27. 渡良瀬川・利根川
上野国の東端部では、江戸初期から元禄年間(1688~1704) にかけて下野・武蔵との国界が変動した。これには渡良瀬川・利根川とその支流が関係することから地域全体で俯瞰していくことにする。
27.1. 桐生川 (江戸初期)
27.1.1. 変動の要因と時期: 江戸初期
近世の上菱村・下菱村・小友村にあたる一帯 (以下『菱地区』とする) は、慶長3年(1598) 以後、遅くとも慶安元年(1648) までに上野国から下野国に移され、国界は東の稜線から西の桐生川へ変更された。

「菱」という地名が史料にあらわれるのは、文明4年(1472)『旦那売券』が最初で、このとき上野国 (上州) の桐生とともに把握されている※1。その後、大久保長安検地の慶長3年(1598)『桐生領高辻』※2でも上菱村・下菱村が「桐生領」に含まれ、同年上菱村の検地帳表紙には「上州桐生領上菱村御検地帳」とある※3。しかしその後、上菱村・下菱村は『正保下野国絵図』・『正保下野国郷帳』に足利郡として含まれ、遅くとも慶安元年(1648) までに国界の変動があったことがわかる。

桐生周辺は渡良瀬川に桐生川が合流する氾濫原で、多くは原野のまま取り残されていた。開発の時期は遅く、戦国期の攻防も上野・下野にまたがって展開されたことから、国界は曖昧なまま経過して江戸期を迎えることになった。前提となる領域認識 (旧領の分布・範囲) も引き継がれなかったのだろう。
館林に榊原康政が入ったのは天正18年(1590) である。

寛政重修諸家譜 第100巻: 榊原康政 八月、上野国館林城を給い、邑楽・勢多および下野国 梁田 3郡のうちにおいて、十万石を領す |
原文: 八月上野國館林城を𛁞𛃆ひ邑樂勢田及𛂯下野國梁田三郡乃うちにをい𛁳十萬石を領𛁏 |
前述の上菱村・下菱村が桐生領に含まれる『桐生領高辻』は慶長3年(1598) であることから、寛永20年(1643) 榊原忠次が陸奥国 白河へ加増・転封となって、代わりに松平乗寿が入ったとき、周辺地域も含めた所領再編成のなかで国郡も見直されたと推定される。
注釈
27.1.2. 天保郷帳・国絵図の村々

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注釈
27.1.3. 寛文上野国絵図・郷帳
国絵図の概要については『第1編 近世の国絵図』を、一覧は『近世国絵図総覧』を参照のこと。
(a) 中川忠英旧蔵
中川忠英旧蔵の国絵図群 (通称『日本分国図』) には上野国絵図 (#714307・#714308) が存在し、#714307はオンラインで参照できる。この上野国絵図は記載されている石高が後述の『寛文上野国郷帳』と一致する。


したがって中川忠英旧蔵の上野国絵図は寛文下野国絵図の写しである。
(b) 寛文上野国郷帳
寛文上野国郷帳は国立公文書館デジタルアーカイブで公開されている (#4269035・#4269036・#4269037) 。表題は「上野国郷帳」、寛文8年(1668) 11月付である。


