ここでは、織豊期と江戸初期に発生した尾張・美濃国界 (国境) の変動と、近代に再編された尾張・美濃・伊勢国界について分析しています。

そもそもどこか? (織豊期)

変動の舞台は、美み濃の国 羽は栗ぐり・中島・海かい西さい 3郡であり、この地域は本来尾お張わり国 葉は栗ぐり・中島・海西 3郡のそれぞれ一部だった。現在の岐阜県 各務原かかみがはら市の南部・岐ぎ南なん町・笠松町・岐阜市の一部 (柳津やないづ)・羽島市・海かい津づ市の南部 (旧海津町の大部分と旧平田町の一部)・愛知県 愛あい西さい市の南西部 (旧立たつ田だ村の大部分) である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

Fig.098 羽栗(葉栗)・中島・海西 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.098 羽栗(葉栗)・中島・海西 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
上流
Fig.125 木曽川・伊勢湾 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.125 木曽川・伊勢湾 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
上中流
Fig.124 上中流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.124 上中流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
中下流
Fig.126 中下流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.126 中下流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
下流
Fig.137 下流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.137 下流 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
河口デルタ
Fig.127 河口デルタ (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.127 河口デルタ (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
天保郷帳・国絵図の村々
近世 美濃国 羽栗郡※1
近世 尾張国 葉栗郡※60
近世 美濃国 中島郡
近世 尾張国 中島郡※60
近世 美濃国 海西郡※152
近世 尾張国 海西郡※60
近世 伊勢国 桑名郡※213※214
近世 美濃国 安八郡※249
近世 美濃国 石津郡※264

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が同じく推定される変動後の国界である。『天保尾張国絵図』・『天保美濃国絵図』で示せば、以下の部分にあたる。

天保美濃国絵図
Fig.650 天保美濃国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.650 天保美濃国絵図 (国立公文書館所蔵)
天保尾張国絵図
Fig.651 天保尾張国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.651 天保尾張国絵図 (国立公文書館所蔵)
注釈

要因と経過 (織豊期)

この国界 (国境) の変動は、郡が名称はそのままに分割・分離されたこと、大河川の流路が関係していること、そしてその範囲が広大であることにおいて、関東平野における下総国 葛かつ飾しか郡の事例ときわめて似ている。

関東平野では下総国 葛飾郡の西部が分割・分離され、武蔵国 葛飾郡となった。これに対し、濃尾平野では尾張国 羽栗・中島・海西 3郡の東部が分割・分離され、美濃国 葉栗・中島・海西の 3郡となった。その境界に影響を与えたのは、関東平野では利根川の本流であり、濃尾平野では木曽川の本流である。そして縁辺とはいえ、利根川では河口から古河付近にいたるまで、木曽川では犬山付近にいたるまで、広域にわたる国界が変更された。

国界が変動した要因については、すでに江戸期から議論が多い。小こ牧まき・長なが久く手ての戦いの和解として信のぶ雄かつから秀吉に差し出された、あるいは木曽川を家康に対する防衛線とするために秀吉が信雄に割譲させた、などとあって、時期も天てん正しょう12年(1584) から天正18年(1590) まで幅が大きい※1。実際にはほかの地域と同様、豊臣政権による安堵・検地によってその時点の境界認識が反映・固定されただけ、と考えるのが妥当だろう。また時期は、天正17~18年(1589~1590) に限定される。

天正17年(1589) の秋、美濃国では総検地が行われた※2。この総検地を踏まえた天正17年(1589) 11月21日付の宛行状※3※4では「於濃州領知方五千石」が伊木忠次に与えられ、目録には近世 羽栗郡・中島郡となる「北およひ、北舟はら、南舟はら、あさひら、本郷村、竹かはな、ましま、小熊 (三上方・ゑかしら共)、なかいけ、北しゆく、南しゆく (いしき共)」が含まれている。つまりここで、尾張国 葉栗郡・中島郡から近世 美濃国 羽栗郡・中島郡が分割され、成立したことがわかる。

一方、この時点では総検地が海西郡にまで及んだとは考えられない。小牧・長久手の戦いの当時、信雄は長島城を本拠としており、羽栗郡・中島郡とは異なり、海西郡だけは秀吉の侵食を許さなかった (そこまで追いつめられた、ともいえる)。その後も、検地や知行編成を含めて独自の領国経営を継続し※5、天正14年(1586) 7月23日付の宛行状※6では「大屋ぶの郷、野寺・はたをさ両郷、下はたをさ郷、岡村郷、須脇郷、野市場郷、横江(但里無之)、松木郷、かのゝ郷、上切郷、なるとの郷」を吉村又三郎にあらためて与えている。この吉村又三郎は信雄に従って戦った人物であり、戦前の天正10年(1582) 12月や天正11年(1583) 1月にも宛行状※7※8を受けていた。

この状況が変わるのは天正18年(1590) を迎えてからである。この年の 7月、小田原城の陥落と後北条氏 (小田原北条氏) の滅亡を受け、秀吉は家康に関東 (伊い豆ず・相模さがみ・武蔵むさし・上総かずさの全域と下総しもうさの大部分、上野こうずけの南半分、下野しもつけの一部) を与えた。そしてその旧領 (三み河かわ・遠江とおとうみ・駿河するが・甲か斐い、および信濃しなのの南部) を信雄に与えたが、信雄は大幅な加増だったにもかかわらず、旧領 (尾張・北伊勢) にこだわったために秀吉の怒りにふれ、改易されてしまった。これを受け、天正18年(1590) 8月末から 9月にかけて尾張国では大規模な知行再編成が行われた※9。したがって、このときに合わせて実施された検地によって※10、尾張国 海西郡から近世 美濃国 海西郡は分割され、成立したといえる。

