18. 富士見町東部
甲斐・信濃 (甲州・信州) の国界は戦国期から織豊期にかけて変動した。 信濃国界): 天正11年(1583)

18.1. 変動の要因と時期: 天正11年(1583)
天文10年(1541) 6月、武田晴信 (信玄) は父・信虎を追放し、天文11年(1542) 6月に信州 諏訪へ侵攻した。そして 7月には諏訪頼重を滅ぼしたのち、高遠頼継も後退させて支配下においた。さらに天文14年(1544) には高遠氏も降伏させ、天文17年(1548) までにほかの諸氏も排除した※1。この結果、諏訪は武田氏 (信玄・勝頼) の領国に組み込まれ、その後 30年以上にわたってこの体制が続くことになる。しかし元亀4年(1573) 三河からの帰路で信玄が病死し、天正3年(1575) 長篠の戦いで勝頼は大敗して天正10年(1582) 3月までに武田氏は滅びた。
ここで甲斐・信濃の両国は一時的に織田信長の支配下に入る。しかし 6月に本能寺の変が起こると、在地の旧勢力や徳川家康・北条氏直ら周辺の有力大名の動きが活発となり、諏訪では諏訪頼忠 (頼重の従兄弟) が旧臣らに擁立された。頼忠は徳川と北条の間で揺れ動いたものの、最終的には家康の配下となって天正11年(1583) 諏訪を安堵された※1。具体的には、天正11年(1583) 3月28日付『徳川家康宛行状』※2によって諏訪頼忠は「信州諏方郡」を宛てがわれた。これを受けた天正12年(1584) 10月14日付『諏訪頼忠宛行状』※3で頼忠は平井弖清右衛門に「蔦木内合五貫文」を与えたことから、すでに諏方 (諏訪) 郡には蔦木 (近世 上蔦木村・下蔦木村) が含まれていることがわかる。つまり天正11年(1583) に近世以降の甲斐・信濃国界が確定した。
甲斐の武田氏と信濃 (諏訪) の諏訪氏は古くから対立関係にあったようで、史料に確認できるものでも寛正5~6年(1464~1465) に諏訪氏が甲斐に攻め込み、文正元年(1466) は武田氏が返り討ちにしている。その後、武田信虎と諏訪頼満の代になって享禄元年(1528)・同4年(1531)・天文元年(1532) に交戦したが、この天文元年(1532) のときに信虎は甲斐国を統一し、これによってか天文4年(1535) 両者は和解し同盟関係になった※4。また、天文8年(1539) には諏訪頼満の死去にともない孫の頼重が家督を継ぎ、同9年(1540) 信虎の娘・禰々を迎え入れた。
注釈
18.2. 中世の甲斐・信濃国界
18.2.1. 地形
甲府盆地と諏訪盆地の間に険しい峠は存在せず、回廊状に接続している。

上は回廊部分について標高900~1,100メートルを強調して示したもので (標高900メートル以下と 1,100メートル以上の分解能はない)、わずかに高い地形 (森) が対峙する部分に分水嶺がある。変動前の甲斐・信濃国界は、東西どちらの水系も尽きる原野、いいかえれば双方の領域が広がってなお空白として残るところに生じたのだろう。これは上総・下総国界の状況 (『28.1.4. 下総台地』を参照) と同じで、明確になるのは新田・牧・鷹場としての活用が進行する過程においてである。甲斐・信濃国界も同様で、江戸期に開発された新田の分布からもそれがいえる。
『神使御頭之日記と堺川』には享禄元年(1528) の出来事として以下のような記事がある。
神使御頭之日記① 八月廿二日ニ武田信虎堺ヘ出張候テ、蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同廿六日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ、同晦日ニ神戸堺川一日ノ内ニ二度合戦候テ、朝神戸ニテハ諏方負候、晩堺川ニテ諏方打勝 |
