上野国の東端部では、江戸初期から元禄年間(1688~1704) にかけて下野・武蔵との国界が変動した。これには渡良瀬川・利根川とその支流が関係することから地域全体で俯瞰していくことにする。
近世の上菱村・下菱村・小友村にあたる一帯 (以下『菱地区』とする) は、慶長3年(1598) 以後、遅くとも慶安元年(1648) までに上野国から下野国に移され、国界は東の稜線から西の桐生川へ変更された。

「菱」という地名が史料にあらわれるのは、文明4年(1472)『旦那売券』が最初で、このとき上野国 (上州) の桐生とともに把握されている※1。その後、大久保長安検地の慶長3年(1598)『桐生領高辻』※2でも上菱村・下菱村が「桐生領」に含まれ、同年上菱村の検地帳表紙には「上州桐生領上菱村御検地帳」とある※3。しかしその後、上菱村・下菱村は『正保下野国絵図』・『正保下野国郷帳』に足利郡として含まれ、遅くとも慶安元年(1648) までに国界の変動があったことがわかる。

桐生周辺は渡良瀬川に桐生川が合流する氾濫原で、多くは原野のまま取り残されていた。開発の時期は遅く、戦国期の攻防も上野・下野にまたがって展開されたことから、国界は曖昧なまま経過して江戸期を迎えることになった。前提となる領域認識 (旧領の分布・範囲) も引き継がれなかったのだろう。
館林に榊原康政が入ったのは天正18年(1590) である。

寛政重修諸家譜 第100巻: 榊原康政 八月、上野国館林城を給い、邑楽・勢多および下野国 梁田 3郡のうちにおいて、十万石を領す |
原文: 八月上野國館林城を𛁞𛃆ひ邑樂勢田及𛂯下野國梁田三郡乃うちにをい𛁳十萬石を領𛁏 |
前述の上菱村・下菱村が桐生領に含まれる『桐生領高辻』は慶長3年(1598) であることから、寛永20年(1643) 榊原忠次が陸奥国 白河へ加増・転封となって、代わりに松平乗寿が入ったとき、周辺地域も含めた所領再編成のなかで国郡も見直されたと推定される。
| ^ ※1: | 文明4年(1472) 12月23日付、『熊野那智大社文書 第4巻』(1976) 所収、潮崎稜威主文耆#71・pp.183-184。「上野國那智之師識」(『~職』、上野国の熊野那智大社旦那職) の文脈、かつ桐生とまとめて「ひし・きりう両里」とある。 |
| ^ ※2: | 表紙に「慶長三戊戌年改桐生領高辻」、『群馬県史 資料編15 近世7 東毛地域1』(1988) 所収、#98・cc.93-94。 |
| ^ ※3: | 『菱の郷土史』(1970) c.105。 |