ここでは、江戸前期に発生した上野国 山中領の混乱について分析しています。
はじめに
ここで扱うのは「山中領」に関係する上野・武蔵国界である。これまでとは異なり、発生した事象は「変動」ではなく「混乱」と「確定」である。つまり、ほかにも無数にあるだろう事例と性質は変わらず、本来は本稿で扱う範囲を外れる。しかし、対象は正保国絵図の段階でも広範囲にわたって国界が未確定だったという点で特異な事例であり、興味深いことから、以下その経緯をまとめる。
山中領
山中領とは、上野国 甘楽郡の神流川上流域を指す広域地名である。源流域から上山郷・中山郷・下山郷に分けて把握され、この単位は近代以後もほとんどそのまま、群馬県 上野村 (上山郷)、中里村 (中山郷の過半)※2、および万場町 (中山郷の一部と下山郷)※1※2に引き継がれた。
天保郷帳・国絵図の村々
近世 上野国 甘楽郡※3
- 111. 柏木村
- 111a. 大寄※4※5※6
- 111b. 中島※4※6
- 112. 生利村
- 112a. 飯島※5※7
- 112b. 戸野※8※7
- 113. 万場村
- 114. 塩沢村
- 115. 黒田村
- 116. 相原村
- 117. 舟子村※9※10
- 117a. 上舟子※11※12
- 117b. 椹森※12※13
- 117c. 白石※11※12
- 117d. 高塩※11※12
- 117e. 矢羽沢※8※12
- 118. 魚尾村※14※11
- 118a. 上小越※8※15
- 118b. 下小越※8※15※16
- 118c. 桜井※8※15
- 118d. 伝田郷※8※15
- 119. 神原村※11※17
- 119a. 三津川※8※18
- 119b. 明家※8※18
- 119c. 瀬林※8※18
- 119d. 間物※8※18
- 120. 平原村※19※11
- 120a. 持倉※20※21
- 120b. 八倉※22※21
- 120c. 橋倉※23※21
- 120d. 山室※11※21
- 120e. 土屋※8※21※24
- 121. 尾附村※25
- 121a. 相切※8※26
- 122. 勝山村※11
- 122a. 向屋※11※27※28
- 123. 乙母村※29
- 124. 乙父村※30
- 124a. 小春※31※32
- 124b. 柿平※33※32
- 124c. 東西※11※31
- 124d. 住居附※8※31
- 124e. 乙父沢※8※31
- 124f. 中村※8※31
- 124e. 田平※8※31
- 124f. 檜平※8※31
- 124h. 神寄※8※31
- 125. 楢原村※34※35
- 125a. 浜平※11※36
- 125b. 白井※11※36
- 125c. 中沢※8※36※37
- 125d. 神行※8※36
- 125e. 黒川※8※36
- 125f. 塩野沢※8※36※38
- 125g. 須郷※8※36
- 125h. 楢沢※8※36
- 125i. 堂所※8※36
- 125j. 中越※8※36
- 126. 麻生村※4※5※39
- 127. 森戸村※40※39
- 128. 小平村※39
- 128a. 大井戸※41※42※43
- 128b. 坂井※11※42
- 128c. 古田※11※42※44
- 129. 青梨子村※39※45※46
- 129a. 高谷木※39※47※48
- 130. 新羽村※39
- 130a. 八幡※39※49
- 130b. 野栗※39※49
- 131. 野栗沢村※39※50
- 131a. 奥名郷※51
- 132. 川和村※39
- 132a. 門川※39※52
「山中領」という地名は、「領」という単位 (接尾辞) それ自体は近世に入ってからのものだが、少なくとも戦国・織豊期にはすでに認知されていた。たとえば『甘楽郡村誌 附録』※58所収の天正9年(1581) 文書には「山中」「上山」があらわれる。以下に付記部分も含めて抜粋して示す。
定
右、現在山中の情勢は、秩父郡との境目に直面しているため、昼夜を問わず油断があってはならない。八幡に陣を構えて境界とし、上山を防衛している。誰の家臣か、あるいは誰の領民であるかといった自他の区別なく、全員が一丸となり、守備兵を配置せよ。そして八幡に押し寄せる敵を防ぎ、または出撃・夜襲を行え。この手形をもって命ずる、以上。
天正9年(1581) 3月17日 信真
播磨守殿
これは新羽村の浅香氏の所蔵である。永禄・天正のころ、新羽村に浅香兵庫という者がおり、小幡氏に属して 7貫文の知行を得ていた。「播磨守」はおそらくその浅香兵庫だろう。現在も村内には砦の跡があり、浅香氏の旧跡であると言い伝えられている。「八幡」という地名は武州児玉郡にあり、当時は鉢形に属していた。「上山」はおそらく現在の山中の地であり、昔は「上山庄」と呼ばれていたという。
定
右只今山中之事者指向秩父郡境目に成候間、夜昼共ニ不可有油断候、八幡於切而上山之内有之誰カ被官誰カ百姓候共自他之無差別致一円、居番手ニ積八幡ニ有之敵之防又者稼とも可仕候、以此手形下知尤也、仍如件
天正九辛巳三月十七日 信真
播磨守殿
右新羽村浅香某所蔵、永禄天正間新羽村有浅香兵庫者属小幡氏食七貫、播磨守盖其人也、今村中有砦趾伝云、浅香氏之故墟八幡地名在武州児玉郡、是時属鉢形上山、盖今山中之地古嘗有上山庄之称云
付記によれば、この文書は武蔵国 鉢形城を拠点とする北条氏邦との攻防のなか、上野国の在地勢力・小幡信真が、浅香兵庫と推定される播磨守に山中領の防衛を命じた文書 (下知状) である。ただし、位置関係から考えれば、「八幡」は新羽村を構成する集落のひとつである八幡である。
その八幡集落は、本村である新羽村と同様、神流川の右岸 (南岸) に位置し、野栗沢川が刻む谷の入り口にあった。この谷をさかのぼった先には赤岩峠が存在し、その向こうは武蔵国 秩父郡である。つまり、峠を越えて谷を下ってきた敵勢をそこで食い止め、何としてでも山中領の上郷への侵入を許すな、という内容である。また、この下知状からは、「山中」とその内訳である「上山」がすでに存在することと、その領域は神流川の両岸に展開され、山陵をもって武蔵国 秩父郡に接していたことがわかる。
山間部を流れる神流川の両岸には、平地はほとんど存在しない。山肌をえぐるような曲流にあっては、道も通せるところに通すしかなく、これ以上行けなくなったら対岸へ渡すといったことの繰り返しである。したがって、上山・中山・下山の各郷は、日照条件に恵まれる左岸 (北岸) を主要部としつつも、両岸にまたがって展開された。
注釈
混乱と争論
その山中領では、元禄年間(1688~1704) に神流川以南の地域を巡って争論 (境論) が発生した。論点は、この地域 (山中領の神流川以南) が上野国と武蔵国のどちらであるのか、という問題である。当事者の一方は当然ながら山中領自体である。もう一方は、上野・武蔵国界である尾根筋 (分水嶺) を越えた南に接する、秩父郡の上吉田・中津川・河原沢・日尾・藤倉の 5村である。彼らは国界は神流川にあると主張し、神流川以南はまるごと武蔵国であるとした。