前史と羽栗郡・中島郡

天正10年(1582) 6月2日未明、遠征に向けて本能寺に宿泊していた織田信長を明智光秀が急襲した。信長は寺に火を放って自害し、すでに家督を譲られていた長男・信のぶ忠ただも二条御所 (二条新御所) で自害に追い込まれた (本能寺の変)。羽柴秀吉はこの知らせを受けると、ただちに備中びっちゅう高松城から京へ駆け戻って光秀を破り (山崎の戦い)、これによって政治的・軍事的な優位性を確立する。同月27日には、柴田勝家・丹に羽わ長なが秀ひで・池田恒つね興おきらとの協議 (清きよ須す会議) で、信忠の子・三法師 (のちの織田秀ひで信のぶ) が後継者として承認された。信長の次男・信のぶ雄かつ(北畠信雄) は尾張国を、三男・信のぶ孝たか(神戸信孝) は美濃国をそれぞれの領国に加えたものの、三法師には特定の後見人を置かない集団指導体制が採られたことから、双方とも織田家の中央権力から一歩後退するかたちとなった。また山崎の戦い以降、主導権を握った秀吉に対し、二人は危機感と不満を募らせていく。もっとも、信雄と信孝の間でも主導権争いがあり、反目する関係にあった。

i. 本能寺跡
本能寺跡
本能寺跡
ii. 天王山からの眺望
天王山からの眺望
天王山からの眺望
iii. 清洲城 (清須城、模擬天守)
清洲城 (清須城、模擬天守)
清洲城 (清須城、模擬天守)
iv. 賤ケ岳古戦場
賤ケ岳古戦場
賤ケ岳古戦場
i. フォートラベル (4travel.jp) の「本能寺跡」へ投稿されたクチコミの写真を オカンカンさんから許可を得て転載
ii. YAMAPへ投稿されたリポート「天王山・サントリー山」の写真を ランパパさんから許可を得て転載
iii. フォートラベル (4travel.jp) の「清洲城」へ投稿されたクチコミの写真を takakoさんから許可を得て転載
iv. YAMAPへ投稿されたリポート「歴史の舞台を感じながら賤ヶ岳&余呉湖周回山廻りの筈が😓」の写真を dante99さんから許可を得て転載

信孝は、秀吉と対立する柴田勝家や滝川一かず益ますらと連携したが、秀吉は信雄や丹羽長秀・池田恒興らと協調してこれに対抗した。最終的に賤しずケが岳たけの戦いで柴田勝家が敗れたのを受け、天正11年(1583) 5月までに信孝は自害する。その後、再び秀吉と対立を深めた信雄も、天正12年(1584) 3月に徳川家康と結んで秀吉に反旗を翻したが (小こ牧まき・長なが久く手ての戦い)、同年 11月には事実上降服 (名目上は和睦) を余儀なくされる。結果として信雄は、南伊い勢せと伊い賀がを割譲させられ、領国の尾張も侵食されることになってしまった。

この一連の出来事を背景に羽栗郡・中島郡の状況を見ると、まず羽栗郡の主要部分は、早くから美濃国とみなされていた可能性が高い。伏ふせ屋やを本拠とする伏屋市兵衛は、信忠から天正9年(1581) 2月10日付の宛行状※11を発給され、その死後 (本能寺の変後) は、まず信雄から天正10年(1582) 8月9日付の安堵状※12を受けた。しかしこれは、信孝から同年11月付の宛行状※13が発給されたことによって否定されている。さらに 12月には「下印食 專光坊」に信孝の禁制※14が発布された。これらから、小牧・長久手の戦い以前から周辺は信孝の支配であり、美濃国とみなされていたことがわかる。『織田信雄分限帳』でも、近世 尾張国 葉栗郡の村々に対応する郷村は含まれていても、近世 美濃国 羽栗郡の村々に対応する郷村は見当たらない。つまり戦いで失った郷村としても羽栗郡の村々は存在しない。

羽栗郡から中島郡にかけては、信雄の加か賀が野の井い城 (中島郡) と竹たけケが鼻はな城 (葉栗郡) が小牧・長久手の戦いで落城し、秀吉に奪われた。天正12年(1584) 6月21日付の宛行状※15では、毛利広盛 (掃部助) が秀吉から「石田、東方、野条、大藪、八上桑原」(本知分) と、「奥村、城屋敷、加賀野井、中野」(新知分)」を与えられている。また、天正13(1585) 11月3日付の判物※16では、伊木忠次 (清兵衛) に「不破源六分、竹鼻近辺所々」が与えられた。つまり、羽栗郡から中島郡にかけての境界認識は小牧・長久手の戦いで変動したようだ。ただし、天正12年(1584) と推定される、家康の家臣・本多忠勝が芦田時直 (弥平兵衛) に送った 5月16日付の書状※17には「濃州境目おうら、三柳」とあって、本来よりも尾張国に寄った大浦村・三柳村付近が国界とみなされている。実際には、より早い時期から境界認識は変わりつつあったのかもしれない。

v. 小牧城 (模擬天守)
小牧城 (模擬天守)
小牧城 (模擬天守)
vi. 犬山城
犬山城
犬山城
vii. 長久手古戦場
長久手古戦場
長久手古戦場
viii. 竹ケ鼻城跡 (羽島市歴史民俗資料館)
竹ケ鼻城跡 (羽島市歴史民俗資料館)
竹ケ鼻城跡 (羽島市歴史民俗資料館)