これによれば、享禄元年(1528) 8月22日、武田信虎・諏訪頼満が衝突し、頼満は朝に神戸で負けたが晩には「堺川」で勝ったという。この「堺川」は分水嶺上を流れる現在の松目沢と考えられ、境界になり得る「堺川」が流れていたから国界が定まったのではなく、国界の上を流れているから目印として「堺川」と呼ばれたのだろう。
回廊部分の両側はこの国界の延長上に設定される。西 (南) は松目沢とそれをさかのぼった先の南アルプス (赤石山脈) の稜線であり、東 (北) は八ケ岳の裾野を放射状に流れ落ちる沢の分水嶺である。前者は松目沢の部分、後者は全体として回廊部分と動揺に漠然と把握されていたと考えられる。
変動前の甲斐・信濃国界について、これを立場川~釜無川とする考え方も存在する※1。しかしこの考え方は、変動後の国界が甲六川~釜無川であることから変動前の国界も河川であったに違いないという先入観と、境界は明瞭な地形でなければならないという思い込みに支配されている。あるいは近現代の視点で上空から見下ろしていることも原因かもしれない。
河川の上流部では水域は一体的に把握され、境界になることは少ない。『14. 木曽』 『15. 伊師』 『19. 白山麓十八か村の東谷・西谷』 『22. 根羽村』 『25. 依上保』で取り上げた変動域や、地名だけを紹介した大寸又 (千頭・井川、遠江・駿河) などが好例である。それぞれの地域が一体化した要因は一概にはいえないし、多分に相対的なものだが、河川がもはや移動の制約にならない一方、わずかな谷底平野を両岸で分割してはもはや生活が成り立たないからだろう。立場川は一見すると規模の大きい河川に思えるが、これは川が流れる谷を上空から巨視的に見ているからであって、立場川それ自体は小さな流れであることは降り立ってみればわかる。
また、変動前の甲斐・信濃国界を立場川~釜無川とする考えた場合、立場川にしろ釜無川にしろ、視点の動かし方を下流から上流へ向かう方向に固定していないだろうか。釜無川の場合、横岳峠付近で南アルプス (赤石山脈) に達したらそのまま稜線を南へたどっていくことになるが、反対方向からたどった場合、そこで釜無川の谷へ向かうことをうまく説明できない。そのまま稜線をたどって入笠山を過ぎてから松目沢の谷へ降りていくほうが合理的だろう。なぜならそこは諏訪湖 (諏訪盆地) と甲府盆地の分水嶺なのだから。
『神使御頭之日記』は、享禄元年(1528) から天文23年(1554) まで、諏訪大社上社の祭礼を担った郷と関係する情報、および諏訪に関係する事件等を書き留めた私記※2。その享禄元年(1528) の出来事 (武田信虎と諏訪頼満の衝突) と「堺川」ついてはすでに取り上げたとおりだが、天文4年(1535) の和解についても以下のように記述している。
神使御頭之日記② 武田信虎ト碧雲斎於堺川ニ参会、当社御宝モタセラレ、於堺川ニ御宝鈴ヲ被仰候」(中略)「信虎・碧雲両所ノ間ニテ神長申立ツカマツリナラシ申候、堺川マテ御宝御越候事往古ヨリ是始ニ候、彼川ノ北ノハタテナラシ申候 |
これによれば、武田信虎と碧雲斎 (諏訪頼満) が「堺川」で参会するにあたり、前例のないことだったが諏訪大社上社の宝鈴が北の川辺まで持ち出されて両者の間で鳴らされたという。この「「堺川」は同じ私記の近い時期に記されている以上、享禄元年(1528) の「堺川」と同じ川を指していると考えられる。なお現存する宝鈴は鉄鐸を 6つ束ねたものであり※3、おそらく当時も同じようなものだっただろう。
『神使御頭之日記』の堺川 (松目沢) は諏訪地域か、もっと狭ければ諏訪大社上社が認識するだけだったかもしれない。諏訪大社上社から堺川へは距離があるが、御射山神戸やその後背の原山 (神野) の存在からいえば心理的に近しいものだったかと想像される。
国道20号の茅野市コミュニティバス・木舟入口バス停付近から西を向くと、『諏訪史 第3巻』(1954) の写真「しらざれ城址」と同じ山が見える。宮川の曲流部が山をえぐるような地形であり、確かに山城に向いている。
