32. 雲原村
明治35年(1902) 丹後国 与謝郡 雲原村は丹波国 天田郡に移され、丹後・丹波の国界は北へ移った。

32.1. 経緯
明治35年(1902) 3月10日付の法律第14号 (官報 3月11日)※1による。
法律第14号 (明治35年(1902) 3月10日付) 京都府 (管轄下の) 丹後国 与謝郡 雲原村を同府 (管轄下の) 丹波国 天田郡に編入する |
原文: 京都府丹後國與謝郡雲原村ヲ同府丹波國天田郡ニ編入ス |
近世 丹後国 与謝郡 雲原村は、山々に囲まれた小規模な盆地の奥側にあって、丹波国 天田郡 天座村とは地形的に一体である。京都府における郡制の施行は遅く明治32年(1899) だった。これによって行政上の不便が生じたとみられ、丹後国 与謝郡から丹波国 天田郡へ編入されたようだ。
32.2. 中世の丹後・丹波国界
前述のように、近世 丹後国 与謝郡 雲原村は、丹波国 天田郡 天座村と同じ小盆地にあって地形的には一体である。つまり両者の間に国界があった合理的な理由は見出せない。富士見町東部 (『18. 富士見町東部』参照) や根羽村 (『22. 根羽村』を参照) などのように、河川上流部だけが与謝峠を越えた勢力に奪われ、そのまま近世の国界に反映された可能性はないのだろうか。
しかし、雲原村編纂の『村治ノ概況』(1920) でも、鎌倉初期の武将・畠山重忠の遺臣が当地に潜伏・開村したとの口承を伝えるだけで、誇大になりがちな伝承にあっても起源を古代に求めていない。
そこで雲原の地名を含む中世の史料に着目すると、まず観応2年・正平6年(1351) 成立の『慕帰絵詞』※2に、貞和4年(1348) 4月4日の出来事として、京から天橋立へ向かっていた覚如が「雲原といふ深山の中」で郭公の鳴き声を聞いて歌を詠んだ、とある。 正平6年(1351) 慕帰絵詞 第9巻 大正9年(1920) 写本 (部分
国立国会図書館所蔵)

丹波国のうち雲原村に接する地域には、三岳山を中心として佐々岐庄が成立し、南へ続く稜線 (分水嶺) をもって上山保 (西側) と下山保 (東側) に分けられていた。三岳山は古くから「三岳蔵王権現」として山岳信仰の対象とされ、村々は祭礼に奉仕するという立場でも結びつきがあったようだ。ただし中世の祭礼について直接的な史料が残っているわけではなく、具体的にわかることはほとんどない。
寺領の四至牓示が示されている金光寺は、喜多 (近世 丹波国 天田郡 喜多村) に現存し、明治初期の神仏分離までは三岳蔵王権現の別当寺だった。応安3年(1370) の当時は上佐々木 (近世 上佐々木村) の野際にあった※4ので、四至牓示で示された範囲はその付近と考えられ、内容と位置関係から上山保の北限でもあるといえる。つまり「北は三岳山の峰を雲原との境において限る」と理解すれば、三岳山の北へ続く稜線が寺領かつ上山保の北限であり、その向こうが雲原ということになる。かならずしも佐々岐庄全体の北限を示しているわけではないが、域外 (外にあるもの) と認識していることからいえば、雲原村は佐々岐庄には含まれず、その外にあったことになる。
雲原の中世史料はこの 2点しか見当たらない。落武者伝承の真偽はともかく、ほかからは隔絶された場所であったのは確かなようで、結局のところ国郡が認識された時点で丹後国として把握された、という以上でも以下でもないのだろう。下佐々木 (近世 丹波国 天田郡 下佐々木村) 所在の威光寺に残る『寺社方覚書』※3※5には、近世 丹波国 天田郡 天座村の文脈で「丹後雲原も三岳上山保ノ内タルヨシ申伝キ」とあるが、何に基づくものなのか確かめることはできない。
なお、近世 丹後国 雲原村を源流域として小盆地を還流する雲原川は、丹後・丹波国界を越えたところで天座村へ入り、小盆地を還流して東端で抜ける。しかしそこで再び丹波・丹後国界を越えて、以降は丹後国を流れ下っていく。つまり丹波国を流れるのは天座村の部分に限られる。交通路に着目すると、小盆地の出口は現在の国道176号が通る峠である。雲原川を流れるルートは険しく、いちおう県道が並行しているものの、深い谷の斜面に張り付いたような隘路で、雲原川もその谷底を流れている。これらからいえば、仮に国郡に変動があったのなら、与謝峠を越えた勢力が雲原村をその版図に組み入れた可能性よりも、国道176号が通る峠を越えた勢力が天座村を組み入れた可能性のほうが高いのかもしれない。
