年(1616) 美濃国村高領知改帳 (元和美濃国郷帳)』 における美濃国 海西郡の徳永昌重領は、じゃけつ村を除く 29村であり、合計は 10445.073石、このうち葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村は 1183.100石である。一方、元和3年(1617) 9月5日付『徳川秀忠領知朱印状』で海西郡の石高は 9,463石余となっている。後者は目録がないため、内訳や厳密な石高 (斗以下) はわからない。

10445.073石と 9,463石余 (9,463.000~9,463.999) の差分は 981.074~982.073石である。これは 6村の 1183.100石には満たないので、一部は9,463石余に含まれ、それを除く分が差分の 981.074~982.073石にあらわれていることになる。その一部を二老村とすれば、23村と二老村とで 9464.423石、差分は葛木・大成・後江・石田・富安の 5村で 980.650石となり、これがもっとも近い。 しかし 980.650石は 981.074~982.073石からわずかに外れ、9464.423石も「9.464石余」であって「9,463石余」ではない。二老村だけ荒廃が著しく扱いが別になった、とすれば説明しやすいが悩ましい。

美濃一国郷牒

表紙には「慶長六年丑年」、奥書には「慶長十八年」とある郷帳。内容から慶長6年(1601) 以降、寛永年間(1624~1644) はじめごろまでの領主とその所領一覧を書き継ぎ、さらにそれを整理したものと考えられ、慶長6年(1601) 時点でも慶長18年(1613) 時点でもない。扱いに注意が必要だが、これでしかわからない情報も多く貴重な史料である。『岐阜県史 史料編 近世1』(1965) 所収、#1・cc.34-54。

美濃国村高領知改帳 (元和美濃国郷帳)

表紙に「元和弐年」「美濃國村高御領知改帳」とある郷帳で、奥付によれば元和2年(1616) 8月7日付。『岐阜県史 史料編 近世1』(1965) 所収、#2・cc.54-71。

注釈

21.2.2. 美濃一国郷牒と「長島郡」

美濃一国郷牒』には「長島郡」が含まれる。つまり『美濃一国郷牒』においては美濃国に長島郡が存在する。

Fig.128 長島郡
Fig.128 長島郡

「長島郡」の村々の分布を見ると、近世初期の長島 (伊勢長島) と「市江島」の景観※1をたくみに再現している。

長島・市江島は「河内」と呼ばれる木曽川の河口デルタに存在する三角州で、当地を本拠地とする長島一向一揆は、元亀元年(1570) 尾張国 (小木江) 城を攻撃して織田のぶおき (信長の弟) を自害に追い込んだ。これに対して織田信長は元亀2年(1571)・天正元年(1573)・天正2年(1574) の三度に渡って攻撃し、一度目に騙し討ちされたためか、三度目の攻撃は熾烈で、信長は水軍を率いて海上を封鎖、さらに籠城後に降服・退去する人々を攻撃して城を焼き払い、徹底的に滅ぼした※2

地形の成因から容易に想像されるように当地の開発は遅く、律令制に基づく国郡の範囲外に存在する。近世の各村は長島が伊勢国 桑名郡、市江島が尾張国 海西郡に含まれるが、前述のように美濃一国郷牒』では「長島郡」として美濃国に含められ、一方でその各村は慶長6年(1601)『徳川家康奉行人連署知行宛行状』※3※4※5ではすべて「尾州海西郡」に含められている。『美濃一国郷牒』の各村は菅沼左近 (さだよし) の所領であり、『宛行状』はその父親の菅沼新八郎 (さだより) 宛である。定仍は慶長9年(1604) に死去しているので『美濃一国郷牒』はその前後以降の状況を示していることになる。