事のはじまりは、少なくとも織豊期までさかのぼることができる。その背景にあるのが、当地における支配領域の境界である。『群馬県多野郡誌』(1927/1977) が引用する『神川村郷土誌』(1910) によれば、天正11年(1583) 以降、上野国 甘楽郡は「織田信雄の一族」の所領になったという。このとき「當時の石高を記したるものを見るに神流川右岸の地は甘樂郡に加へざるが如し」といい、右岸 (南岸) は別の領域として把握された。その詳細は明らかでないが、武蔵国 秩父郡側の支配域へ拡張部分として組み込まれたと考えるのが自然だろう。
この領域認識は、寛永国絵図の略図・縮図と推定される『日本六十余州国々切絵図 (余州図)』で確かめることができる。『余州図』では、山中領付近の上野・武蔵国界は神流川で表現され、右岸 (南岸) は武蔵国に描かれている。また、上山・中山・下山の山中領 3郷をあらわすオブジェクトも武蔵国に描かれ、上野国には何も存在しない。豊臣政権下に設定された領域認識がそのまま徳川政権 (江戸幕府) に継承され、それが具体的に表現されているといえる。
前述のように、山中領は神流川の両岸で一体であり、流路を基準にその領域を分割することに合理性はまったくない。しかし、おそらく織豊期の攻防の中で設定された境界は国界として継承され、武蔵国 秩父郡側では認知されていた。これが争論の根本原因である。
実際に具体的な争いに発展した契機は、元禄国絵図の作成に当たって、上野・武蔵の国界を確定させる必要が生じたことにある。元禄国絵図の作成は、元禄9年(1696) 11月にその指示があったことを契機とし、実質的には翌10年(1697) 閏2月からはじまり、同15年(1702) 年12月までにすべての絵図が献上され、完了した。争論が終結したのが元禄15年(1702) 8月であるので、裁許で下された結論がただちに反映されることで、ようやく上野・武蔵両国の絵図は完成したことになる。
まず、元禄12年(1699) 5月の『山中領村々上州・武州国境論争申立書』によれば、「山中領の内において秩父との境界の部分が古絵図 (正保国絵図) から脱落している」ことが判明した。実際、『寛文上野国郷帳』※1には神流川以北の各村しか含まれていない。しかし、『正保武蔵国絵図』(正保年中改定図)・『正保武蔵国郷帳』(武蔵田園簿)にも分水嶺以南の各村しか含まれておらず、厳密には神流川以南で分水嶺以北の部分が、どちらの国絵図にも描かれない「空白域」と化していた。
以下に『正保年中改定図』の秩父郡 (左) と、『寛文上野国郷帳』の甘楽郡のうち、山中領の各村が記載されている部分 (右) を示す。
『正保年中改定図』では国界が分水嶺で表現され、街道が各峠までしか描かれていない。また、『寛文上野国郷帳』には山中領のうち、神流川以北の各村しか含まれていないことが確かめられる※2。
正保国絵図作成の段階で、すでにこの山中領の神流川以南が上野国と武蔵国のどちらであるのか、山中領側と秩父郡 5村との間で論争があったことは容易に想像できる。正保国絵図では、国界付近の争論 (境論) について未解決であることが容認された。しかし、これは合理的に考えて、国界が不明瞭な山間部や入会地に限られる。山中領の神流川以南については、実態のある村々が 20以上も含まれる上、その範囲があまりにも広過ぎる。そのため結論が先延ばしにされ、「どちらも含めない」という処置に落ち着いたのだろう。
元禄13年(1700) 2月の秩父郡 5村の主張 (『武蔵国秩父郡秩父領村口書』) によれば、少なくともこの時点において彼らが問題としていたのは、対象地域内に存在する妙見社 2社 (『野栗権現』および『戸野村妙見』) の処遇だけだったと考えられる。この 2社は妙見本社 (現在の秩父神社) を勧請した神社である。そのため秩父郡 5村としては、山中領側が「秩父郡でない」ことを根拠に神事における賦課の負担を拒み、その結果として秩父郡 5村の負担が増すことを恐れていたのだろう。あるいは、妙見本社自体が権益を守るために後ろ盾となっていた可能性もある。境界が問題となる争論 (境論) は、多くの場合、入会地の利用や区分を巡って発生するが、少なくとも現存する史料からそれが争点であったとは読み取れない。
もっとも、彼らは山中領と秩父領の「領界」と、地域区分である上野国 甘楽郡と武蔵国 秩父郡の「国郡界」を明確に区別しており、問題としていたのは後者だけである。秩父郡 5村には、実際の生活領域である「山中領」に干渉する意思はまったくなかった。
ところが、山中領側はこの領界と国郡界の区別ができていなかった (『山中領村々上州・武州国境画定につき願状』)。国郡界が神流川に定まれば、連動して領界も神流川となり、以南は秩父領になるという理解だったのである。領域が分割されれば立ちどころに生活が破綻することから、山中領は猛反発した。もちろん、山中領が論点を正しく理解していれば、この争いは簡単に解決するものだった。山中領全体から見れば、妙見社 2社の負担がそこまで大きいものだったとは考えにくく、また、現実的な結論が下される裁許の場であれば、その負担軽減も見込むことができたはずだからである。
山中領側が領界と国郡界を区別できないのは、長く中世的な郷村が解体されなかっためだろう。慶長19年11月16日付『山中領下山郷年貢割付状』※3には「下山郷寅年御成ケ相定事」とあり、以後も、正保3年(1646) 12月付『山中領下山郷年貢請取状』※4には「戌歳下山村御年貢請取事」、寛文2年(1662) 12月付『山中領中山郷年貢皆済状』※5には「寅歳中山御年貢請取永之事」などと記され、一貫して上山・中山・下山の郷単位で把握されつづけた。当然ながら永高制のままであり、石高制への転換もされていない。彼らにとっては、領界と国郡界の区別がないというより、特に郡界に関しては概念すら無かったと思われる。
また、慶長3年(1598) の検地が分水嶺を境界として実施されたことや、代官支配の分離もこの状況に拍車をかけたようだ。山中領と秩父領は天和年間(1681~1684) までは共通の代官支配下にあったが、貞享元年(1684)以後は単独支配となり、独立意識はさらに増してしまった。
さらに、こうした混同は在地の支配者層に限られたものではなく、幕府の役人ですら正しくは理解していなかった。ようやく中世的な郷村が解体された元禄3年(1690) の検地を受け、翌年 10月付で発布された『山中領下山郷年貢割付状』※6には「上州甘楽郡下山郷未御成ケ割付」、元禄11年(1698) 3月の乙父村検地帳※7には「上野国甘楽郡山中領 上山郷乙父村御検地水帳」と記されている。
なお、山中領側の元禄12年(1699) 5月の『山中領村々上州・武州国境論争申立書』では、奥書の連署が「山中領下山郷」の各職各人だった。これが、元禄13年(1700) 2月の『山中領村々上州・武州国境画定につき願状』では「上野国甘楽郡山中領之内上山郷」などと国郡を明示した上で、各村ごとの各職各人に変化している。山中領側は、当初は検地帳の記載でさえ書類上の文言に過ぎないと考え、制度の現実を理解できていなかった嫌いさえ感じられる。