注釈
18.2.2. 境方18か村・蔦木郷18か村
変動前の甲斐・信濃国界は、変動した地域が「境方18か村」や「蔦木郷18か村」として集合的に把握されていたことからも説明できる。
(1) 境方18か村
これは、武田信虎が娘・禰々を諏訪頼重へ嫁がせるにあたって「境方18か村」(境方十八箇村) を化粧料として持たせた、という伝承による。江戸後期の国学者・小山清庸は、この「境方18か村」の村々として『栗林換録』に以下を挙げている※1。「稗ノ底高ニ入」は割注である。
『栗林換録』による境方18か村 乙事・田端・先達・池之袋・高森・葛久保・小東・円見山・立沢 (稗ノ底高ニ入)・上蔦木・下蔦木・机・平岡・神代・瀬沢・休戸・木之間・大片瀬 |
ほかにも多少のバリエーションはあるようだが、上記でも「稗ノ底高ニ入」とある稗底村 (最終的に全村民移住し消滅) やそれ以前に消滅した大片瀬などの出入り、上下の蔦木や枝郷をどう数えるかといった程度だろう。またいずれにせよ重要なのは内訳の詳細ではなく、「境方18か村」として一体的・集合的に捉えられていることにある。伝承そのものは文字どおりに伝承以上のものではないが、何らかの事実を反映したものと考えられ、継承される過程でわかりやすく「化粧料」に置き換わったのだろう。国界と「化粧料」が結びついた伝承は三濃村の例のほか (『22.4. (参考) 県境の変動』を参照)、肥後・筑後国界の四箇村※2にもあり、木曽が元和元年(1615) に幕府直轄領から尾張藩領になったことも「化粧料」と結びつけられている※3。
(2) 蔦木郷18か村
幸福家文書の『甲斐国御檀家由緒略記』※4と、同系統の天保12年(1841) 伊勢神宮の御師・幸福出雲が幕府に提出したという由緒書※5に以下のような記述がある。
甲斐国御檀家由緒略記 信濃國蔦木郷18か村は、武田家の旧領なので、甲斐国同然に古くより御祈祷 |
| 信濃国蔦木郷十八ケ村ハ、武田御家之御旧領ニ付、甲斐国同前ニ古来ゟ御祈祷 |
幸福出雲の由緒書 蔦木郷18か村については信玄公のころはその所領であったので |
| 蔦木郷十八ケ村ノ儀ハ信玄公御代御領分ニ付 |
幸福出雲は伊勢神宮外宮の御師であり、信玄の時代には城下 (古府中) に屋敷が与えられ、のちに移り住んだ江戸期の城下 (新府中) の町は伊勢町と呼ばれるようになったという※6。「蔦木郷18か村」の内訳は文書からはわからないが、内容から「境方18か村」と同じ範囲を指していると考えられ、やはり一体的・集合的に把握され、また特殊な地域であることを示している。
『神使御頭之日記』には享禄元年(1528) の出来事として以下のような記事がある (再掲)。
神使御頭之日記① (再掲) 八月廿二日ニ武田信虎堺ヘ出張候テ、蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同廿六日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ、同晦日ニ神戸堺川一日ノ内ニ二度合戦候テ、朝神戸ニテハ諏方負候、晩堺川ニテ諏方打勝 |
これによれば、信虎は「蘿木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷」を取り立てて「シラサレ山」に布陣する頼満に対峙したとあり、ここに「蔦木郷」(蘿木ノ郷) があらわれる。「蔦木郷」は近世の小東村を含むことから、上蔦木村・下蔦木村ばかりでなく、ほかに数村を含む広がりを持った地域だといえる。蔦木郷は、天正6年(1578)『上諏訪造宮帳』※7でも「蔦木・原両郷」とあり、慶長18年(1613)『信州諏訪郡高辻』では、ほかが「村」の表記であるにもかかわらず「下蔦木郷」とあって、上下分村してもなお名称に郷を残している。「上蔦木□」の欠けている部分も「郷」と考えられる。「本郷」が典型だが、天保郷帳では村 (『本郷村』) であっても、しばしば初期の郷帳では郷のまま (『本郷』) のことがある。いわゆる村切によって解体されても、上蔦木郷・下蔦木郷 (上蔦木村・下蔦木村) は中世の蔦木郷の記憶を残すところだったのだろう。
