天正18年(1590) 7月、小田原城の陥落によって後北条氏は滅亡した。秀吉はその旧領である伊豆・相模・武蔵・上総の全域と下総の大部分、上野の南過半、および下野の一部を家康に与え、支配させた。この過程で混乱が生じたらしく、天正19年(1591) に葛西神社 (古くは『香取宮』、のち一時『香取神社』) と青龍山浄光寺 (木下川薬師) に発給された朱印状には次のように記載されている。
葛西神社 武蔵国勝鹿郡葛西庄金町郷之内拾石 *中略* 天正十九年辛卯十一月※1 |
木下川薬師 下総国葛西庄木下川之内五石 *中略* 天正拾九年辛卯年十一月日※2 |
さらに徳川政権となって行われた元和8年(1622) の検地では、長島村・飯塚村は以下のように把握された。
長島村 元和八歳壬戌七月廿二日 下総国勝鹿郡東葛西内長嶋御検地帳※3 |
飯塚村 元和八年壬戌七月廿三日 下総国葛鹿郡葛西庄飯塚村御検地水帳」※4 |
元和年間(1615~1624) までに作成されたと推定されている『下総之国図』にも葛西地域は含まれている。

一方『日本六十余州国々切絵図』(余州図については『6. 寛永国絵図・日本六十余州国々切絵図』を参照) では武蔵国絵図に葛西地域が含まれ、下総国絵図には含まれない。下総国絵図では佐倉街道 (成田街道) に相当する道筋に東から「舟橋」「八幡」「市川」とつづき、ここで「松戸」へ向かう街道 (水戸街道へ短絡する街道) を分け、川を渡ったところに「武州葛西ㇸ出ル」とある。

つまり描かれているのは近世の利根川 (現在の江戸川) までであって、葛西地域は下総国の外にある。武蔵国では「同市川ㇸ出」(同 = 下総) とあるところから佐倉街道がはじまり、「𛀚𛂁川」(かな川、金町)※5から来る水戸街道と合流するところに「𛀚さい」(かさい、葛西) がある。

「葛西」は新宿町 (葛西新宿) と考えられ、ほかに「牛嶋」「深川 「にのい」(二之江) も存在し、国界は近世の利根川であって葛西は武蔵国に含められている。
この混乱が解消されて国界が確定するのは、二郷半・松伏・幸手・島中河辺と同時期の寛永年間(1624~1644) と考えられ、『正保年中改定図』・『武蔵田園簿』には葛西の村々が武蔵国 葛飾郡として含まれる 。
変動前後の棟札を見ると、寛永6年(1629) の八剣神社 (葛飾区奥戸八丁目、古くは『矢剣明神』)、寛永10年(1633) の天祖神社 (葛飾区高砂二丁目、古くは『三社明神』)、および寛永18年(1641) 天祖神社 (葛飾区奥戸二丁目) のそれぞれには以下のように記載されている。
八剣神社 下総国葛西庄奥戸新田 *中略* 寛永六年九月二十五日※6 |
天祖神社 (三社明神) 下総国葛飾郡葛西荘曲金郷新宿村細田村 *中略* 寛永十稔癸酉九月二十八日※6 |
天祖神社 武州葛西奥戸村 *中略* 寛永十八辛巳暦霜月六日※7 |
棟札は公的なものではなく、かならずしも正確ではないが、矛盾はない。ただし八剣神社の正保4年(1647) 棟札には「総州葛飾郡葛西荘奥戸新田」とあるという※8。
| ^ ※1: | 『葛飾区古文書史料集9 葛西神社文書1』(1996) 所収、c.42。 |
| ^ ※2: | 『葛飾区古文書史料集1 御成記 定光寺近世文書』(1987) 所収、cc.64-65。 |
| ^ ※3: | 『江戸川区史 第1巻』(1976) 所収、c.106。 |
| ^ ※4: | 『葛飾区史料』(1958) 所収、c.175。参考: 『増補 葛飾区史 下巻』(1985)、c.439。 |
| ^ ※5: | 草体の誤読・誤写、池田家文庫では「金町」。 |
| ^ ※6: | 『増補 葛飾区史 下巻』(1985) 所収、c.550。 |
| ^ ※7: | 『増補 葛飾区史 下巻』(1985) 所収、c.549。 |
| ^ ※8: | 『増補 葛飾区史 下巻』(1985)、c.450。 |