上に示したうち、i は本能寺跡、ii は清須会議が行われた清洲城 (清須城) である。清須城は平成に建築された模擬天守であり、外観は想像に基づくものである (当時の絵図などは残っていない)。櫓や門といった本来あるべき建物の一切が省略され、石垣の上に天守だけがぽつんと乗って一体化しているというシュールなデザインだが、2次元RPGでお馴染みだったお城のシンボルのようで愛嬌も感じられる。

iii は山崎の戦い古戦場、iv は賤ケ岳古戦場 で、それぞれ天王山・賤ケ岳からの展望である。天王山の眼下には現在では街並みが広がるため、一見しただけではなぜここが戦場となったのか理解しづらい。しかし当地は、天王山と八幡山 (鳩ケ峰・男山、石清水八幡宮が所在する) に挟まれた狭窄部にあたり、ここに桂川・宇治川・木津川の 3河川が集まる地形である。一帯は交通が阻害される低湿地であり、天然の要害を形成していた。両陣営は、写真左手のジャンクション付近で睨み合う構図になったと伝わる。賤ケ岳山頂から望む琵琶湖は、何よりもその深い碧に驚かされる。

iv は小牧・長久手の戦いの舞台、小牧城 (模擬天守)、v はその戦いの口火を切った犬山城、vi は長久手古戦場、vii は落城した信雄方の竹ケ鼻城趾である。犬山城は、現存する天守のうち最古級のものであり、戦国期の城郭の姿を現代まで奇跡的に留めている。竹ケ鼻城趾は、城のような建物だが、あくまで「羽島市歴史民俗資料館」であって、しかも斬新なことに「映画資料館」を併設している。入口のある南側は往年の映画館を模したデザイン、一方こちら側 (西側) は城をイメージしたデザインになっており、その前には「史蹟 竹ケ鼻城本丸之趾」の石標と、「竹ケ鼻城跡」を説明する案内板も立っている。

注釈

織田信雄分限帳

織田信雄分限帳は、織田信雄の家臣および寺社領等の知行形態を貫高表示で書き上げたもので、天正12年(1584) 9月以降、天正12年(1586) 14年7月以前の状況を示している。小牧・長久手の戦い直前の知行地と、多くの場合にそれに「相違」、つまり変更があることを付記した上で、戦後の知行地を「当知」として併記している点が大きな特徴となっている。複数の伝本を校合して注釈を加えたものが『新編一宮市史 資料編 補遺2』(1980) に収録され※1、担当した新井による『「織田信雄分限帳」諸本の系統について』が『信濃 第32巻 第12号 (通巻372)』(1980) に収録されている。

Fig.735 織田信雄分限帳 (部分・筑波大学デジタルコレクション公開)
Fig.735 織田信雄分限帳 (部分・筑波大学デジタルコレクション公開)
注釈

木曽川と尾張・美濃国界

天正十四年六月二十四日の木曽川洪水

この尾張・美濃国界 (国境) の変動については、小牧・長久手の戦い以外に、「天正十四年六月二十四日の木曽川洪水」に理由を求める説明も多い。しかし、これに関しては一次史料によって確認できないのは当然とこととして、江戸期の主要な地誌や史料でも洪水と国界を直接関連づけた言及は存在しない。たとえば『尾濃葉栗見聞集』では、〈天正以来木曽川洪水ノ事〉の項目に以下のように記されているが、洪水を理由に国界が変わったとはされていない。

天正十四丙戌年美濃・尾張洪水にて、葉栗・中島両郡の内の村里崩流ほうりゅう (し) て今の木曽川筋出来しゅったいして

天正十四丙戌年美濃尾張洪水𛂌𛁲葉栗中島兩郡の内の村里崩流て今の木曽川筋出来𛁅て

尾濃葉栗見聞集: 天正以来木曽川洪水ノ事

国界については、これとは別に〈葉栗中島海西三郡美濃ニ属スル始ノ事〉の項目で小牧・長久手の戦いに理由を求めている。なお、同じ内容が〈尾張洪水木曽川通堤ノ事〉にもある※1。

則すなわち足立氏御和睦の験しるしは、齋藤義龍欠所は秀吉公に進ぜられ、然しかるべく挨拶に付き、今の木曽川の西北、羽栗・中島・海西の三郡割きて豊臣領にして

則足立氏御和睦之驗者齋藤義龍闕所者秀吉公ニ被レ進可然挨拶ニ付今ノ木曽川ノ西北羽栗中嶋海西ノ三軍割而豊臣領而

尾濃葉栗見聞集: 葉栗中島海西三郡美濃ニ属スル始ノ事

葉栗・中島・海西の三郡濃州に属す其その初めを尋ぬるに、太閤秀吉公・織田信雄卿 (の) 御和睦の時、齋藤義龍の欠所を以って秀吉公に進ぜられ、羽栗、中島、海西の三郡割りて豊臣領と成なす

葉栗中島海西の三郡濃州𛂌屬𛁏其初を尋る𛂌太閤秀吉公織田信長ママ卿御和睦の時齋藤義龍の闕所を以て秀吉公被レ進羽栗中島海西の三郡割而豊臣領と成

尾濃葉栗見聞集: 尾張洪水木曽川通堤ノ事
尾濃葉栗見聞集: 葉栗中島海西三郡美濃ニ属スル始ノ事
Fig.330 尾濃葉栗見聞集 天上 (東京大学史料編纂所所蔵)
Fig.330 尾濃葉栗見聞集 天上 (東京大学史料編纂所所蔵)
尾濃葉栗見聞集: 天正以来木曽川洪水ノ事
Fig.329 尾濃葉栗見聞集 天上 (東京大学史料編纂所所蔵)
Fig.329 尾濃葉栗見聞集 天上 (東京大学史料編纂所所蔵)