また幸福出雲は実際に、文化5年(1808) に若宮新田村、天保13年(1842) に乙事・瀬沢・木之問の各村など訪れたほか、安政7年(1860) には葛久保村から寄附を送った記録が残っている※7。なお「幸福出雲」は「祓名(祓銘)」と呼ばれる名跡なので、名乗っている実際の人物は時期によって異なる。
元治・慶応年間(1864~1868) 『山田師職銘鑑』※8によると、甲斐の御師 (祓銘) には幸福出雲のほか、幸福大夫・幸福数馬大夫・幸福孫大夫・幸福彦大夫・幸福孫右衛門の幸福系、大主大夫・大主徳屋大夫・大主長左衛門・大主源大夫の大主系、および大西助大夫がいて、大主幸福大夫という御師もいる。また甲斐・信濃の両国 (甲州・信州) の御師として久保倉但馬・久保倉金吾大夫がいる。江戸中期ごろの『皇室・公卿・幕閣・大名の師職表』※8によれば、幸福出雲は郡山藩 (大和国)と黒川藩・三日市藩 (越後国) の柳沢氏、およびほか 6つの大名の御師でもある。御師は氏族との関係で成り立っていたとみられ、幸福出雲が柳沢氏付であるのも以前からと考えられるが、甲府藩のときに縁ができたのか、それより前になるのか※9はわからない。
諏訪 (高島藩) の御師は御炊太夫で、具体的に諏訪安芸守※10・因幡守※11・伊勢守※12の寄進を確認でき、長く関係性があったとみられる。忠晴の大納戸日帳※13にも言及がある。信濃の御師としては『山田師職銘鑑』に久保倉のほか、松井九兵衛・松木館八郎大夫・松葉二郎大夫が載っており、ほかに諏訪では久志本神主※14、伊那付近では小倉四郎大夫※15の活動も散見される。
注釈
18.2.3. 境界の地名
本稿における変動前の甲斐・信濃国界は以下の各説に相当する。
| 史料 | 内容 |
|---|---|
| 『諏訪史蹟要項 8 富士見村篇』(1955/1996) | 天文九年堺十八ケ村が諏訪領とならざる以前の甲信の境界 a、立場肘曲り―糠塚―神戸あらい坂―麦日向見通シ b、立場肘典り―栗生の細尾迄 |
| 『下伊那史 第4巻』(1961)※1 | 旧甲信国境は凡そ北、八ケ嶽連峯中の権現山より立沢川の谷に沿い、今の本郷・原両村境を下り、南、南原 (本郷村) 附近より入笠山を見通した線 |
| 『富士見村誌』(1961) | 入笠山の東に位する赤のら山の峯から、立場川の肘曲りを見通して、この二点を結んだ一直線を甲・信の境と定めていた |
それぞれにあらわれる地名はどのように認識される場所だったのだろうか。ひとつずつ見ていこう。
(1) あらい坂 (荒井坂・洗坂)
文政8年(1825) 裁許の山論にみられる地名で、文政7年(1822)『乍恐奉願上口上書之事』※2※3に以下のような記述がある。
乍恐奉願上口上書之事 原山大境は荒井坂から糖塚・三本栂・立場川臂曲りを見通し※3 |
この山論は八ケ岳山麓の入会地を巡るもので、北部60村 (金沢村・菖蒲沢村・大沢新田村・中新田村など) と南部10村 (瀬沢村・瀬沢新田・机村・先能村・木間村・横吹新田・若宮新田・芓木村・松目新田・大平新田・栗生新田村)※4が対立した。
「荒井坂」については、『富士見町史 上巻』(1991) で「現在の洗坂か」とされるが、詳細な位置情報は示されていない。ただ「洗坂 (現況)」として掲載されている写真は、国道20号の「富士見パノラマリゾート入口」交差点付近の旧甲州街道入口なので、同地点から峠 (原の茶屋) までの急坂と考えられる。

『 皇国地誌・郡村誌』の付図の御射山神戸村絵図にもその付近の甲州街道脇に「字洗坂」という地名がある。

別の争論 (桑畑一件) では「洗坂」とある。
