28.2.28. 葛西
古代の利根川 (古隅田川~隅田川) と近世の利根川 (中川~江戸川) に挟まれた地域 (葛西) は、戦国期に国界が曖昧化し、江戸初期までに武蔵国として把握されるようになった。

(1) 葛西御厨の展開と後北条氏の支配
下総国 葛飾郡の南西部には、鎌倉初期までに伊勢神宮領の葛西御厨が成立した。古代~中世の利根川や渡良瀬川の堆積作用によって陸化した土地が北部から開発され、その領域を広げていったものとみられる。
開発領主の葛西清重は、豊島氏から分かれて当地を地盤として勢力を拡大し、葛西氏を名乗るようになった。保延3年(1137) から元徳2年(1330) までの「香取造営次第」を記載した同名史料※1には治承元年(1177) に「葛西三郎清基」(『~清重』) の名前があり、吾妻鏡にも下河辺行平と同様、治承4年(1180) 9月3日をはじめとして頻出する。永万元年(1165)『占部安光文書紛失状写』※1によれば、この文書の日付をもって葛西清重が伊勢神宮に寄進・成立したことになるものの、本史料は疑義が提示されていて内容の正しさは明らかではない。
伊勢神宮内部の動きとしては、口入職 (寄進を仲介したことで得た権利) は占部氏が持っていたが、度会氏との間で何らかの問題があったらしい。建治元年(1275)『占部安近和与状写』※1によればこの文書をもって和解が成立し、永仁2年(1294)『度会定行譲状写』※1以後は度会氏の間で継承されている。また中央の有力者に領家職 (下位の領有権) が寄進されたらしく、『伴野荘并葛西御厨相承次第写』※1によれば、信濃国の伴野庄とともに、持明院基家 (長承元年~建保2年, 1132~1214)、北白河院 (持明院陳子、承安3年~暦仁元年, 1173~1238)、式乾門院 (利子内親王、建久8年~建長3年, 1197~1251)、室町院 (暉子内親王、安貞2年~正安2年, 1228~1300)、伏見天皇 (伏見院、文永2年~文保元年, 1265~1317)、後伏見天皇 (後伏見院、正応元年~建武3年・延元元年、1288~1336) と継承され (括弧内は生没年)、室町院領だったことがわかる。正安4年(1302)『室町院所領目録』※2には「本御領」に「下總國葛西御園」があり「北白河院領 姫宮御方」と付記されている。その後、元徳2年(1330)・同3年(1331)『花園上皇院宣案写』※1によれば「信濃國伴野庄」と「下總國葛西御厨」は大徳寺へ寄進され、領家職は譲られた。しかし、元弘3年(1333)『後醍醐天皇綸旨写』※1によれば 「葛西御厨替」として「播磨國浦上庄地頭職」が大徳寺に寄進されている。どのような事情か文書からは読み取れないが、「申請せらるに任せ (任被申請)」とあるので、おそらくこの時点で領家職の実効性が失われ、後醍醐天皇に代替を求めたのだろう。
一方で、特に鎌倉期の在地支配についてはほとんどわからない。一般に伊勢神宮の御厨・御薗 (園) の支配は弱いことや地勢からいって、下河辺庄と同様に地頭の支配のもと幕府直轄地として経過したと思われる。ようやく状況が見えてくるのは南北朝期も最終盤となってからで、至徳4年(1387)『足利義満御判御教書案』※1によれば、関東管領・上杉憲春旧領である「下總國葛西御厨內・上野國所々・越後國々衙內事」が子の憲方に安堵され、続いて応永2年(1395)『足利義満御判御教書※1』によれば、さらに子の憲定へ継承されている。これらによれば、遅くとも上杉憲春の代には葛西御厨の一定の範囲が関東管領の所領として与えられていたことがわかる。また、これを実際に処理した応永3年(1396)『斯波義将施行状』※1に「下幸嶋」とともに「下總國葛西御厨」がある。このほか応永4年(1397)『足利氏満挙状写』※1では「葛西御厨篠崎鄕內田畠在家」が中山法華経寺 (千葉県 市川市に現存) に安堵され、これは応永27年(1420)・応永29年(1422) にも継承されているが (千葉兼胤安堵状写・左衛門尉定忠安堵状写※1)、永和3年(1377)『希朝売券写』※1で寄進されたものに基づいている。
荘園 (御厨) としての実態は南北朝期を通じてかなり弱体化したとみられ、室町期には完全に失われたと考えられる。応永27年(1420)『外宮神主等注進状写』※1では鎌倉府に対し、名主・百姓の押領や年貢拒否を御教書によってやめさせるように求めている。鎌倉府はこれに応じなかったらしく、神宮の訴えは繰り返され、応永33年(1426) になってようやく御判御教書が発給されたが (足利持氏御判御教書写※1)、応永34年(1427)『上杉憲実施行状写』※1や正長元年(1428)『大石憲重遵行状写』※1を見る限りは効果はなかったとみられる。
戦国期に入って、葛西は後北条氏 (小田原北条氏) の勢力下に組み入れられた。このころには、安房国を拠点に勢力を拡大する里見氏に対して葛西は前線として機能するようになり、実質的に武蔵国の延長上になっていた。『小田原衆所領役帳』でも葛西は武蔵国とみなされているように読み取れる。天文22年(1553) 正月付『伊勢大神宮庁宣写』※1によれば、依然として伊勢神宮は「下總國葛西三十三鄕」の権利を主張していたが、同年と推定される 2月26日付『北条家印判状写』※1は、後北条氏の支配になってからは例がないとし、「房総両国」(安房・上総・下総) を平定できたら新たに寄進しよう、と答えた。その後、神宮から「太榊宮御祓之箱」が贈られたらしく、これに対して年不詳 2月27日付『北条氏康書状写』※1で氏康は同様の回答を行い、関連する同日付の石巻家重書状写※1には「武州葛西庄」という表現が含まれている。
注釈
(2) 変動の要因と時期: 寛永年間(1624~1644)
天正18年(1590) 7月、小田原城の陥落によって後北条氏は滅亡した。秀吉はその旧領である伊豆・相模・武蔵・上総の全域と下総の大部分、上野の南過半、および下野の一部を家康に与え、支配させた。この過程で混乱が生じたらしく、天正19年(1591) に葛西神社 (古くは『香取宮』、のち一時『香取神社』) と青龍山浄光寺 (木下川薬師) に発給された朱印状には次のように記載されている。
葛西神社 武蔵国勝鹿郡葛西庄金町郷之内拾石 *中略* 天正十九年辛卯十一月※1 |
木下川薬師 下総国葛西庄木下川之内五石 *中略* 天正拾九年辛卯年十一月日※2 |
さらに徳川政権となって行われた元和8年(1622) の検地では、長島村・飯塚村は以下のように把握された。
長島村 元和八歳壬戌七月廿二日 下総国勝鹿郡東葛西内長嶋御検地帳※3 |
飯塚村 元和八年壬戌七月廿三日 下総国葛鹿郡葛西庄飯塚村御検地水帳」※4 |
元和年間(1615~1624) までに作成されたと推定されている『下総之国図』にも葛西地域は含まれている。