最終的に山中領側の主張は、神流川右岸 (南岸) が秩父領になった場合のさまざまな不便を書き連ねるばかりのものとなった (『山中領村々上州・武州国境紛争につき故障口上書』)。しかし、実地検分の役人が訪れた段階で、秩父郡 5村が早々と主張を取り下げたこともあり、上野・武蔵の国界は、山中領と秩父領の領界に一致する分水嶺に確定することになった (『山中領村々上州・武州国境論争裁許覚』)。秩父郡 5村の立場としては、当初は引くに引けなかったとしても、幕府の裁許にまで及んだ時点ですでに割に合わない問題になっていたのだろう。
一方、この争論における山中領側の主張で興味深いのは、領内・郷内の村々、あるいはその村内の実情が赤裸々に語られている点である。当初は漠然と語られていた相互扶助も、けっして慈悲や温情によってではなく、証文の取り交わしや慣習によって成り立っていることがよくわかる。『万場町誌』(1994)は、この争論の結果について「自分たちの主張を実現させるために山中領の百姓たちの示した底力は、躍動感にあふれ、その結束力と名主・長百姓を中心とした指導力は、後世にも語り継がれるべき出来事でもある」と評している。しかし、はたして実態は、そのような牧歌的なものだったのだろうか。
注釈
口上書等
元禄12年(1699) 5月: 山中領 申立書
元禄12年(1699) 5月の山中領の申立書は、元禄13年(1700) 2月の供述書に先行する申立書であり、『山中領村々上州・武州国境論争申立書』として『群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1』(1977) に所収されている※1。奥書には「山中領下山郷」の「名主代」である「十太夫」と「庄右衛門」、およびほか 145名の連署があり、宛先は「御代官様」となっている。
一このたびの国絵図の改訂につき、御吟味が行われましたが、山中領の内において秩父との境界の部分が古絵図 (正保国絵図) から脱落しているとのこと、よって「法久村より下流は神流川が国境であるのに、山中領については尾根筋 (分水嶺) が国境であるのはどのような理由によるものか」とのお尋ねがございました (ので以下、お答え申し上げます)。
一山中領については山が険しく、とりわけ谷は狭く神流川も小河川でございますゆえ、谷全体において、ひとつの村の田地・家屋・往来の道筋ともに神流川をまたぎ (両岸に) 入り組んでおります。そのため、武州・信州・上州の境である三国山から、山中領柏木村と秩父郡大田部村の境である「塚の尾根」というところまで尾根筋 (分水嶺) を基準に、昔から武州と上州の境界が決まっているということに間違いございません。よって、慶長3年(1598) に伊奈備前守 (忠次) 様が御検地なされたときにも、秩父と山中領全体に御検地なされましたが、分水嶺を境界に、山中領については「上州甘楽郡」と御検地帳にお書きになりました。山中領の田地・屋敷については、神流川の流路十里余のうち、川をまたぎ (両岸にわたるところが) 過半であり、双方の百姓が所持しております。枝谷 (支谷) には少々田地・家屋がございます。
一(略。浜平村を引き合いに出した反論部分であり後述)
一三国山から (『塚の尾根』にいたるまで) 尾根筋 (分水嶺) が武州と上州の境でございますので、伊奈半左衛門 (忠利) 様が山中領と秩父領を御支配のとき、45年前の未年 (明暦元年) に秩父領については残らず御検地をなされましたが、前述の境目まで御検地なされ、山中領へは御検地なさいませんでした。その時に境目に植樹しました杉の木などが (現在も) ございます。
一山中領について、去る丑年 (元禄10年) に御検地を仰せ付けられましたので、前例のとおりに神流川の両岸にまたぎ入り組む田地としてご検地を願い出たところ、従来のとおりに上州甘楽郡と御検地帳を頂戴いたしました。
一このたび神流川を基準として武州・上州の境界が決まりました場合、山林・秣・薪については、将来に渡って川を境界となることで、(両岸の) 御地頭様 (代官) が交代される際、その時々のお考えによって、どのようになってしまうかも予想しがたく存じ上げます。
一武州側へ編入された百姓の取り分は、将来困窮することになります。武州 (になるであろう) 側は、日陰 (北斜面) でございますので、冬に入りましたならば、上州側の日向 (南斜面) で薪を採取しております。万一、川が国界となるようであれば、薪を採取することができなくなります。かつまた、山中領は谷の長さが十里余りある間に、秩父方面への道筋が五箇所ありますが、どれも峠を越える難所でございます。御公用などにより秩父へ往来しましたならば、場所によっては五里・六里、あるいは九里程ございますゆえ、今まで (山中領の代官所に赴く場合) は一日・半日で済みましたことも、二日・三日かかることになると存じ上げます。
一神流川をまたいで (対岸に) 田地を所持しておりますので、川を基準に国境が定まる場合は、国境をまたいで出作 (他領への耕作) をすることになり、御用など諸事において双方の難儀(負担)となります。とりわけ、日陰(の側)の者が薪を取っております一方で、日向(の側)の者が秣を日陰(の側)に付いて取りに来ることもございますので、万一、川を境界とされるようなことになりましたら、薪場から切り離され、また秣場からも切り離されてしまうような村が(川の)双方にございます。総じて山中領のことについては、山の陰(恩恵・庇護)をもちまして生計を立てております。
以上のとおり、昔から分水嶺を基準として武州・上州の境界でございますので、神流川をまたいで山中領の谷全体で秣や薪なども入り会い採取してまいりました。このたび神流川を基準として武州・上州を分けられますと、差し当たって百姓の名寄帳の分離などついても、当面の間、百姓は困窮することになり、何とも嘆かわしく存じ上げます。ご慈悲をもちまして今までのどおりに国境を仰せ付けくださいましたならば、ありがたく存じ上げます、以上。
原文
一今度国絵図御改ニ付御吟味被遊候得共、山中領之内ニ而秩父境之分古絵図ニ落申候由、依之御尋被遊候者法久村ゟ下ハ神流川国境ニ立来候処ニ山中領之儀者峯切ニ国境御座候段、如何様之わけニ而御座候哉と御尋被遊候
一山中領之儀者山嶮岨ニ御座候ニ付、殊外谷せまく神流川も小川ニ而御座候故、谷一同ニ一村之田地・家居・往行道筋共ニ神流川ヲまたぎ入組申候ニ付、武州・信州・上州境三国山ヲ引通シ、山中領柏木村と秩父郡大田部村境塚ノおねと申所迄峯ヲ限、往古ゟ武州・上州境ニ相極候段紛無御座候、依之慶長三戌年伊奈備前守様御検地之節も、秩父と山中領一同ニ御縄御入被成候へ共、峯を限山中領之儀者上州甘楽郡と御水帳ニ被遊候、山中領田地・屋敷之儀ハ、神流川通十里余之内川をまたぎ過半有之、双方百姓所持仕候、ゑだ谷之内ニハ少々田地・家居御座候事
一古絵図々面神流川元ニ川ヲまたぎ秩父領之方浜平村と申所、上州分ニ載り相見へ申候、神流川ヲ限国境ニ立可申儀ニ候ハゝ、右之場所も先年ゟ川切ニ相極り可申儀と奉存候へ共、左様ニ無御座候故、山中領之儀者川をまたぎ国境相立申候と奉存候事
一三国山ヲ引通シ大峯切ニ武州と上州境ニ御座候ニ付、伊奈半左衛門様山中領秩父領御支配之節、四十五年以前未之年秩父領之儀者不残御縄御入被遊候へ共、右之境目迄御検地被遊山中領へハ御縄入不申候、其節境目ニ植候杉之木なと御座候事
一山中領之儀者去ル丑ノ年御検地被 仰付候ニ付、先規之通神流川をまたぎ入くミ候田地なりニ御縄申請、先規之通上州甘楽郡と御水帳頂戴仕候事