32.3. 天保郷帳・国絵図の村々
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32.4. 佐々岐庄・加悦庄
(1) 佐々岐庄
比叡山延暦寺 妙香院領。建武4年(1337) 以後と推定される『妙香院庄園目録』※39に引用の応和元年(961)『藤原師輔譲状』に「丹波国佐佐岐薗」とあるのが史料上の初出で、目録本体に「丹波国佐佐岐園 在天田郡」、『門葉記』所収の永祚2年(990)『慈忍和尚遺誡』※40に「丹波国佐々支薗」とあり、はじめ「園(薗)」を名乗っているが、康治元年(1142)『官宣旨案』※41に「延暦寺妙香院領佐岐庄」(『~佐々岐庄』) とあって、以後は「庄」で一定している。嘉暦4年(1329)『預所道戒寄進状』※42によれば、この時点の領家職・預所はそれぞれ治部卿法印・道戒であり、基本的に妙香院内の機構に基づく支配だったと考えられるが、ほかの時期を含めて詳細はわからない。
上山保・下山保は、元応3年(1321) 宛行状 (威光寺文書)※42に「丹波国佐〻岐上山保西村新□」(『~堂』)、元亨2年(1322)『治部卿法印某寄進状』※42に「佐〻岐下山保野条村奴多谷上坪」とあるのがそれぞれ初出であり、在地の金光寺文書では内訳として多用されている。『門葉記』所収の建武4年(1337)『妙香院門跡領并別相伝所領目録写』※43には「丹波国 佐〻岐上下両保」とある。近世 天田郡 上佐々木・中佐々木・下佐々木・一ノ宮・常願寺の各村にあたる一帯が上山保、天座・行積・上野条・下野条・喜多・大呂の各村にあたる一帯が下山保にあたる※44。なお南北朝期に入って妙香院の支配は弱まると、下山保地頭・大中臣 (金山) 氏が荒廃していた金光寺を喜多に再興するとともに上山保まで勢力を広げた※45※44。応安3年(1370) の禁制はこの過程で大中臣氏が出したものである。
観応2年(1351)※46および 貞治4年(1365)※47の三宝院文書によれば、佐々岐庄のうち牧八郎入道という人物の旧領 (『牧八郞入道跡』) が篠村八幡宮に寄進され、同宮を管掌下に置く※48醍醐寺三宝院領となっている。牧氏は南に接する河口庄に関係する人物であり、同庄も三宝院領だった※44。妙香院との関係がわかる史料は応永27年(1420) の法眼某奉書※42が最後だが、三宝院領との関係については文安6年(1449)『三宝院門跡管領諸職諸領目録』※49や『政所賦銘引付』文明6年(1474) 閏5月17日付文書※50からも確認できる。しかし三宝院が全体を掌握したのかどうかを含めて支配の詳細は不明で、いずれにせよ、室町期を迎えるころには荘園としての実態は失われたかと思われる。
比叡山の山中 (横川 飯室谷) にあった寺院。ここに居住した尋禅 (慈忍) が父・藤原師輔の佐々木庄を含む 11箇所の遺領を譲り受けたのが応和元年(961) の譲状である。またその死の直前に残したのが永祚2年(990) の遺誡で、「右庄等拾箇庄施入妙香院了」とあって、このとき正式に佐々木庄を含む 11箇所 (文中の『拾箇庄』は誤りと思われる) が妙香院領となった。
真言宗醍醐寺派の総本山である醍醐寺の一院。醍醐寺の中心的な存在であり、歴代座主が居住したという。
(2) 加悦庄
殿下渡領。永享3年(1431)『室町幕府奉行人連署奉書』※51に「殿下渡領丹波國賀悦庄」(丹波は丹後の誤り)、長禄2年(1458)『一条教房御教書』※52に「殿下御領丹後国賀悦庄」とある。両文書では領家職が問題となっているが、基本的に実相院 (実相院門跡) が地頭と兼帯していたとみられる。長禄3年(1459)『実相院門跡所領目録』※53によれば、領家職は養徳院・妙雲院※54から実相院の興隆のために寄進されたとされ、いずれにせよ南北朝期より以前のことは明らかではない。加悦庄の諸史料は『金屋比丘尼城遺跡発掘調査報告書』(1980) にまとまっている。