『美濃明細記』『新撰美濃志』『濃州徇行記』といったほかの代表的な地誌では、そもそも「天正十四年」の洪水に対する明確な言及がなく、当然国界の変動理由をこれに求めてはいない。なお、『尾濃葉栗見聞集』にも「六月二十四日」という具体的な日付は記されていない。

それではいつから「天正十四年六月二十四日の木曽川洪水」が国界の変動理由になったのだろうか。また、この「六月二十四日」という日付はどこから生じたのだろうか。その端緒は『往古以来三川出水被害状況』という文書にあるようだ。この文書は、『岐阜県災異誌』(1965) によれば、岐阜測候所 (現在の岐阜地方気象台) による明治24年刊の稿本とみられ、その概略は同誌にあるものの、原本の直接の参照はかなわない。しかし、同じ岐阜測候所による『再版 美濃気候編』(1914) には、附録として「美濃往古以来ノ天災地変概録」(『美濃国往古ヨリノ天災地変概録』) が収録されており、上述の概略と一致する内容が含まれる。この附録にはほかの「天災地変」も混在するが、洪水に関する記述は末尾に地名の新旧対照表が添えられている点からも、『往古以来三川出水被害状況』に拠るものとみていいだろう。

では、その「美濃往古以来ノ天災地変概録」がどう語っているのかといえば、以下のとおりである。

天正十四年丙戌年六月二十四日

大洪水木曽川通、各務郡前渡以西、現今の河道を変じ、砂石を押出し、沿道各村を害し、高須輪中は木曽・揖斐の二川漲溢ちょういつし、平水より高きこと二丈余となり、堤塘ていとう悉ことごとく沈没し、破壊百八ケ所あり。此•洪•水•後•木•曽•川•筋•を•以•て•濃•尾•両•国•の•境•と•な•す•

天正十四年丙戌年六月二十四日

大洪水木曾川通各務郡前渡以西現今ノ河道ヲ變ジ砂石ヲ押出シ沿道各村ヲ害シ高須輪中ハ木曾、揖斐ノ二川漲溢シ平水ヨリ高キコト二丈餘トナリ堤塘悉ク沈沒シ破壞百八ケ所アリ。此•洪•水•後•木•曾•川•筋•ヲ•以•テ•濃•尾•兩•國•ノ•境•ト•ナ•ス•

美濃往古以来ノ天災地変概録

この記述は『岐阜県治水史 上』(1953) を筆頭に、のちの市町村史などの地方誌へ、無批判のまま三次・四次的に継承されていくことになる。

しかし、天正年間の記録でこれほど細かな情報が残るとすれば日記類を除いて考えられないが、現存する同時代の史料にこれに該当する記述は見当たらない。仮に失われた日記に記されていたとしても、近地の当事者によるものであれば、扱われる地理的な範囲は狭く、地名も限定される。逆に遠地の記録であれば、「美濃」「尾張」の単位で漠然と集合的に把握されるのが普通で、まして「前渡」や「高須輪中」が登場するはずもない。とすれば、これは後からさかのぼって想像しただけのものではないだろうか。

そもそも、この描写は沖積平野における河川の特性からいっても不自然に感じられる。決壊・溢水した水は面的に広がることはあっても、激しい流れが線的に突き進むことはあり得ない。「此洪水後木曽川筋ヲ以テ濃尾両国ノ境トナス」という記述も、当時の緊迫した領有権争いの実態から見れば、お伽話と同じ発想であって現実味がない。

「六月二十四日」という具体的な日付も、この「美濃往古以来ノ天災地変概録」に初めて登場する。何に拠るものかはわからない。しかし、新暦として「八月九日」が併記されていて、これにほかの事象でも不詳であれば「不詳」、推定に過ぎなければ「?」が添えられているなども手伝って、この日付は奇妙な信頼性と説得力を持っている。これと、やはり詳細で具体的な本文であることも相まって、十分に精査されることもなく受け容れられ、三次・四次的に流布して定着してしまったというのが、この「六月二十四日」の実態なのだろう。

新流路の影響

木曽川の新流路が国界の変動に影響を与えたのは事実といえる。小牧・長久手の戦いの戦前・戦中の状況はすでにまとめたとおりであり、秀吉 (美濃) の前線は明らかに新流路まで前進している。これがそのまま反映されたのが変動後の国界なのだから、新流路は影響を与えている。また、これは以下の史料からも確かめられる。これは、天正10年(1582) 8月11日付で秀吉から丹羽 (惟これ住ずみ) 長秀へ送付された書状 (専光寺所蔵文書)※2である。

尾濃境目の儀につきて承り候そうろう如ごとく、三七殿より此方へも仰せ越され候そうろう間、以来迄、仰せ被らるる事これ無きようにもっともに候間、大河切、然しかるべく存ずる事に候そうろう

尾濃境目之義ニ付而如承候、三七殿より此方へも被仰越候、以来迄被仰事無之様ニ尤候間、大河切可然存事候

専光寺所蔵文書

これによれば、秀吉は、事前に長秀から聞いていたとおりに信孝 (三七殿) が尾張・美濃の国界について申し入れてきたことについて、二度と不平不満を言わせないように、ここは「大河」を境界線として決着させてしまうのが、いちばん妥当な方法と思う、と長秀に回答している。文脈からこの決定は信孝が望む内容のはずであり、美濃の信孝が満足するのは新流路が境界となって美濃の領分が広がることである。つまり、ここでも新流路が境界認識に影響を及ぼし、それがのちに国界にへ反映されている。