一今度神流川ヲ限武州上州境ニ相極候ハゝ、山林馬草薪之儀ニ付、末々川切ニ御地頭様御替り御座候節、其時々ノ御了簡を以如何様ニ可罷成哉も難斗奉存候事
一武州之方へ付候百姓取分末々困窮ニ罷成候、武州之方者日影ニ而御座候ニ付、冬ニ入申候へハ上州方ノ日向ニ而薪取申候、万一川切ニも罷成候節ハ薪取可申様無御座候、且又山中領谷長十里余之内ニ秩父方江之道筋五ヶ所有之、何も峠ヲ越難所ニ御座候、御用等之儀ニ付秩父往行仕候へハ、所ニゟ五里六里、或ハ九里程御座候故、只今迄一日半日ニ相済候儀も、二日三日かゝり可申と奉存候事
一神流川をまたぎ田地所持仕候ニ付、川切ニ国境相立申節ハ、国ヲまたぎ出作仕候義、御用等諸事双方之難儀ニ罷成候、殊ニ薪を日影之者取申候へハ、日向之者馬草ヲ日影ニ而取来候も御座候ニ付、万一川切ニも罷成候節ハ薪場ニはなれ、又馬草場ニはなれ申様成村双方ニ御座候、惣而山中領之儀者山之かげを以渡世送り申候事
右之通往古ゟ峯ヲ限武州・上州境ニ御座候ニ付、神流川ヲまたぎ山中領谷一同ニ馬くさ薪等も入相ニ取来申候、此度神流川ヲ限武州上州と分り申候ハゝ、指当り百姓名寄わけ等之儀ニ付而も、当分も百姓困窮ニ可罷成と奉存、何共歎ケ敷奉存候、御慈悲を以只今迄之通ニ国境被 仰付被下候ハ、難有奉存候、以上
上記のうち、慶長3年(1598) の検地帳に「上州甘楽郡」と書かれていたという主張については疑わしい。前述のとおり、中世的な郷村が解体されるのは元禄年間(1688~1704) に入ってからである。それまで山中領は、一貫して上山・中山・下山の郷単位で把握されており、国郡を冠称して記載された例は見当たらない。彼らの未熟な国郡認識からすれば、「山中領」と書かれていれば「上州甘楽郡」と書かれていることと同義であり、これによる思い込みや記憶のすり替えと解釈するのが妥当だろう。
なお山中領側は、両岸にまたがる浜平村が「古絵図」の「上州分」に載っていることを理由に、秩父郡 5村側の論理 (神流川が国界) に反論している。しかし、浜平村は神流川の源流部に存在する村であり、全体を否定する材料にはなっていない。また、この村の扱いが難しいことは秩父郡 5村側も認知しており、効果は限定的だったのではないだろうか。
元禄13年(1700) 2月: 秩父郡 5村 供述書
元禄13年(1700) 2月の秩父郡 5村の供述書は、『群馬県多野郡誌』(1927/1977) が引用する『神川村郷土誌』(1910) に『元禄十三年二月武州方より代官へ差出したる書状』として所収されている。直接的な史料名は『武蔵国秩父郡秩父領村口書』、奥書には「武州秩父郡川原澤村」「同郡藤倉村」「同郡日尾村」「同郡上吉田村」「同郡中津川村」の各名主の連署があり、宛先は「長根權兵衞」と「下河邊孫介」でそれぞれ「池田新兵衞」「岡田五右衞門」の「御代」となっている。
一武蔵国と上野国の境界 (国界) は、昔から神流川で間違いございません。神流川を境界として、南東川上は秩父郡、川下は児玉郡でございます。
一秩父領と山中領との境界 (領界) は、昔から志賀坂峠・小越峠・坂丸峠・土坂峠でございます。
一以前、秩父領と山中領はともに、伊奈半十郎様や伊奈左門様が、その後は松田又兵衛様と間瀬吉太夫様が代官を引き継ぎ支配していました。その後、間瀬吉太夫様の御代となり、松田又兵衛様おひとりが秩父領を支配することになりました。その際、山中領は他へ引き渡され、それ以後、段階的に秩父領と山中領は別々の代官所 (の支配)となりました。
武蔵国秩父郡山中領村々
浜平 (この村は神流川を挟み北南に百姓の家屋がございます) 中越・田平・檜平・門川・乙知沢・川和・仁羽・奥名郷・野栗沢・野栗 (神道裁許行がございます)・相切・三津川・瀬林・妙見・間物・上小越・下小越・高谷木・青梨・小平・森戸
武蔵國児玉郡山中領村々
戸野村 (神道裁許状ならびに妙見社棟札がございます)・飯島・麻生・大寄
一この 26村のうち、野栗権現の祠官・黒沢石見守が裁許状 (神道裁許状) を所持しておりますので、その写しを取りました。その裁許状には、「武州秩父郡山中野栗権現の祠官・黒沢石見守』とございます。そこで、それら写しを差し上げますが、棟札については、焼失してしまい現在は存在しないと (黒沢石見守は) 申しております。
一この 26村のうち、戸野村妙見の祠官・宮前和泉守が裁許状を所持しておりますが、その裁許状には、「武州児玉郡山中妙見祠官・宮前和泉守」とあります。同所妙見社にも「武州小玉郡苅治郷殿村」とございます。そこで、それら写しを差し上げます。
一この 26村ではない、神流川を隔てた上野国の相原村丹生明神の祠官が裁許状を所持しておりますが、その裁許状には『上州甘楽郡相原村丹生明神祠官・宮前伊勢様』とございます。そこで、その写しを差し上げます。
一このとおりの事実がございます以上は、上州と武州の境界が神流川であることは間違いないものと存じ上げます。なお、上記の原本は、それぞれの神職たちが所持しております。
一武州の鎮守である妙見本社 (現在の秩父神社) は、秩父郡大宮町にございます。この妙見本社を勧請した神社は武州の各地にありますが、先の 26村の内にも妙見社が 2箇所ございます。
一秩父郡榛沢領・秩父郡山中領・榛沢郡秩父領・児玉郡山中領と呼ぶことがございます。先の 26村は、秩父郡のうちの山中領と児玉郡のうちの山中領と、昔から言い伝えられております。
一山中領と申し上げますのは、武蔵国秩父郡・同国児玉郡・上野国甘楽郡の、これら両国 3郡にまたがる領名でございます。
一神流川については、川上の三国峠から川下の烏川合流地点まで、上州・武州の境界であることに間違いありません。それにもかかわらず、山中領の範囲だけ武州側の分水嶺が国境であると山中領より申し立ての事柄は、考え違いと存じ上げます。ただし、三国峠は上州・信州の境界であり、近隣の国々では周知のことでございます。
一中津川村の者がいいますには、武州・上州は神流川が境界 (国境) であると、昔から言い伝えられております。秩父領と山中領の境界は赤岩峠でございます。以上の事柄は、お尋ねがございましたので、国境の事情をありのままに申し上げた次第であり、少しの相違もございません。後日の証拠とするため、この供述書に署名捺印の上、差し上げます、以上。
原文
一武藏國と上野國境目往古より神名川國境に紛無御座候神名川を限り南東川上は秩父郡川下は兒玉郡にて御座候
一秩父領と山中領との境往古より志賀坂峠小越峠坂丸峠土坂峠領境目に御座候
一先年秩父領山中領共に伊奈半十郎様伊奈左門様其以後 松田又兵衛様 間瀬吉太夫様 相続代官其後間瀬吉太夫様御代被成松田又兵衛様御壱人にて秩父領の御支配被成其節山中領は外へ相渡り其以後段々秩父領山中領別々の代官所に罷成候
武藏國秩父郡山中領村々
濱平 (此村神名川を挾み北南に百姓家御座候) 中越・田平・檜平・門川・乙知澤・川和・仁羽・奧名鄕・野栗澤・野栗 (祠官裁許狀御座候)・相切・三津川・瀨林・妙見・間物・上小越・下小越・高谷木・靑梨・小平・森戶
武藏國兒玉郡山中領村々
戶野村 (祠官裁許狀並に妙見社棟札御座候)・飯島・麻生・大寄
一右貳拾六ケ村の内野栗權現祠官黑澤石見守裁許狀所持仕候ニ付寫取申候右裁許狀武州秩父郡山中野栗權現の祠官黑澤石見守と御座候則寫差上申候棟札の儀は燒失仕無御座候由申候