(2) 糖塚 (糠塚)
「あらい坂」と同様、文政7年(1822)『乍恐奉願上口上書之事』にあらわれる。「瀬沢新田原に設けられた糠塚」※5といい、瀬沢新田村の西の原に築かれた境塚のひとつと考えられる。『富士見町史 上巻』(1991) と『諏訪史蹟要項 8 富士見村篇』(1955/1996) は「糠塚」、しかし町史の前身となる『富士見村誌』(1961) を含むほかは「糖塚」。直接関係はしないが原村には「糠塚」という地名が存在し※6、地名で使用される文字としては「糖」(あめ/トウ) よりも「糠」(ぬか/コウ) のほうが明らかに多いが、それゆえの読み誤りもあり得るので何とも判断しがたい。いずれにせよ人工物なので現存しているとは思えず、位置の特定ともども詳細は追えない。
(3) 三本栂
「あらい坂」と同様、文政7年(1822)『乍恐奉願上口上書之事』にあらわれる。『富士見町史 上巻』(1991) で略図上に相当する位置が示され、『 皇国地誌・郡村誌』の付図の立沢村絵図にも同じような位置に「字三本栂」がある。

三本の栂 (つが/とが) の木があって目印にされていたのだろう。一部『三木栂』とあるのは誤字と思われる。
(4) 肘曲り (臂曲り)
「あらい坂」と同様、文政7年(1822)『乍恐奉願上口上書之事』にあらわれる。西へ流れる立場川が南へ方向を変えるあたり、谷がやや広がる周辺を指しているものと考えられる。現在の立沢 (近世 立沢新田村) 集落の上流部であり、この付近から谷に人の営みが観察され、また人口の分水路 (汐) が両岸へ放射状に伸びる地点で当たる。
谷底を流れる立場川の水を谷の上 (外) の農耕地へ導くためには高低差を克服しなければならない。このため、分水路の取水地点は実際にはもっと上流にあり、広がりつつあるとともに緩やかになりつつある谷の斜面を水平を保って流れ、谷が自ら低まるのを待ってようやく抜け出ている。「肘曲り (臂曲り)」はこうした分水路を築いた人々が谷底の景観から名付けたのだろう (地形の全体をマクロ的に見下ろして名付けたわけではないだろう)。
立場川に重なる現在の富士見・原の町村境も、ここから下流は西へ外れている。地形も「肘曲り (臂曲り)」の標高を前後して変わり、裾野 (原) といえるのはここまでであって、山頂に向かっては険しく山岳地帯である。
(5) 麦日向・赤のら山
「麦日向」は、文政7年(1824) 高島藩が桑畑開発を奨励したことをきっかけに複数の村々を巻き込んで発生した争論 (『桑畑一件』) にあらわれる地名。『富士見町史 上巻』(1991) によれば、富士見パノラマリゾートの写真を示した上で「右側のゲレンデの頭頂部」とあるので、「アカノラ山」またはその付近を指しているものと思われる。アカノラ山は『富士見村誌』(1961) の「甲・信の境」にも「赤のら山」としてあらわれる。

(6) 麦日向・赤のら山
複数の争論にあわわれる地名。目印として広く通用していたようで、『諏訪藩主手元絵図』の「御射山神戸村 栗生新田」の左端 (南端) と「木之間村 大平新田 若宮新田 松目新田 横吹新田」の右端 (北端) にも記載されている。松目沢の北側の尾根のひとつ。

諏訪藩主手元絵図 |
高島藩第5代藩主・諏訪忠林が享保18年(1733) に作成させたと考えられている、藩内各村の村絵図を集成したもの。複製が同名で昭和60年(1985) に刊行されている。 |
注釈
18.3. 天保郷帳・国絵図の村々
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近世 信濃国 諏訪郡 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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