なお、ここで「大河」と表現されていることからも、新流量には相応の流量があったことがわかる。つまり、洪水によって急に新流路ができあがったかのような描写は、この事実からも明確に否定される。

注釈

データシート (織豊期)

データシート (織豊期 / 濃尾平野: 尾張・美濃国界)
変動地域濃尾平野
要因戦国期~織豊期の軍事勢力による支配地域化、および豊臣政権によるその承認
曖昧化の時期戦国期~織豊期
変動の確定時期天正17~18年(1589~1590)

そもそもどこか? (江戸初期)

当地の国界は江戸初期に再び変動した。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

Fig.201 木曽川・伊勢湾 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
Fig.201 木曽川・伊勢湾 (尾張・美濃国界): 天正17~18年(1589~1590)
中下流
Fig.139 中下流 (美濃・尾張国界): 元和3年(1617)~寛永5年(1628)
Fig.139 中下流 (美濃・尾張国界): 元和3年(1617)~寛永5年(1628)
下流
Fig.099 下流 (美濃・尾張国界): 元和3年(1617)~寛永5年(1628)
Fig.099 下流 (美濃・尾張国界): 元和3年(1617)~寛永5年(1628)

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が推定される変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。現在の木曽川は近代の改修 (三川分流) を経て当時とはやや異なるが、本質的な位置関係は変わらず、その左岸にあたる部分が変動エリアにあたる。『天保尾張国絵図』・『天保美濃国絵図』で示せば、以下の部分にあたる。

天保美濃国絵図
Fig.562 天保美濃国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.562 天保美濃国絵図 (国立公文書館所蔵)
天保尾張国絵図
Fig.564 天保尾張国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.564 天保尾張国絵図 (国立公文書館所蔵)

要因と経過 (江戸初期)

この変動では、尾張国から美濃国へ移った一帯のうち、海西郡の葛木かつらぎ村・二に老ろう村・大成村・後江ひつえ村・石田村・富安村の 6村と、中島郡 中野村の 1村が尾張国に戻った。これについて、『美濃国尾張領村々覚書』※1の末尾部分には、以下のように記されている。

外

一尾州海西郡葛木村・二老村・大成村・後江村・石田村・冨安村、先年徳永左馬之助知行之時分ハ、濃州海西郡之内ニて御座候処、權現様御諚を以、木曾川切ニ尾張國ニ罷成、慶長拾七壬子之年より、右之六ケ村尾州高之内へ入申候

一尾州中嶋郡中野村、先年保々長兵衛知行之時分ハ、濃州中嶋郡之内ニて御座候、右同断を以尾州高之内へ入申候

美濃国尾張領村々覚書 (末尾部分)

つまり、海西郡の 6村は徳永左馬之助 (昌まさ重しげ) 、中島郡 中野村の 1村は保々長兵衛 (則貞) の知行当時、それぞれ美濃国に属していたが、「權現様御諚」をもって木曽川の流路を基準に尾張国かつ尾張藩領になったという。時期は慶長17年(1612) とされる。

しかし、元和2年(1616) の『元和美濃国郷帳』 には、依然として徳永左馬助昌重領・美濃国 海西郡として前述の 6村が、保々長兵衛則貞領・美濃国 中島郡として中野村 (表記は『中之村』) の 1村が含まれており、『美濃国尾張領村々覚書』の内容と矛盾する。この差異の理由としては、この覚書の編集者が思い違いをした可能性を指摘でき、正しいのは『元和美濃国郷帳』と考えられる。つまり、覚書では海西郡と中島郡による「6村」と「1村」という組み合わせを、同文書の冒頭部分に対応づけて考えてしまったのではないだろうか。

慶長十七壬子年正月五日、大久保石見書付ニて渡ル分

一高四千三百七拾三石四斗五升 七ケ村
此概高五千弐百三拾石七斗三升四合

同年卯月十日大久保石見書付ニて渡ル分

一高三千弐百六石六斗四升五合 壱ケ村
此概高三千弐百六拾四石壱斗弐升五合

美濃国尾張領村々覚書 (冒頭部分)

上記によれば、慶長17年(1612) 1月5日には「7村」、4月10日には「1村」がそれぞれ尾張藩領となったといい、ここに「7村」と「1村」という組み合わせが存在する。この組み合わせは、海西郡と中島郡による「6村」と「1村」の組み合わせに類似し、特に後半の「1村」のところで一致するが、前半は「7村」と「6村」で異なる。実際、覚書には「右之村わけ」以降に内訳が記載され、この「7村」とは羽栗郡 竹ケ鼻村・円城寺村、中島郡 飯柄村・加賀野井村、可児郡 帷子郷※2・古瀬村・善師野村であり、「1村」も各務郡 鵜沼村であって、まったく異なっている。

一方で、末尾部分に「外」とあるように海西郡の 6村と中島郡の 1村は、この覚書においては外数 (付記) に過ぎず、本文に詳細が記載されているわけではない。末尾部分に付記を加える際、誤って冒頭部分の記述を参考にしてしまったということは、同一人物の編集であってもあり得るのではないだろうか。

あるいは、末尾部分の記述は冒頭部分の記述から類推したものなのかもしれない。「7村」と「1村」のうち羽栗郡 竹ケ鼻村・円城寺村と中島郡 飯柄村・加賀野井村は、天正17~18年(1589~1590) の変動エリアに含まれる。「6村」と「1村」も同様に変動エリアに含まれる以上、これらが同様の経過をたどったはず、と編集者が考えたとしてもおかしくはない。