一右貳拾六ケ村の内戶野村妙見祠官宮前和泉守裁許狀所持仕候右裁許狀に武州兒玉郡山中妙見祠官宮前和泉守と御座候同所妙見社棟札にも武州小玉郡苅治鄕殿村と御座候則寫指上申候
一右貳拾六ケ村の外神名川を隔て上野の內相原村丹生明神の祠官裁許狀所持仕候右裁許狀には上州甘樂郡相原村丹生明神祠官宮前伊勢樣と御座候則寫差上申候
一右の通りの事柄御座候上は上州と武州境神名川に紛無御座奉存候右本書社人共所持仕候
一武州鎭守妙見本社秩父郡大宮□に御座候右妙見勸請致所武州の內所々に御座候右貳拾六ケ所の內にも妙見の社二ケ所御座候
一秩父郡榛澤領秩父郡山中領榛澤郡秩父領兒玉郡山中領と申事御座候右の貳拾六ケ村秩父郡の內山中領兒玉郡の內山中領と往古より申傳へ候
一山中領と申候は武藏國秩父郡同國兒玉郡上野國甘羅郡兩國三郡領名山中領と申候
一神名川の儀川上三國峠より川下烏川落合迄上州武州境に紛無御座候處山中領の內計り武州分の峯通國境の由此度山中領より申上候儀心得違と奉存候但三國峠と申候は上州信州境目にて近國に隱無御座候
一中津川村の者申候は武州上州境の儀神名川限り國境往古より申傳候秩父領と山中領は赤岩□境目に御座候右者御尋ねに付國境のわけ有體に申上候少も相違無御座候爲後日口書判形仕差上申候以上
元禄13年(1700) 2月: 山中領 供述書
元禄13年(1700) 2月の山中領の供述書は、『山中領村々上州・武州国境画定につき願状』として『群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1』(1977) に所収されている※2。奥書には「上野国甘楽郡山中領之内上山郷」と国郡を明示した上で、その「楢原村」の「名主」「長百姓」の「伊右衛門」「六郎右衛門」を筆頭に各郷各村の連署があり、宛先は『武蔵国秩父郡秩父領村口書』と同じである。
一(略、『山中領村々上州・武州国境論争申立書』と内容同じ)。
一(略、『秩父郡大田部村』が『秩父領大田部村』である以外、『山中領村々上州・武州国境論争申立書』と内容同じ)。
一(略、『山中領村々上州・武州国境論争申立書』と内容同じ)。
一三国山から志賀坂峠・小越峠・坂丸峠・杉之峠へ、土坂峠、塚ノ尾根までをつないだ、尾根筋 (分水嶺) を基準として武州と上州との境界でございますことから、伊奈半左衛門 (忠利) 様が山中領・秩父領を御支配のとき、古く 6年以上前の未年から子年まで (寛文7年~寛文12年/延宝元年) の6年間に、秩父領は残らず御検地がなされましたが、山中領へは御検地なされませんでした。そのとき境界に秩父方から植樹した杉の木が今もございます。
一山中領については、去る戌・丑の両年 (元禄3年・同10年) に御検地を仰せ付けられました。(その際) 前述のとおり神流川またいで入り組んだ田地として申請し、前例のとおり上州甘楽郡として御検地帳を頂戴いたしました。伊奈備前守様が山中領の下山・中山・上山を御検地なさいました古い御検地帳については、依田五兵衛様・下嶋甚右衛門様・池田新兵衛様がその (元禄3年・同10年の) 御検地のときに回収なさいました。
一生利村の戸野妙見の棟札に「武州児玉郡」とあるとのことですが、全体的に文字が不鮮明で判読不能でございます。ついては、右の棟札の写しを差し上げます。
一生利村にある戸野妙見の神職である和泉という者は、貞享4年(1687) に武州秩父領大宮村の宮本方から紹介状を取得して上京し、吉田様から御裁許状 (神道裁許状) をいただきました。(その神道裁許状に)「武州児玉郡山中下山」と記されてございましたが、うっかり (確認せずに、そのまま) 頂戴し、帰郷しました。その後、国郡ともに間違っていることに気づきましたけれども、再度また京都へ赴くことは難しいため、そのままにしていたと、和泉はいっております。よって、その御裁許状の写し、ならびに和泉の供述書をともに提出いたします。
一青梨子村の熊野権現の鰐口に刻まれた文字は読み取れませんが、写しを提出いたします。
一青梨子村の薬師堂に古く 17年以上前の天正12年(1584) の棟札に、「大日本国上野髪流川之郡青梨子郷」とございますので、写しを提出いたします。
一小平村の法仏大明神にある寛永14年(1637) の棟札に、「西上野甘楽郡野栗広小平村」と書いてございますので、写しを提出いたします。
一伊奈左門 (忠利) 様が山中領を御支配のとき、新羽村の兵庫家に抱えの者 3人を御追放された際の書付に、「上州山中領新羽村」とお書きになられましたので、写しを提出いたします。
一新羽村にある野栗権現の神職である石見という者は、元禄3年(1690) に武州秩父領大宮の近江守方から紹介状を取得して京都へ持参し、吉田様の御裁許状 (神道裁許状) を頂戴しましたとき、「武州秩父郡野栗」とお書きになったものをいただきましたので、「上州甘楽郡でございます」との旨を再三抗議申し上げましたけれども、紹介状のとおりに (『武州秩父郡野栗』と書いた) 御裁許状 (神道裁許状) をくださいました。仕方がなく (そのまま) 頂戴して帰郷しましたとのこと、石見がいっております。よって、御裁許状の写し、ならびに石見の供述書を提出いたします。
一新羽村の野栗権現の神職である和泉は、寛文2年(1662) に解明しました際、伊勢御師である三日市太夫次郎が書きましたものに、「西上野甘楽郡山中上山野栗」とございますので、写しを提出いたします。
一元禄3年(1690) に、楢原村にある中越天神の神職・伊勢守方へ吉田様からいただきました御裁許状 (御裁許状) には、「上野国甘楽郡上山郷之内中越」とございますので、写しを提出いたします。
一(略、『山中領村々上州・武州国境論争申立書』と内容同じ)。
一(略、『八里』が『八里九里』である以外、『山中領村々上州・武州国境論争申立書』と内容同じ)。
一神流川をまたぎ (対岸に) 田地を所持しております。そのため、川を基準として国境が定まると、国をまたいで耕作に出向くことになり、御公用などの諸事において双方で支障が生じてしまいます。とりわけ薪を日影 (北向き斜面、南岸) の者が採取すれば、日向 (南向き斜面、北岸) の者が秣を日影で採取することもございます。そのため、万一にも川を境界とすることになりますときは、薪場に立ち入れなくなったり、あるいは秣場に立ち入れなくなったりすることが双方の村に生じてしまいます。総じて山中領については、山の傾斜地を利用することで日々の生計を立てているのです。
以上のとおり、昔から分水嶺を基準として武州・上州の境界でございますので、神流川をまたいで山中領の谷全体で秣や薪なども入会地として採取してまいりました。このたび神流川を基準として武州・上州を分けられますと、差し当たって百姓の名寄帳の分離などついても、当面の間、百姓は困窮することになり、とりわけ山林等そのほか御公用に向かう諸事のことに付きましては、将来にわたって百姓は困窮することになるかと存じあげます。なにぶんにもよくお調べいただいた上で、前例のとおりに仰せ付けられくださいましたならば、ありがたく存じ上げます、以上。
原文
一今度国絵図御改ニ付御吟味被遊候得共、山中領之内ニ而秩父境之分古絵図ニ落申候由、依之御尋被遊候者、法久村ゟ下ハ神流川国境ニ立来候処ニ山中領之儀者峯切ニ国境ニ御座候段、如何様之わけニ而御座候哉と御尋被遊候
