16. 置津郷
置津郷とは『 和名類聚抄』で安房国 長狭郡にあげられている郷のひとつであり、当地は安房国の一部として把握されていた。

ところが江戸期の国絵図では、当地は上総国 夷隅) 郡の一部として描かれており、もともと置津郷の東にあったはずの安房・上総国界が、江戸期を迎えるまでに西へ移動したことが判明する。
16.1. 変動の要因
推定に基づいて古代の国界を復原し、中世~近世の国界とあわせて示せば以下のようになる。

『上総国町村誌』※1によれば、国界の変動を経験した村々は戦国期・織豊期のころ「伊保荘」に属していたといい、興津村・植野村はその伊保荘の「興津郷」「植野郷」であり、台宿・中里・中島村の各村は「植野郷」に含まれていたという。
律令体制の崩壊後に荘園が展開されるなか、上総国 夷灊 (夷隅) 郡には「伊南庄」と「伊北庄」が成立した。その名称は夷灊 (夷隅) が南北に二分割されたことによるが、拡大の過程で変容があったらしく、最終的には伊北庄が西部、伊南庄が東部を占めることになった。この伊北庄は「伊保庄」とも書かれ、読みが「いほう」であることや方角との関連が薄らいだ結果、「伊北」よりも「伊保」の表記のほうが優勢になったようだ。
伊北庄 (伊保庄) の史料上の初見は『 吾妻鏡』で、治承4年(1180) 10月の記事に「伊北庄司」※2、建暦3年(1213) 3月の記事に「上総国伊北庄」※3があらわれる。しかし同じ吾妻鏡でも建暦3年(1213) 5月の記事では「上総国伊北郡」※4とあって「郡」の表記、文治4年(1188) 6月の記事では「上総国伊隔庄」※5とあり、南北の区別のない「伊隔庄」として把握されている。その後、承久2~3年(1220~1221) ごろと推定される『上総介依国書状』にも「当国伊隔庄伊北分」※6とあるが、貞和3年(1347) と推定される『鎌倉府御料所所課注文』※7には「上総国伊北庄」とあり、以降は安定する。
慶長2年(1597) の泉水寺村・慶長6年(1601) の勝浦之郷・墨名村の各検地帳※8の表紙には「上総国伊保之庄泉水寺村」「上総国伊保庄勝浦之郷」「上総國伊保庄夷隅郡新宮之郷 墨名村」とある。
置津郷は、地形的には海へ向かって急激に落ち込むリアス海岸と、その後背の平坦な丘陵地からなり、前者は周囲から孤立していること、後者は夷隅川の源流域であることを特徴としている。一般にリアス海岸は起伏や傾斜が大きいため陸からのアクセスは難しく、平地も少ないため農業には向かないが、波の穏やかな入江は良港として利用しやすい。このため、古くは海路を前提に安房から連続した土地とみなされ、上総から見れば最奥部にあたる丘陵地 (上野) へも農地を求めて進出したのではないかと推定される。しかしその後の荘園の展開のなか、伊北庄が次第に夷隅川上流にも広がり、置津郷の地域もその一部に組み込まれたと考えられる。
16.2. 古代の安房・上総国界
古代の安房・上総国界、いいかえれば古代 置津郷の範囲について、『夷隅郡誌』(1924/1972) は、『安房国誌』『大日本地名辞書』を参照した上で、上野村 (当時) の台宿・植野・中里・大森・名木・赤羽根と興津町 (当時) の大沢・浜行川・興津・守谷・鵜原は「伊保庄興津郷」と称したことから、これが古代 置津郷の範囲にあたるとしている※9。確かに『大日本地名辞書』にはこれら各村、および近世も安房国 長狭郡の内浦・小湊は伊保庄 興津郷と称したとあるが、根拠は示されておらず、台宿・植野・中里・大森・名木・赤羽根が伊保 (伊北) 庄の上野郷 (植野郷) だけではなく、興津郷とも称したというのが何によるものかはわからない。一方で『上総国誌稿』は地勢から台宿・上植野・名木・大森・中里・赤羽根・植野・中島・鵜原・守谷・置津・浜行川・大沢の各村を古代 置津郷としており※10、こちらが正しい。
『上総国誌稿』は『皇国地誌』のうち『大日本国誌』の第4巻として刊行されるはずだった『上総国誌』の稿本から写しを作成し、欠損部分を補ったもの。前半が『房総叢書 第2輯』(1914) に収録されている。
注釈
16.3. 天保郷帳・国絵図の村々
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