では、『元和美濃国郷帳』が正しいとすれば、元和2年(1616) の同帳以降、海西郡の 6村と中島郡の 1村はいつの時点で尾張国へ移ったのだろうか。まず、正保2年(1645) 美濃国郷帳※3(正保美濃国郷帳) にはこれら各村は含まれない。つまりこの時点で確実に尾張国へ移されていることがわかる。

次に、尾張藩の美濃国における支配を考えると、元和元年(1615) におよそ 32,300石※4、元和5年(1619) におよそ 48,700石※5を増加させており、これらに連動して尾張藩領となった可能性がある。元和3年(1617) 9月5日付『徳川秀忠領知朱印状』※6によれば、加増によって徳永左馬助昌重領の石高は全体として増加したが、海西郡については減少した。これも同時期の尾張藩編入の可能性を補う。しかし、これが正しいとしても「尾張藩領」になっただろう、というだけである。

海西郡 葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村は、度重なる水害で荒廃していたため、江戸幕府による初期の総検地 (備前検) は行われなかった※7。木曽川の堤防は、豊臣政権下の文禄3年(1594) や徳川政権下の慶長6年(1601)・同13~14年(1608~1609) に相次いで構築・改修されたといわれる。また、その間に派川の分流部が次々に締め切られ、近世初期の大規模な治水工事は一応の完成をみたとされる※8。しかし、6村を含む地域でようやく治水対策が完了するのは、寛永元年(1624) に複合的な輪中 (一円輪中) が完成するのを待たなければならなかった※9。その後、尾張藩による検地が実施され、寛文4年(1664)には葛木・二老・石田・富安の 4村で、寛文6年(1666) には外大成・石田・富安の 3村で行われた※7。中島郡 中野村についても、そう変わらない経過だったと推定される。

関東平野における下総国 葛かつ飾しか郡の分割は、前述の「要因と経過 (織豊期)」でふれたとおり、寛永年間(1624~1644) に行われたと推定されている。この寛永年間は、治水が一定の成果を得て一帯の新田開発が本格化した時期にあたる。また、平須賀村の検地帳について、寛永4年(1627) ではその表紙に「下総国勝鹿郡幸手内平須賀村」とあるのに対し、寛永11年(1634) は「武州幸手之内平須賀村」とあり、検地の過程で整理・再編が行われ、それが『正保下総国絵図』・『正保武蔵国絵図』に反映されたようだ。

海西郡の 6村と中島郡の 1村も、同様の経過をたどったとみるのが自然であり、各村が美濃国から尾張国へ移された時期は、やはり寛永年間(1624~1644) だったとするのが妥当だろう。そして、この変動が反映されたのが『正保尾張国絵図』・『正保美濃国絵図』ともいえるだろう。

注釈

徳永左馬助昌重領

『美濃一国郷牒』によると、同郷帳における美濃国 海西郡は、全 43村のうち者じゃ結けつを除く 42村が徳永左馬助昌まさ重しげ領である。この徳永氏領は、その父・徳永寿なが昌まさまでさかのぼることができ、天正20年(1592) 12月14日付の『徳永寿昌判物写』※1には、すでに大部分 (一部を除く各村) が含まれている。徳永寿なが昌まさは豊臣秀ひで次つぐに重臣として仕え、2万石を与えられて高松城 (松ノ木城) に居住していた※2。

その後、『美濃一国郷牒』における海西郡のうち、まず13村が元和2年(1616) の『元和美濃国郷帳』では 石津郡とされ、正保2年(1645) の美濃国郷帳 (正保美濃国郷帳) では、さらに 1村が石津郡、別に 1村が安八郡へ移された。そしてこのとき、葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村が尾張国 海西郡となって、当地における郡域が確定したわけである。

この経過から考えると、当初の海西郡は、戦国期の延長として徳永寿昌領を単位に設定されたものに過ぎないといえる。荘園制崩壊後の中世においては、知行宛行状・安堵状など土地の所有をめぐる文書では、旧領・遺領を単位とすることが多かった。近世において村単位で領域を把握できるようになるのは、単に「村切」が行われたからではない。68国のすべてについて郷帳・国絵図が整備され、村単位の石高とその分布が把握できるようになったからである。江戸初期にはそれがかなわず、旧来の方式で設定された海西郡も、その後の治水・検地の進行によって土地の詳細が明らかになるに従って、葛木・二老・大成・後江・石田・富安の 6村も最終的に尾張国 海西郡の所属に収まったのだろう。