一山中領之儀者山嶮岨ニ御座候ニ付、殊外谷せまく神流川も小川ニ御座候故、谷一同ニ一村之田地・家居・往行道筋共ニ神流川ヲまたき入組申候ニ付、武州・信州・上州境三国山ヲ引通シ山中領柏木村と秩父領大田部村境塚之尾根と申所迄峰ヲ限、往古ゟ武州・上州境ニ相極候段紛無御座候、依之慶長三戌ノ年伊奈備前守様御検地之節も、秩父と山中領一同ニ御縄御入被成候得共、峯ヲ限山中領之儀者上州甘楽郡と御水帳ニ被遊候、山中領田地・屋敷之儀者神流川通十里余之内川ヲまたぎ過半有之双方百姓所持仕候、ゑた谷之内ニハ少々田地・家居御座候
一古絵図々面ニ神流川元ニ而川ヲまたぎ秩父領之方浜平村と申所上州分ニ載り相見へ申候、神流川ヲ限国境ニ立可申儀ニ候者右之場所も先年ゟ川切ニ相極可申儀と奉存候へ共左様ニ無御座候故、山中領之儀者川ヲまたぎ国境相立候と奉存候
一三国山ゟ志賀坂峠・小越峠・坂丸峠・杉之峠ヘ土坂峠塚ノ尾根迄引通シ大峯ヲ限武州と上州と境ニ御座候ニ付、伊奈半左衛門様山中領秩父領御支配之節、早六年以前未ノ年ゟ子年迄六年之内秩父領者不残御縄御入被遊候へ共山中領へハ御縄入不申候、其節境目ニ秩父方ゟ植置候杉ノ木に今御座候
一山中領之儀者去ル戌丑両年ニ御検地被 仰付、前之通神流川ヲまたぎ入組候田地なりニ御縄申請、先規之通上州甘楽郡と御水帳頂戴仕候、伊奈備前守様山中領下山・中山・上山御検地被遊候、古御水帳之儀者依田五兵衛様・下嶋甚右衛門様・池田新兵衛様右御検地之時分御取上ヶ被遊候
一生利村之内戸野妙見之棟札ニ武州児玉郡と御座候、惣而文字不分明ニ御座候右棟札写差上ヶ申候
一生利村之内戸野妙見之社人和泉儀、貞享四卯年武州秩父領大宮村宮本方ゟ添状取上京仕、吉田様ゟ御裁許状被下候ニ武州児玉郡山中下山と有之候へ共、無何心頂戴仕罷帰候、以後国郡共ニ相違仕候儀心付候へ共、又々京都へ罷上り候儀難成候故、其通ニ存罷在候由和泉申候、則右之御裁許状写并和泉口上書共ニ差上り申候
一青梨子村熊野権現鰐口之切付文字見へ兼申候へ共写差上ヶ申候
一青梨子村薬師堂ニ古十七年以前天正十二年之棟札ニ、大日本国上野髪流川之郡青梨子郷与御座候写差上ヶ申候
一小平村法仏大明神ニ寛永十四年之棟札ニ、西上野甘楽郡野栗広小平村と書付御座候写差上ヶ申候
一伊奈左門様山中領御支配之節、新羽村兵庫家抱三人御追放之御書付ニ、上州山中領新羽村と御書記被成候写差上ヶ申候
一新羽村之内野栗権現之社人石見儀、元禄三午ノ年武州秩父領大宮近江守方ゟ之添状ヲ取、京都へ持参仕吉田様御裁許状頂戴仕候節、武州秩父郡野栗と御書出シ被下候ニ付、上州甘楽郡ニ而御座候段再三御断申上候得共、添状之通御裁許状被下候ニ付、無是非頂戴罷帰候由石見申候、則御裁許状之写再石見口上書差上申候
一新羽村之内野栗権現之社人和泉、寛文二年改名仕候節、伊勢御師三日市太夫次郎書出候ニ、西上野甘楽郡山中上山野栗と御座候写差上ヶ申候
一元禄三午ノ年楢原村之内中越天神之社人伊勢守方へ吉田様ゟ被下候御裁許状ニ、上野国甘楽郡上山郷之内中越と御座候写差上ケ申候
一此度神流川を限武州上州境ニ相極候ハゝ山林馬草薪之儀ニ付、末々川切ニ御地頭様御替り御座候節、其時々之御了簡を以如何様ニ可罷成哉も難斗奉存候
一武蔵方ニ付候百姓取分末々困窮ニ罷成候、武州方ハ日影ニ而御座候ニ付、冬ニ入候へハ上州方之日向ニ而薪取申候、万一川切ニも罷成候節ハ薪取可申様無御座候、且又山中領谷長十里余之内ニ秩父方へ之道筋五ヶ所有之何も峠ヲ越難所ニ御座候、御用等之儀ニ付秩父往行仕候へハ所ニゟ五里六里或ハ八九里程御座候処、只今迄一日半日ニ相済候儀も二日三日かゝり可申と奉存候
一神流川ヲまたぎ田地所持仕候ニ付川切ニ国境相立申節ハ、国ヲまたぎ出作仕候儀、御用等諸事双方之難儀ニ罷成候、殊ニ薪ヲ日影之者取申候へハ日向之者馬くさを日影ニ而取来候も御座候ニ付、万一川切ニも罷成候節ハ、薪場ニはなれ又馬草場ニはなれ申処成村双方ニ御座候、惣而山中領之儀者山之がけを以渡世送り申候
右之通往古ゟ峯ヲ限武州・上州境ニ而御座候ニ付、神流川ヲまたぎ山中領谷一同ニ馬草薪等も入相ニ取来申候、此度神流川を限武州・上州と分ケ申候ハゝ、指当百姓名寄わけ等之儀ニ付而も当分ゟ百姓困窮ニ罷成、殊山林等其外御用ニ向諸事之儀ニ付、末々百姓困窮ニ可罷成と奉存候、何分ニも御詮儀之上先規之通ニ被 仰付被下候者難有可奉存候、以上
この文書は『山中領村々上州・武州国境論争申立書』の内容に、『武蔵国秩父郡秩父領村口書』に盛り込まれる事柄への見解が追加された構成となっている。とはいえ、神道裁許状については反論できないばかりか、相手の主張を裏付けするような事実を出してしまう失敗まで犯している。そのほか並べ立てた証拠類も、どれも神道裁許状に対抗する強度を有しているとは考えにくい。国郡認識に相当の混乱があった事実はうかがい知れる。
元禄15年(1702) 6月: 山中領 供述書
元禄15年(1702) 6月の山中領の供述書は、『山中領村々上州・武州国境紛争につき故障口上書』として『群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1』(1977) に所収されている※3。同年 8月の裁許に対する最終的な供述書である。
一山中領の件ですが、古来上野国甘楽郡上山郷・中山郷・下山郷と 3箇村 (郷) であり、日向 (南向き斜面、北岸)と日影 (北向き斜面、南岸) とをあわせて (それぞれ) ひとつの郷、ひとつの村でございます。このたび神流川が国境となり、日影 (南岸) の側が武蔵国へとなれば、ひとつの村の田畑や家屋、高辻 (郷帳) が分かれてしまいます。その結果、百姓の数がこれまで 50軒あったところが、30軒と20軒に分かれ、あるいは (場所によっては) 5軒と45軒と分かれるようになってしまいます。そうなれば、名主や組頭など (の村役人) も (それぞれ) 新しく設けなければならず、小村で御公用の勤めを果たすことになります。5軒や 7軒で 1村というようなことになりますと、将来には退転に追い込まれてしまうに違いないと、難儀に存じております。
一従来のとおり、川をまたいでいても近接しているところをもってひとつの村とされ、名主や組頭なども組下 (の扱い) は以前のとおりですので、古くからひとつの郷の中の名主や組頭が集まり相談のうえで取り決め、御年貢や諸役・夫役・伝馬などにいたるまでともに勤め、争いなどが起きましたときも、ひとつの郷の名主や組頭が内々に解決するようにしてきました。しかしながら、上山郷より中山郷までにおよぶような争いは、「郷が違う」といい立てて内々の話し合いでは解決できないことが数多くごさいました。そのようなところ、神流川を基準に国が分かれることになりましたら、争いなどを内々に解説することができず、御公儀様へ (幕府へ直接) 申し立てることが数多く発生し、日向 (南斜面)・日影 (北斜面) の百姓が、将来に渡って困窮することになるだろうと存じ上げる次第です。
