(1) 葛西御厨の展開と後北条氏の支配

下総しもうさかつしか郡の南西部には、鎌倉初期までに伊勢神宮領の西さい御厨みくりやが成立した。古代~中世の利根川や渡良瀬川の堆積作用によって陸化した土地が北部から開発され、その領域を広げていったものとみられる。

開発領主の葛西きよしげは、しま氏から分かれて当地を地盤として勢力を拡大し、葛西氏を名乗るようになった。ほうえん3年(1137) からげんとく2年(1330) までの「香取造営次第」を記載した同名史料※1には治承じしょう元年(1177) に「葛西三郎清基」(『~清重』) の名前があり、吾妻鏡にもしもこうゆきひらと同様、治承4年(1180) 9月3日をはじめとして頻出する。永万元年(1165)『占部安光文書紛失状写』※1によれば、この文書の日付をもって葛西清重が伊勢神宮に寄進・成立したことになるものの、本史料は疑義が提示されていて内容の正しさは明らかではない。

伊勢神宮内部の動きとしては、口入職くにゅうしき (寄進を仲介したことで得た権利) は占部氏が持っていたが、度会わたらい氏との間で何らかの問題があったらしい。けん元年(1275)『占部安近状写』※1によればこの文書をもって和解が成立し、永仁2年(1294)『度会定行ゆずりじょう写』※1以後は度会氏の間で継承されている。また中央の有力者に領家しき (下位の領有権) が寄進されたらしく、『とも荘并葛西御厨相承次第写』※1によれば、信濃国の伴野庄とともに、持明院じみょういんもといえ (ちょうしょう元年~けんぽう2年, 1132~1214)、北白河院 (持明院のぶじょうあん3年~りゃくにん元年, 1173~1238)、しきけんもんいん (とし内親王、建久けんきゅう8年~けんちょう3年, 1197~1251)、むろまちいん (内親王、あんてい2年~しょうあん2年, 1228~1300)、伏見天皇 (伏見院、ぶんえい2年~ぶんぽう元年, 1265~1317)、後伏見天皇 (後伏見院、しょうおう元年~建武3年・えんげん元年、1288~1336) と継承され (括弧内は生没年)、室町院領だったことがわかる。正安4年(1302)『室町院所領目録』※2には「本御領」に「下總國葛西御園」があり「北白河院領 姫宮御方」と付記されている。その後、元徳2年(1330)・同3年(1331)『花園上皇いんぜん案写』※1によれば「信濃國伴野庄」と「下總國葛西御厨」はだいとくへ寄進され、領家職は譲られた。しかし、元弘3年(1333)『後醍醐天皇りん写』※1によれば 「葛西御厨替」として「播磨國浦上庄地頭職」が大徳寺に寄進されている。どのような事情か文書からは読み取れないが、「申請せらるに任せ (任被申請)」とあるので、おそらくこの時点で領家職の実効性が失われ、後醍醐天皇に代替を求めたのだろう。

一方で、特に鎌倉期の在地支配についてはほとんどわからない。一般に伊勢神宮の御厨・御薗 (園) の支配は弱いことや地勢からいって、下河辺庄と同様に地頭の支配のもと幕府直轄地として経過したと思われる。ようやく状況が見えてくるのは南北朝期も最終盤となってからで、とく4年(1387)『足利よしみつはん御教みぎょうしょ案』※1によれば、関東かんれい・上杉のりはる旧領である「下總國葛西御厨內・上野國所々・越後國々衙內事」が子ののりかたに安堵され、続いて応永2年(1395)『足利義満御判御教書※1』によれば、さらに子ののりさだへ継承されている。これらによれば、遅くとも上杉憲春の代には葛西御厨の一定の範囲が関東管領の所領として与えられていたことがわかる。また、これを実際に処理した応永3年(1396)『よしまさ施行状しぎょうじょう※1に「下幸嶋」とともに「下總國葛西御厨」がある。このほか応永4年(1397)『足利氏満きょじょう写』※1では「葛西御厨篠崎鄕內田畠在家」が中山法華経寺 (千葉県 市川市に現存) に安堵され、これは応永27年(1420)・応永29年(1422) にも継承されているが (千葉兼胤安堵状写・左衛門尉定忠安堵状写※1)、永和3年(1377)『希朝売券写』※1で寄進されたものに基づいている。

荘園 (御厨) としての実態は南北朝期を通じてかなり弱体化したとみられ、室町期には完全に失われたと考えられる。応永27年(1420)『外宮神主等注進状写』※1では鎌倉府に対し、名主・百姓の押領や年貢拒否を御教書によってやめさせるように求めている。鎌倉府はこれに応じなかったらしく、神宮の訴えは繰り返され、応永33年(1426) になってようやく御判御教書が発給されたが (足利もちうじ御判御教書写※1)、応永34年(1427)『上杉のりざね施行状写』※1しょうちょう元年(1428)『大石憲重遵行状じゅんぎょうじょう写』※1を見る限りは効果はなかったとみられる。

戦国期に入って、葛西は後北条氏 (小田原北条氏) の勢力下に組み入れられた。このころには、安房あわ国を拠点に勢力を拡大する里見氏に対して葛西は前線として機能するようになり、実質的に武蔵国の延長上になっていた。小田原衆所領役帳おだわらしゅうしょりょうやくちょうでも葛西は武蔵国とみなされているように読み取れる。天文22年(1553) 正月付『伊勢大神宮庁宣写』※1によれば、依然として伊勢神宮は「下總國葛西三十三鄕」の権利を主張していたが、同年と推定される 2月26日付『北条家印判状写』※1は、後北条氏の支配になってからは例がないとし、「房総両国」(安房・上総・下総) を平定できたら新たに寄進しよう、と答えた。その後、神宮から「太榊宮御祓之箱」が贈られたらしく、これに対して年不詳 2月27日付『北条氏康書状写』※1で氏康は同様の回答を行い、関連する同日付の石巻家重書状写※1には「武州葛西庄」という表現が含まれている。

^ ※1: 『八潮市史 史料編 古代・中世』(1988) 所収。
^ ※2: 『兵庫県史 史料編 中世9・古代補遺』(1997) 所収。