徳永左馬助昌重領の推移
#美濃一国郷牒徳永寿昌判物写 天正20年(1592)元和美濃国郷帳正保美濃国郷帳
国郡村国郡村国郡村
1美濃国 海西郡葛木村葛木村美濃国 海西郡葛木村(含まれない)
2美濃国 海西郡二老村にろう村美濃国 海西郡二老村(含まれない)
3美濃国 海西郡大成村(含まれない)美濃国 海西郡大成村(含まれない)
4美濃国 海西郡後江村(含まれない)美濃国 海西郡後江村(含まれない)
5美濃国 海西郡石田村石田村美濃国 海西郡石田村(含まれない)
6美濃国 海西郡冨安村(含まれない)美濃国 海西郡冨安村(含まれない)
7美濃国 海西郡立野村立野村美濃国 海西郡立野村美濃国 海西郡立野村
8美濃国 海西郡長窪クボ村長くほ村美濃国 海西郡長窪村美濃国 海西郡長久保村
9美濃国 海西郡外濱村そと濱村美濃国 海西郡外濱村美濃国 海西郡外濱村
10美濃国 海西郡かた野村ふたの村美濃国 海西郡ふたの村美濃国 石津郡札野村
11美濃国 海西郡石龜村石龜村美濃国 海西郡石かみ村美濃国 海西郡石龜村
12美濃国 海西郡森下村森下村美濃国 海西郡森下村美濃国 海西郡森下村
13美濃国 海西郡古中嶋村中嶋村美濃国 海西郡古中島村美濃国 海西郡古中島村
14美濃国 海西郡田原村日原村美濃国 海西郡日原村美濃国 海西郡日原村
15美濃国 海西郡長瀨村長瀨村美濃国 海西郡長せ村美濃国 海西郡長瀨村
16美濃国 海西郡駒替村駒江村美濃国 海西郡駒江村美濃国 海西郡駒ケ江村
17美濃国 海西郡大和田村大和田村美濃国 海西郡大和田村美濃国 海西郡大和田村
18美濃国 海西郡秋江村秋江村美濃国 海西郡秋江村美濃国 海西郡秋江村
19美濃国 海西郡成戸村成戸村美濃国 海西郡成戸村美濃国 海西郡成戸村
20美濃国 海西郡せこ村瀨古村美濃国 海西郡せこ村美濃国 海西郡瀨古村
21美濃国 海西郡か𛃉切村上切村美濃国 海西郡か𛃉きり村美濃国 海西郡上切村
22美濃国 海西郡松木村松木村美濃国 海西郡松木村美濃国 海西郡松ノ木村
23美濃国 海西郡麻野村加の村美濃国 海西郡鹿野村美濃国 海西郡鹿野村
24美濃国 海西郡野一市場村野市庭村美濃国 海西郡野市は村美濃国 海西郡野市場村
25美濃国 海西郡下幡長村下畑村美濃国 海西郡下幡長村美濃国 海西郡幡長村
26美濃国 海西郡須脇村す脇村美濃国 海西郡須脇村美濃国 海西郡須脇村
27美濃国 海西郡岡村上畑長村美濃国 海西郡岡村美濃国 海西郡岡村
28美濃国 海西郡野寺村野寺村美濃国 海西郡野寺村美濃国 海西郡野寺村
29美濃国 海西郡大藪村大藪村美濃国 海西郡大藪村美濃国 安八郡大藪村
30美濃国 海西郡下一色村(含まれない)美濃国 石津郡下一色村美濃国 石津郡下一色村
31美濃国 海西郡松か平村(含まれない)美濃国 石津郡松かゑ村美濃国 石津郡松ケ平村
32美濃国 海西郡中嶋村(含まれない)美濃国 石津郡中嶋村美濃国 石津郡中嶋村
33美濃国 海西郡大里村大田村美濃国 石津郡大里村美濃国 石津郡大里村
34美濃国 海西郡山崎村山崎村美濃国 石津郡山崎村美濃国 石津郡山崎村
35美濃国 海西郡屋すへ村安江村美濃国 石津郡やすへ村美濃国 石津郡安江村
36美濃国 海西郡上川戸村こう津村・上野村美濃国 石津郡上川戸村美濃国 石津郡上野河戸村
37美濃国 海西郡はね村は禰村美濃国 石津郡はね村美濃国 石津郡羽根村
38美濃国 海西郡馬津村馬津村美濃国 石津郡馬津村美濃国 石津郡馬澤村
39美濃国 海西郡奥城村奧條村美濃国 石津郡奥城村美濃国 石津郡奥城村
40美濃国 海西郡駒野村駒野村美濃国 石津郡駒野村美濃国 石津郡駒野村
41美濃国 海西郡に𛂞た村庭田村美濃国 石津郡に𛂞た村美濃国 石津郡庭田村
42美濃国 海西郡德田村とく田村美濃国 石津郡德田村美濃国 石津郡德田村

美濃一国郷牒

『美濃一国郷牒』は、表紙に「慶長六年丑年」、奥書に「慶長十八年」とある郷帳であり、内容から慶長6年(1601) 以降、寛永年間(1624~1644) はじめごろまでの領主とその所領一覧を書き継ぎ、さらにそれを整理したものと考えられている。したがって、慶長6年(1601) 時点での情報でもなければ、慶長18年(1613) 時点の情報でもない。扱いに注意が必要だが、これでしかわからない情報も多く貴重な史料である。『岐阜県史 史料編 近世1』(1965) 所収※3。

美濃国村高領知改帳 (元和美濃国郷帳)

『美濃国村高領知改帳』は、奥付に元和2年(1616) 8月7日の日付が記された郷帳である。元和美濃国郷帳。『岐阜県史 史料編 近世1』(1965) 所収※4。

注釈

データシート (江戸初期)

データシート (江戸初期 / 濃尾平野: 尾張・美濃国界)
変動地域濃尾平野
要因徳川政権による再編成
曖昧化の時期織豊期~江戸初期
変動の確定時期元和3年(1617)~寛永5年(1628)

そもそもどこか? (近代)

当地の国界は近代に三たび変動した。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

Fig.202 中島・海西・桑名 (伊勢・美濃・尾張国界): 明治13年(1880)・明治16年(1883)・明治28年(1895)
Fig.202 中島・海西・桑名 (伊勢・美濃・尾張国界): 明治13年(1880)・明治16年(1883)・明治28年(1895)
河口デルタ
Fig.129 木曽川・伊勢湾 (伊勢・美濃・尾張国界): 明治13年(1880)・明治16年(1883)
Fig.129 木曽川・伊勢湾 (伊勢・美濃・尾張国界): 明治13年(1880)・明治16年(1883)
下流
Fig.138 下流 (伊勢・尾張国界): 明治13年(1880)・明治16年(1883)
Fig.138 下流 (伊勢・尾張国界): 明治13年(1880)・明治16年(1883)
中下流
Fig.130 木曽川・伊勢湾 (美濃・尾張国界): 明治28年(1895)
Fig.130 木曽川・伊勢湾 (美濃・尾張国界): 明治28年(1895)