一上山郷・中山郷・下山郷に住居だけを所持しております小百姓 (小作人) については、神流川をまたいで両岸に入り組んだ小作地で耕作させております。(そのような関係性において) これまでの慣例に基づき薪・秣を採取し生計を立ててきました。これは山が荒れますことから地主は臨まないことでありますが、ひとつの郷、ひとつの村であるゆえ、双方の名主、おとな、百姓が直接相談することでそのようにしてきました。もし神流川を境界として国を分けましたならば、川をまたいだ小作地を耕作させることができなくなるように存じ上げます。そうなれば、生活できなる百姓が日向 (南斜面)・日影 (北斜面) で発生してしまうだろうと存じ上げる次第です。
一神流川をまたいで (両岸で) 田地が入り組んだ、ひとつの郷、ひとつの村でございます。そのため、御年貢 (を収めるの) に行き詰まりました百姓は、川をまたいだ (対岸の) 田地を質に入れ、御年貢を御上納してきました。また、これも小作田と同じように (慣習によって) 薪・秣を採取させておりました。(そのような関係性ではありますが) たとえ一時的なことであっても、他村へ質として入れられてしまうことは、その場所の者が承知しかねております。とりわけ (ただでさえそんな状態であるのに、神流川が国界となって) 国をまたぐようなことになれば、質に入れておくことができなくなり、日向 (北斜面) も日影 (北斜面) も百姓は困窮するようになってしまうと存じ上げる次第です。
一秣や薪の入会のことは、神流川をまたいで日向 (南向き斜面、北岸) 方の万場村へ日影 (北向き斜面、南岸) 方の森戸村が証文によって入っております。日影方の小平村から日向方の船子村内、および椹森・平原村内の持倉へ証文によって入っております。日向方の乙母村へ日影方の川和村から証文によって入っております。右のほかに、神流川をまたいで日向・日影の村々の百姓は一郷一村でございますので、証文は無く、互いの融通によって、薪・秣、または鍛冶炭を焼く (ための木)・素蕨・木の実を入会で採取してまいりました。内証のこととして末永く続いてきたことであり、一時的な取り決めによって決めるような方法はございません。去る戌年 (元禄3年) の田五兵衛様・下嶋甚右衛門様・池田新兵衛様による御検地の際、山林入会の場所を確定して検地帳にお載せになる旨を仰せ渡されましたので、内々に吟味いたしましたところ、ことごとく紛争になりそうな状況でございました。そこで (その旨を) 改めて申し上げましたら、これまでどおりのままとなされました。川を境界として国境が定まりますならば、村々から薪場が切り離され、あるいは秣場が切り離されてしまう村が日向・日影の双方にでき、将来にわたって百姓の困窮を引き起こすことになります。
一山中領の谷については山が険しく、長さは 10里余の間に家屋がございます。畑についても岩山の間の散在しており、麦を作付する畑はわずかであることから、切畑 (焼き畑) が過半であり、作物の出来不出来に依存して生活しております。このような生活がなりたたくなってしまいます。
一切畑 (焼き畑) については、7、8年に一度ずつ切り替え、その跡地は日向 (南斜面) と日影 (北斜面) の百姓が互いの話し合いによって入り相い、秣や薪を採取してきました。神流川が国境と仰せ付けられますならば、これもまた百姓は困難になってしまいます。
一山中領については、神流川を基準として国境になりましたなら、日向 (南斜面) も日影 (北斜面) もともに武州・上州へとまたぐ出作の (武州から上州へ、あるいは上州から武州へという出作形態の) 田地が村々にたいへん多くできてしまいます。また、いま現在まで名主 1人へ御年貢や諸役を上納しておりましたところ、今後は別々の名主 2人や 3人のそれぞれへ上納するようになってしまいます。その上、往来の道や橋をひとつの村内のこととしていま現在までつくって (維持して) きました道のりは、川が境界となって分かれてしまえば過不足ができてしまい、(境界となった川を渡らずに済むよう新たに) 道をつくる場所がたいへん多くなった百姓は、日向も日影もともに困惑してしまいます。
一百姓が家を建てるときには、ひとつの村の百姓が互いに竹・木・茅・縄・藤などを持ち寄り、労働力を出してまいりました。ところが、神流川を境界として国が分かれるようなことがあれば、このようなこともできなくなり、日向 (南斜面) や日影 (北斜面) の小さな村の百姓は、とりわけ困窮することになると存じ上げます。
一ひとつの村の高辻 (郷帳) や家屋が川を境界として分かれ、秩父領になりましたならば、日影 (北斜面・秩父領) の百姓にとって、秩父領 (の代官所) への道程は、ところによっては 5里、6里、あるいは 8里、9里もあり、いずれも峠を越える難所でございます。そのため、御公儀 (幕府) の公用などについても遅れが生じることになり、小さな村の百姓は困窮し難儀するものと存じ上げます。
一去る戌年 (元禄3年)・丑年 (同10年) に、依田五兵衛様・下嶋甚右衛門様・池田新兵衛様により御検地が実施され、古い検地帳のとおりに日向 (南向き斜面、北岸)・日影 (北向き斜面、南岸) ともに「上州甘楽郡」として検地を申請いたしました。しかし、このたび川を境界として検地帳を分けることになりますと、差し当たって、入り組んでいる大部分の名寄帳を分けることになりますので、費用がかかり、当面の間、百姓が困窮することになります。
一三国山の峰より東は「塚の尾根」という山まで尾根筋 (分水嶺) をつなぎ、塚の尾根より白岩までが古くからの武州と上州の境界にございます。
一三国山の峰については、武州・上州・信州三箇国の境であることから三国山と呼んできました。神流川の源流部は「蟻か峠」という、信州相木村との境界の山でございます。三国山とは 1里余西の方にございます。
以上のとおり、このたびお尋ねのことについてお答え申し上げますから、御威光もって、将来に渡って滞りがないように (裁定を) 仰せ付けくださいましたとしても、川を国界になさりましたならば、内証のことから小百姓のことまで将来にわたって難儀する事柄が数多くございますので、従来のとおりにするよう仰せ付けくださいますよう、お願いも申し上げます、以上。
原文
一山中領之儀、古来上野国甘楽郡上山郷・中山郷・下山郷と三ケ村ニ而、日向日影共ニ壱郷一村ニ而御座候、此度神流川国境ニ罷成、日影之方武蔵之国江付申候得者、壱村之田地家居高辻訳り申候ニ付、百姓数只今迄五拾軒有之所三拾軒弐拾軒と訳り、或者五軒四拾五軒と訳り候様ニ罷成候得者、名主組頭等茂新規ニ出来、小村ニ而御 公用相勤、五軒七軒壱村ニ罷成候所者、末々退転ニ及可申と難儀ニ奉存候御事
一先規之通川をまたき候而茂最寄次第ニ壱村ニ被遊、名主組頭等茂組下前々之通ニ候故、古来壱郷之内之名主組頭出合相談之上相調、御年貢諸役夫伝馬等迄相勤申、出入等出来仕候節茂壱郷之名主組頭相済シ候様ニ仕候得共、上山郷ゟ中山郷迄取組候出入者、郷違候と申内証ニ而済兼候儀共数多御座候、然所ニ神流川切ニ国訳り申候ハゝ、出入等内証ニ而済兼、御公儀様江申上候儀数多出来、日向日影之百姓末々困窮ニ可罷成と奉存候御事
一上山郷・中山郷・下山郷ニ居屋鋪斗所持仕候小百姓者、神流川をまたき小作田地入組為作申候ニ付、其由緒を以薪秣取渡世送り申候、是者山荒申候故地主者望不申事ニ候得共、壱郷壱村故双方名主乙名百姓相談相対を以左様ニ仕来申候、若神流川切ニ国訳り申候ハゝ、川をまたき小作田地為作申間鋪候様ニ奉存候、然者渡世ニはなれ候百姓日向日影ニ出来可仕と奉存候御事