一方『日本六十余州国々切絵図』(余州図については『6. 寛永国絵図・日本六十余州国々切絵図』を参照) では武蔵国絵図に葛西地域が含まれ、下総国絵図には含まれない。下総国絵図では佐倉街道 (成田街道) に相当する道筋に東から「舟橋」「八幡」「市川」とつづき、ここで「松戸」へ向かう街道 (水戸街道へ短絡する街道) を分け、川を渡ったところに「武州葛西ㇸ出ル」とある。

つまり描かれているのは近世の利根川 (現在の江戸川) までであって、葛西地域は下総国の外にある。武蔵国では「同市川ㇸ出」(同 = 下総) とあるところから佐倉街道がはじまり、「𛀚𛂁川」(かな川、金町)※5から来る水戸街道と合流するところに「𛀚さい」(かさい、葛西) がある。

「葛西」は新宿町 (葛西新宿) と考えられ、ほかに「牛嶋」「深川 「にのい」(二之江) も存在し、国界は近世の利根川であって葛西は武蔵国に含められている。
この混乱が解消されて国界が確定するのは、二郷半・松伏・幸手・島中河辺と同時期の寛永年間(1624~1644) と考えられ、『15. 武蔵国(7)』・『武蔵田園簿』には葛西の村々が武蔵国 葛飾郡として含まれる 。
変動前後の棟札を見ると、寛永6年(1629) の八剣神社 (葛飾区奥戸八丁目、古くは『矢剣明神』)、寛永10年(1633) の天祖神社 (葛飾区高砂二丁目、古くは『三社明神』)、および寛永18年(1641) 天祖神社 (葛飾区奥戸二丁目) のそれぞれには以下のように記載されている。
八剣神社 下総国葛西庄奥戸新田 *中略* 寛永六年九月二十五日※6 |
天祖神社 (三社明神) 下総国葛飾郡葛西荘曲金郷新宿村細田村 *中略* 寛永十稔癸酉九月二十八日※6 |
天祖神社 武州葛西奥戸村 *中略* 寛永十八辛巳暦霜月六日※7 |
棟札は公的なものではなく、かならずしも正確ではないが、矛盾はない。ただし八剣神社の正保4年(1647) 棟札には「総州葛飾郡葛西荘奥戸新田」とあるという※8。
注釈
(3) 天保郷帳・国絵図の村々
表示する

| 近世 武蔵国 葛飾郡※1※2 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|