28.5. 長崎村ほか

(1) 経緯と時期: 明治26~29年(1893~1896)
Ⓐの下総国 北相馬郡 小絹村 大字細代・大字寺畑の小貝川以西 (字森戸・字田新田) は、明治26年(1893) 6月20日付※1で常陸国 筑波郡 十和村に編入された。大字細代・大字寺畑はそれぞれ細代村・寺畑村にあたる。
Ⓑの下総国 北相馬郡 長崎村の飛地は、明治28年(1895) 4月30日付※2で常陸国 筑波郡 鹿島村に編入された。さらにⒸの長崎村の残部も、明治29年(1896) 3月29日付 (官報 3月30日) の法律第43号により常陸国 筑波郡に編入された。長崎村は近世 下総国 相馬郡の川崎村・鬼長村にあたる。
法律第43号 (明治29年(1896) 3月29日付) 茨城県 下総国 北相馬郡の一部 (長崎村) *中略* を同県 常陸国 筑波郡に編入する。 |
原文: 茨城縣下總國北相馬郡ノ一部 *中略* ヲ同縣常陸國筑波郡ニ編入ス。 |
下総国 北相馬郡も常陸国 筑波郡も管轄は茨城県であって変わらない。
Ⓐ (森戸・田新田) および Ⓑ (長崎村飛地) の位置は、大字・小字、寺社の所在、相対的な関係などから特定し、範囲は現在の大字をベースに『 迅速測図・仮製地形図・迅速測図原図』から読み取れる情報で補正した。ただし森戸については、集落 (小貝川に沿った自然堤防上に所在する) を除いて区画整理 (耕地整理) されており、遡るのに十分な情報も得られないため現在の大字の範囲による。
この付近は長く低湿地・沼沢地として取り残され、治水の進んだ寛永年間(1624~1644) に入ってから本格的な開発がはじまった。基本的にはその過程で旧・国界は定まったと考えられるが、ある程度は連続的な自然堤防がみられるので、不明瞭ながらも本流とみなされる流れがあって基準になったのかもしれない。
なお「田新田」は『茨城県史 市町村編2』(1975) では「字宇田新田」となっている※3。刊行年が古く、当地を含む『北相馬郡志』(1918/1975) では「字田新田」であり※4、地理院地図で確認可能な現在の小字も「田新田」なので、「字田新田」を「宇田新田」と読み間違えた上で、さらに「字」を付加してしまったのだろうと思われる。
(2) 政府から府県への布達
Ⓐ・Ⓑについてはその根拠となる法令ははっきりしない。前者に関しては『北相馬郡志』(1918/1975) に「勅令第285号」とあるが※5、これが何を指しているのかわからない。
(3) 小貝川の蛇行とその他の飛地
小貝川の両岸にほかにも多くの飛地が存在する。もともと流れが滞りやすい地形であることに加え、鬼怒川の分流によって流量が減少し、蛇行・中洲が生じやすくなったことが要因だろう。『 迅速測図・仮製地形図・迅速測図原図』や旧町村境をあわせて考えると、ほとんどが堤外の範囲に収まる小規模なもので、流作場や草苅場 (秣場・茅場など) だったとみられる。現在の市境も基本的に旧町村境を踏襲し、小貝川の現在の流路に対して河川敷 (高水敷) の範囲で蛇行している (小規模に河川敷外へ出ている部分はあるが、民家は見られない)。

規模が大きく集落も含まれるのは、ⓐ・ⓑ・ⓒの部分である。ⓐは近世 常陸国 筑波郡の川又村の過半、ⓑは同 新右衛門新田・老田淵村ほか※6、 ⓒは同 上郷村の一部である仕出地区の全部または過半にあたり※7、それぞれ寛永2年(1625)※8、享保7年(1722) 以後※9、昭和30年(1955)※10、それぞれ小貝川の西岸の飛地になった。
ⓐ・ⓑは、昭和30年(1955) 水海道市 (現・常総市の南過半) に編入され、西岸に位置する市の一部となった。ただし、ⓐの飛地はあくまでも川又地区 (近世 川又村) の一部であり、東岸のまま飛地になっていない部分もあったので、逆にその部分が飛地になってしまった。古くから集落は西岸にあって、東岸はすべて水田だったので、問題にはならなかったようだ。ⓒは現在もつくば市 (東岸) の一部である。集落の規模が小さいことや、時期が遅く、すでに近代自治体として一体性が形成されていたことが要因として考えられる。地理的・心理的にも至近に小貝川に架かる橋梁がある一方、旧流路が三日月湖として残ったので、西岸の自治体へ分離・編入を求めるような状況にはならなかったのだろう。
注釈
(4) 天保郷帳・国絵図の村々
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| 近世 下総国 豊田郡※1 |
| 近世 常陸国 筑波郡※1 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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注釈
(5) 下総・常陸の国絵図
国絵図の概要については『第1編 近世の国絵図』を、一覧は『近世国絵図総覧』を参照のこと。
(a) 国界付近の表現
下総国から常陸国へ編入された部分は国絵図でもそのままに表現され、国絵図特有の形状の不正確さはともかくとして、双方で整合性が保たれている。元禄国絵図では以下のように表現されている。

天保国絵図では以下のように表現されている。

両者を見比べると Ⓑ (長崎村飛地) の表現が異なる。元禄下総国絵図では本体と接続しているが、天保下総国絵図では分離され「川崎村飛地」と記載されている。