一神流川をまたき田地入組一郷壱村之儀ニ御座候ニ付、御年貢ニ指詰り申候百姓者、川をまたき田地しちニ入置、御年貢御上納仕来候、是又小作田地同前ニ薪秣為取申候ニ付、当分迚茂他村へしち物ニ為入候儀者、其所之者同心仕兼候、殊ニ国をまたき候而者しち地指置候儀不自由ニ罷成、日向日影百姓困窮ニ可罷成と奉存候御事
一秣薪入相之事、神流川をまたき日向之方万場村日影之方森戸村証文ニ而入相申候、日影之方小平村ゟ日向之方船子村之内、椹森平原村之内持倉江証文ニ而入申候、日向之方乙母村江、日影之方川和村ゟ証文ニ而入申候、右之外神流川をまたき日向日影村々百姓壱郷壱村ニ而御座候得者、証文無御座互ニ心入ニ而、薪秣又ハかぢ炭を焼くすわらび・木之実入相取来申候、内証ニ而永々之儀、当分和談ニ而相極候致方無御座候、去戌年依田五兵衛様・下嶋甚右衛門様・池田新兵衛様御検地之節、山林入会之場所御究御水帳ニ御載可被成由被 仰渡候ニ付、内証吟味仕候所ニ、悉ク出入出来可仕様子ニ御座候ニ付、御改申上其通ニ被差置候、川切ニ国境立申候ハゝ、村々ゟ薪場ニはなれ、又者秣場ニはなれ申候村日向日影出来、末々百姓困窮ニ罷成候御事
一山中領之谷者山嶮岨ニ而、長サ拾里余之内ニ家居御座候、畑之儀茂岩山之合ニ所々ニ御座候而、麦仕付候畑少分ニ御座候ニ付、切代畑過半有之、作柄斗ニ而渡世送候儀不罷成候御事
一切畑之儀七、八年ニ壱度宛切代、其跡者日向日影之百姓相対ニ而入相秣薪取来申候、神流川限り国境ニ被仰付候ハゝ、是又百姓難儀ニ罷成候御事
一山中領之儀、神流川切り国境ニ罷成候者、日向日影共ニ武州上州江またき出作田地村々ニ大分ニ出来、只今迄名主壱人江御年貢諸役上納仕候処ニ、向後者名主二人三人之方江相勤候様に罷成、其上往行之道橋壱村切りニ只今迄作り来り候道法、川切りニ訳り候得者過不足出来仕候、道作り場多分之百姓ニ罷成候得者、日向日影共ニ迷惑仕候御事
一百姓家作り申候節者、壱村之百姓相互ニ竹木・かや・なわ・ふじ等持寄、人足を出し家作り来り申候処ニ、神流川切り国訳り申候者、ケ様之儀茂不自由ニ可罷成候、然者日向日影小村之百姓取分ケ家作り申候ニ、迷惑可仕と奉存候御事
一壱村之高辻家居川切に訳り、秩父領ニ罷成候得者、日影之百姓秩父領江道法所ニゟ五里六里或者八九里、何茂峠を越難所ニ御座候ニ付、御 公儀様御用等之儀茂遅滞ニ罷成、小村之百姓困窮難儀ニ奉存候御事
一去戌丑年依田五兵衛様・下嶋甚右衛門様・池田新兵衛様御検地被遊、古御水帳之通り日向日影共ニ上州甘楽郡と御縄申請候所ニ、此度川切ニ御水帳訳り申候得者、差当り入組候大分之名寄帳訳り申候得者、失費懸り当分百姓困窮ニ罷成候御事
一三国山之峯ゟ東者塚之おねと申山迄大峯引通シ、塚之おねゟ白岩限リ古来ゟ武州上州境ニ御座候御事
一三国山之儀者、武州・上州・信州三ケ国之境故三国山と申来候、神流川水元者蟻か峠と申、信州相木村境之山ニ而御座候、三国山とハ壱里之余西ノ方ニ而御座候御事
右之通此度御尋ニ付申上候段、御威光を以末々不被滞様ニ被仰付被下候共、川切ニ罷成候得者、内証之儀者小百姓迄永々難儀仕事共数多御座候間、先規之通被仰付被下候様ニ奉願候、以上
最終的な裁許を前に、秩父郡 5村は、実質的に訴えを取り下げていた。このため、本文書では、裁許状等についての記述は一掃され、元禄3年(1690) と同10年(1697) の検地で「上州甘楽郡」として把握されたこと以外は、国界が神流川となった場合の具体的な弊害を記載することに終始している。
元禄15年(1702) 8月: 裁許覚
元禄15年(1702) 8月27日の裁許覚は、『山中領村々上州・武州国境論争裁許覚』として『群馬県史 資料編9 近世1 西毛地域1』(1977) に所収されている※4。同年 8月18日に下された裁許についての旅程を含む覚書である (ただし旅程部分は略)。
一上州・武州国境について (裁許を) 申し渡すので、当月 14日に御評定所へ出頭するようにと、御代官の野田三郎左衛門様から去る 6日に連絡がありました。そのため、万場村の八右衛門、神原村の角太夫・兵蔵、柏木村の庄右衛門、生利村の佐二右衛門・伝左衛門、黒田村の半兵衛、小平村の与右衛門、魚尾村の武左衛門、平原村の長左衛門、尾附村の平太夫、野栗の何右衛門、野栗沢村の権三郎、川和村の与五左衛門、乙父村の勝右衛門は、去る 9日に発って江戸へ上り、同 12日に久貝因幡守様のもとへ罷り出て到着した旨が (御評定所の) 帳簿に記録され、また秩父領からも江戸へ出てきている旨が(一同に)公開されました。ところが、14日の御評定所での審理が延期となったため、「来る18日に荻原近江守様の屋敷で行われる内々の協議へ、山中領の者たちを連れて出席するように」と、久貝因幡守様から御代官へ指示がありました。そこで、18日にその内々の協議へ罷り出ましたところ、秩父領からも出席があり、地方奉行の方々が残らず同席される中で、久貝因幡守様より次のように申し渡されました。「武州・上州の国境について、検使として瀧野十右衛門と高室平十郎を派遣した。その際、あわせて秩父と山中領の国境も検分させたところ、国境は尾根筋と見受けられた。特に秩父方からは、尾根筋を国境と定めても何ら差し支えはないという旨の口上書が、検使の両名に提出されている。本当にその通りであるか (念押しとして) 秩父方へ確認したところ、(やはり) 何の問題もないとの回答があった。山中領側からは、神流川を境界とされては困窮する旨の主張があり、ことに伊奈備前守による検地でも上州の高辻に含まれている。したがって、この度の国境は尾根筋と定めるので、そのように心得よ」との仰せ渡しがあり、ただちに双方から請証文を提出して、帰郷いたしました。
原文
一上州・武州国境被 仰付御座候間、当月十四日之御評定所江罷出候様に与御代官野田三郎左衛門様去ル六日ニ被 仰遣候ニ付、万場村八右衛門・神原村角太夫・兵蔵・柏木村庄右衛門・生利村佐二右衛門・伝左衛門・黒田村半兵衛・小平村与右衛門・魚尾村武左衛門・平原村長左衛門・尾附村平太夫・野栗何右衛門・野栗沢村権三郎・川和村与五左衛門・乙父村勝右衛門、去ル九日ニ罷立出府致、久貝因幡守様江同十二日ニ罷出着仕候段御帳ニ戴リ、秩父領ゟも出府致候由御披露申上候所に、十四日之御評定所相延候間、来ル十八日ニ荻原近江守様御宅御内寄合江山中領之者共召連御出候様ニ与久貝因幡守様ヨリ御代官江被 仰遣候ニ付、十八日ニ御内寄合江罷出申候、則秩父領ヨリも出申候得者、地方御奉行様不残御連座ニ而久貝因幡守様被 仰付候者、武州・上州国境之儀為御検使瀧野十右衛門・高室平十郎被 遣候処ニ、其道次而秩父与山中領国境為見申候所ニ国境之儀峰切ニ見申候、殊ニ秩父方ヨリ峰切ニ国境相立候而茂何ニ而もさわり無之由御検使両人江口上書致候、弥左様に御座候哉与秩父江御尋候所に何ニ而もさわり無御座候由秩父方ヨリ申上候得者、因幡守様被 仰付候者、秩父ヨリハさわりも無之由、山中領ヨリハ神流川切ニ境相立候而者難儀致候旨、殊ニ伊奈備前守検地ニも上州之高辻江入申候ニ付、此度国境峰切ニ被 仰付候間、左様ニ心得申候様ニと被 仰渡、則双方ヨリ証文差上申罷帰候
注釈
更新履歴
内容
:
- 全体を見直した。
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として新規作成。