変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が変動前の国界 (国境)、濃紫色が変動後の国界である。変動した部分はすべて地形的な飛地である。『天保尾張国絵図』・『天保美濃国絵図』・『天保伊勢国絵図』で示せば、以下の部分にあたる。

天保美濃国絵図
Fig.609 天保美濃国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.609 天保美濃国絵図 (国立公文書館所蔵)
天保尾張国絵図
Fig.620 天保尾張国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.620 天保尾張国絵図 (国立公文書館所蔵)
天保伊勢国絵図
Fig.514 天保伊勢国絵図 (国立公文書館所蔵)
Fig.514 天保伊勢国絵図 (国立公文書館所蔵)

要因と経過 (近代)

前述のように、変動された部分はすべて地形的な飛地であり、行政上の不便解消のため、県境と連動して国界も変更された。変更の時期は 3回に分かれ、明治12年(1879) 10月、明治16年(1883) 6月、および明治20年(1887) 7月である。

明治12年(1879) 10月

対象は、伊勢国 桑名郡のうち福原新田・小島新田・五明村・川原かわら欠がけ新田・加か稲いな新田・加稲九郞次新田・加稲附新田 (加稲付新田)・三好新田・富島新田・宮島附新田 (宮島付新田)・加稲山新田・稲荷崎新田・稲荷崎附新田 (稲荷崎付新田)・富崎新田・境新田の 15村であり、尾張国 海西郡に編入された。これは明治12年(1879) 8月15日付「伊勢尾張国界更正伺」※1が内務卿・伊藤博文から太政大臣・三条実美に上申され、「伺ノ通」「明治十二年十月十四日」(朱書) として決裁されたことによる。

伊勢尾張国界更正伺
Fig.569 愛知県下尾張国海西郡ト三重県下伊勢国桑名郡トニ係ル国界更正ノ件 公文録・明治十二年・第七十六巻・明治十二年十月・内務省三 (国立公文書館所蔵)
Fig.569 愛知県下尾張国海西郡ト三重県下伊勢国桑名郡トニ係ル国界更正ノ件 公文録・明治十二年・第七十六巻・明治十二年十月・内務省三 (国立公文書館所蔵)
三重県管轄并本庁沿革
Fig.611 三重県管轄并本庁沿革 公文録・明治十三年・第百五十巻・巡幸雑記第六 (国立公文書館所蔵)
Fig.611 三重県管轄并本庁沿革 公文録・明治十三年・第百五十巻・巡幸雑記第六 (国立公文書館所蔵)

なお、『三重県奏上書類・目録附』※2に収められた『三重県管轄并本庁沿革』には「明治十二年十二月二十七日」とあるが、これは伊藤から内務卿達として三重県に指令が伝達された日と考えられる (次の明治16年 6月の変更でも、内務卿達の日付は決裁の『明治十六年六月一日』 から 3か月以上経過した『明治十六年九月廿七日』である)。

ここで変動した部分は、五明村以外の 14村が新田であることからもわかるように、江戸期の干拓によって生じたか、それによってようやく開発可能になった土地ばかりである。したがって、変動前の国界も古代に令制国 68国が定まった時点までさかのぼることはできず、干拓によっていわば「延長」されてきたものに過ぎない。

その干拓地は相当に不安定であり、継続的な侵食のほか、洪水や暴風雨・高波によって荒廃することが少なくなかった。再開発にあたっては名称や形態を変えることも頻繁で、現在では実態のわからないものすら存在する。前述の 15村のうち「加稲附新田 (加稲付新田) は、本稿で近世各村の基準としている天保国絵図・郷帳には含まれない。反対に、天保国絵図における位置関係から考えれば、変動した範囲内に含まれるはずの「白鷺脇付新田」は、15村に含まれない。

明治16年(1883) 6月

対象は、伊勢国 桑名郡のうち金廻村・江内村・油島新田であり、美濃国 海西郡に編入された。これは明治15年(1882) 12月19日付「国界更正ノ儀伺」※3が内務卿山田顕義から太政大臣三条実美に上申され、「伺ノ趣聞届候事」「明治十六年六月一日」(朱書) として決裁されたことによる。

国界更正ノ儀伺
Fig.565 三重県下国界更正ノ件 公文録・明治十六年・第三十三巻・明治十六年六月・内務省第一 (国立公文書館所蔵)
Fig.565 三重県下国界更正ノ件 公文録・明治十六年・第三十三巻・明治十六年六月・内務省第一 (国立公文書館所蔵)

明治20年(1887) 7月

対象は「松山中島村」と「拾町野村・馬飼村・三拾町村・東加賀野井村」であり、前者は尾張国 海西郡から美濃国 海西郡に、後者はこの反対の方向へ (ただし郡は異なり) 美濃国 中島郡から尾張国 中島郡へ、それぞれ編入された。これは明治20年(1887) 7月12日付 (官報 7月13日) の勅令第34号※4による。

勅令第34号
Fig.311 三重県管轄并本庁沿革 公文録・明治十三年・第百五十巻・巡幸雑記第六 (国立公文書館所蔵)
Fig.311 三重県管轄并本庁沿革 公文録・明治十三年・第百五十巻・巡幸雑記第六 (国立公文書館所蔵)
注釈

更新履歴

内容

:

  • 改訂の上で近代の各項目を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 改訂の上で江戸初期の各項目を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 改訂の上で織豊期の各項目を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。

:

  • 『国絵図と国界』の一部として修正。

:

  • 同、新規作成。