およそ46億年といわれる地球の歴史の中で、現在の我々は「新生代」の「第四紀」という時代に生きている。この「第四紀」とは「ジュラ紀」や「白亜紀」などでおなじみの「紀」の最後で、(大雑把に) 約250万年前にはじまったとされ、現在より遠いほうから「更新世」と「完新世」に分けられる。「更新世」は以前は「洪積世」と呼ばれ、洪積層 (台地) が形成された時代、「完新世」は同様に「沖積世」と呼ばれ、沖積層 (低地) が形成された時代である。完新世は最終氷期、つまり気候が寒冷で氷河が発達した期間のうち、現在にもっとも近いそれが終了した (同じく大雑把に) 約1万年前からはじまっている。
その完新世の初期、氷河の融解によって海面は急上昇し、海は内陸に向かって深く入り込んだ。日本ではこれを「縄文海進」と呼び、海面は現在よりも2~3メートル高く、そのピークは 7300~7000年前とされる※1。現在の標高でいえば、関東平野の低地部ではおおむね10メートルまでが海だったと推定され、房総半島南端では20メートル以上だったという。これは隆起の影響を受けているためで、差は隆起速度の違いに起因する。
縄文海進ピーク時の海岸線は貝塚の分布に相関することが古くから知られ、これをあらわすと以下のようになる。

このとき形成された内湾のうち、現在の江戸川・中川・荒川流域に発達したものを「奥東京湾」、同じく利根川・鬼怒川流域のものを「古鬼怒湾」(または『奥鬼怒湾』) という。奥東京湾はその後の海退にともまってほぼ消滅したが、古鬼怒湾は現存する霞ケ浦 (西浦・北浦) 等の湖沼とともに、広大な内海として残って下総・常陸の国界となった。かつての霞ケ浦のように浅い汽水湖のような環境だったと考えられる (現在の霞ケ浦は淡水湖とされる)。

ところでこの内海はかつてどのような名前で呼ばれていたのだろうか。結論からいえば、それは残念ながら明らかではない。
『常陸国風土記』では部分ごとに「信太の流海(ながれうみ/りゅうかい)」「榎浦の流海」「佐礼の流海」「高浜の海」「行方の海」「安是の湖」と呼ばれている。しかし全体の呼称には言及がない。
万葉集では以下の 3首に関係する地名があらわれる。
万葉集
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しかし #1172 と #2436は、どちらも近江の琵琶湖西部を詠んだものである※2。つまり一見すると「香取の浦」や「香取の海」は内海のことを指しているようで、実際には異なる。また #3397は明らかに内海のことを詠んでいるが「浪逆の海」は現在でも残部が「外浪逆浦」として残る部分名称である。

今昔物語集 衣河ノ尻ヤカテ海ノ如シ。鹿嶋梶取ノ前ノ渡ノ向ヒ、顔不見ヘ程也。而ルニ、彼忠恒カ栖ハ内海ニ遥ニ入タル向ヒニ有ル也。然レハ、責ニ寄ルニ、此ノ入海ヲ廻テ寄ナラバ、七日許可廻シ。 | 此ノ海ニハ浅キ道、堤ノ如クニテ、廣サ一丈計ニテ直ク渡リアリ。深サ馬ノ太腹ニナン立ツナル。 |
これはあくまでも説話集における描写に過ぎないが、平忠常の乱 (長元元年~3年, 1028~1030) 頃の情景を鮮やかに描き出している。それにもかかわらず「内海」や「入海」であって固有の名称はない。
内海に言及する史料としてもっとも古いのは至徳4年(1387) 『大禰宜大中臣長房譲状』※4かと思われるが、ここでも「うちのうみ」とあり、特別な呼び方はされていない。
煩雑になるのを避けるため、縄文海進ピーク時の推定図はシンプルなものに留めたが、一方で現在のどの範囲にあたるのかはわかりづらい。そこで少々見づらくはなるが、現行政界・交通関係を重ねたものを示せば以下のようになる。

複数の写本が現存しているが、もとは同じ写本であって、その時点で省略された部分は復原できない※5。本稿で示したのは国立公文書館所蔵・公開のもの (#1240678) である。奥書によれば元禄6年3月4日の日付がある写本を文化12年(1815) 7月に写したもので、『松下見林本』の系統にあたる。群書類従所収のものも含めてNDLDCでも複数の写本が所蔵・公開されている。
| ^ ※1: | 『日本の地形4 関東・伊豆小笠原』(2000)。 |
| ^ ※2: | 『房総万葉地理の研究』(1964, 今井)・『万葉の歌 人と風土 8 滋賀』(1986)・『完訳 日本の古典 第2~7巻』(1982~1987) など。 |
| ^ ※3: | 句読点 (中黒を含む)・読み仮名は『完訳 日本の古典 第31巻 今昔物語集2 本朝世俗部』(1986) による。 |
| ^ ※4: | 『取手市史 古代中世史料編』(1986) 所収。 |
| ^ ※5: | 『茨城県史料 古代編』(1968)。 |