#宛行状 (尾州海西郡)美濃一国郷牒』 (美濃国 長島郡)天保郷帳備考
石高石高#国郡
1西外面村「七百七拾六石 四斗九升」西外西「七百七拾六石 四斗九升壱合」83伊勢国 桑名郡西にし外面ども村名『美濃一国郷牒』の誤読。
2東条村300.416東条村300.4164尾張国 海西郡ひがしじょう
3うくいら474.400うく474.40027うぐいうら
4又木村120.624又木村120.62495伊勢国 桑名郡又木村
5587.870587.8702尾張国 海西郡村名『美濃一国郷牒』の誤読。
6西1228.547西1228.5471西
7二ノ※6「百六拾壱石 四斗三升」二ノ「百六拾壱石 四斗三升壱合29荷之上村村名『美濃一国郷牒』の誤記。
8松の木村178.310松之木村178.31072伊勢国 桑名郡松之木村
9殿名村1764.544取吉1764.54497殿名とのめ村名『美濃一国郷牒』の誤読。
10下さかて973.267下さかて村973.26780下坂手村
11千蔵村644.873千蔵村644.87381千倉村
12嶋崎村「七拾弐石」島崎村「七石弐斗」不明天保郷帳 86. 間々村か (位置関係)。石高は単純な誤読・誤写ではなく、相違の原因は不明。
13ぬたのわき15.870ぬ脇村15.87081伊勢国 桑名郡千倉村「千倉・泥脇の二部落があったが総称して千倉村といった」※7
14五明村39.840五明村39.84091五明ごみょう
15上さかて「千拾弐石 九斗八升上さかて村「千拾弐石 九斗七升九合79上坂手村
16松か嶋村61.868松か島村61.86898松ケ島村
17大嶋村90.137大しま村90.13799大島村
18五ノ三村99.200五の三村99.20028尾張国 海西郡五之三村
19中村331.600中村331.600不明天保郷帳 77. 中川村か (村名)。
20高山村137.600高山村137.600不明天保郷帳 87. 高座村か (村名)。
21西川村691.826西川村691.82678伊勢国 桑名郡西川村
22西条村573.500西条村573.5003尾張国 海西郡西にしじょう

『信長記』の天正2年(1574) 7月13日※8記事には「尾州河内長嶋」※9とあるほか、いくつかの家譜に「尾州長嶋之城」※10・「尾州長嶋合戰」※11・「尾州長嶋一向宗蜂起」※12といった記述が散見される。

Fig.736 信長記 第7巻 太田牛一自筆本 (部分 ・ 岡山大学図書館所蔵 ・ 小文献ギャラリー公開)
Fig.736 信長記 第7巻 太田牛一自筆本 (部分・岡山大学図書館所蔵・小文献ギャラリー公開)

『天文御日記』の天文20年(1551) 5月29日記事※13では中川村を「伊勢国中川」とし、また『多聞院日記』の天正12年(1584) の記事には「勢州長嶋」とある。

Fig.737 多聞院日記略 第21巻 江戸末期頃 写本(部分 ・ 東京大学史料編纂所所蔵)
Fig.737 多聞院日記略 第21巻 江戸末期頃 写本(部分・東京大学史料編纂所所蔵)

美濃国に「長島郡」が存在したことはなく、荘園の異称としての「長島郡」も史料上、確認できないが、家譜・旧記 (由緒書)・棟札には「尾州長島郡 (尾州長嶋郡)」※14※15という表現が使用されている例は存在する。

注釈

(1) 天保郷帳・国絵図の村々

表示する
近世 尾張国 海西郡※1
1.
西保村※2
2.
東保村
3.
西にしじょう
4.
ひがしじょう
27.
うぐいうら
28.
五之三村
29.
荷之上村
近世 伊勢国 桑名郡※3※4
72.
松之木村
73.
杉江村
74.
新所村
77.
中川村※5※6
78.
西川村※7
79.
上坂手村
80.
下坂手村
81.
千倉村
83.
西にし外面ども
85.
平方村
86.
間々村
87.
高座村
88.
出口村
89.
押付村
90.
小島村※8
91.
五明ごみょう
95.
又木村
97.
殿名とのめ
98.
松ケ島村
99.
大島村
注釈