26. 小豆島

古代~中世の備前・讃岐の国界は、戦国期に曖昧化し、江戸初期までに小豆島・直島は讃岐国に属するようになった。
26.1. 古代の小豆島
小豆島は『 六国史』の応神天皇22年 4月の記事 に「阿豆枳辞摩」としてあらわれ、これにより本来は「あづきしま (あずきしま)」だったことがわかる。

その後「小豆島」と書かれたものが音読みされて現在の読みになったらしい。永仁5年(1297)『御所大番役定書案』※1に「せうつしまの庄」とあり、すでに「ショウツシマ」と読まれている。
奈良期の『平城宮2177号木簡』に「備前国児嶋郡小豆郷」、『 六国史』の延暦3年(784) 10月3日の記事にも「備前國兒島郡小豆嶋」とあるように小豆島は備前国 児島郡に属していた。

注釈
26.2. 変動の要因と時期: 戦国期~織豊期
小豆島には平安末期までに小豆島庄・肥土庄が成立し、基本的に前者は石清水八幡宮領、後者は皇室関係の所領として継承されていく。小豆島庄がはじめて史料にあらわれるのは、前述の永仁5年(1297)『御所大番役定書案』に「せうつしまの庄」とあるものだが、先行する建長2年(1250)『九条道家初度惣処分状』※1に荘園 (庄・御厨) と並んで「備後国小豆嶋」がある。肥土庄は治承2年(1178)『後白河院庁下文案』※2にはじめてあらわれ「備前國肥土庄」とある。このほか、建治元年(1275)『長勝寺鐘銘文』※3に「小豆島西方池田御庄」とある池田庄、応永4年(1397)『草加部八幡宮鰐口銘』※4や応永14年(1407)『八幡宮鰐口銘』※5に「小豆島草賀部庄」とある草加部 (草賀部) 庄、『寸簸之塵』※6所収の永禄9年(1566)『備前国郡郷庄帖』に「尾美庄・草部庄・池田庄・肥土庄」(中黒は筆者が補う) とある尾美庄が知られる。基本的に小豆島庄が分割されたか、内訳 (広域地名) として池田庄・草加部 (草賀部) 庄・尾美庄が存在したと考えられるが、詳細はわからない。
南北朝期に入ると、延元4年(1339) までに備前国 児島郡の飽浦を本拠とした佐々木 (飽浦) 信胤が占拠し、この段階で各荘園は実態を失ったとみられる。その後、貞和3年(1347) 細川師氏に攻め込まれると信胤はその配下となり、小豆島は細川顕氏を経て細川頼之の所領に組み込まれ、南北・室町期を通じて讃岐国守護・管領細川氏の勢力下に置かれるところとなった。
この間、延元2年(1337)『後醍醐天皇倫旨』※7に「備前國小豆島」、応永2年(1395)『応永備前神名帳』に「備前国小豆島郡」※9、応永24年(1417)『淵崎八幡神社旧蔵青銅製鰐口銘』・応永31年(1424)『雲故庵大般若波経奥書』に「備前国小豆島肥土庄」「備前国小豆島北浦小海郷」※9、文明15年(1483)『福寿借銭状』※8に「備前國小豆島」とあるなど、引き続き備前国の一部として認識されている。
一方、応永19年(1412) と推定される『安富宝城書状』※11では、東寺から備前国分の棟別銭を求められたことに関連して以下のような見解を示している。
安富宝城書状 この島は備前の内であるとも内ではないとも、いまだ決まっていない島である |
原文: 小豆嶋棟別事、承候、此嶋事ハ備前之内にて候共、内にて候ハぬ事共、いまた落居なき嶋にて候 |
『蔭涼軒日録』の明応2年(1493) 6月18日の記事※10でも以下のようにある、
安富宝城書状 讃岐国は 13郡からなり、6郡は香川氏の支配 *中略* 7郡は安富氏の支配である *中略* 小豆島も安富氏の支配である |
原文: 識岐國者十三郡也、六郡香川傾之 *中略* 七郡者安富領之 *中略* 小豆島亦安富管之 |
つまり、讃岐国に 13郡と同格の「小豆島」がある。安富氏・香川氏はともに守護・細川氏の代官 (守護代) である。これらによれば小豆島の国郡は曖昧化しており、また (備前国でも讃岐国でもなく) 小豆島は小豆島である、という傾向がみられる。ただし明王寺釈迦堂には「大永八年五月五日 宥泉之書」と刻まれた瓦と「讃州小豆島池田之住人 宥泉」と刻まれた瓦があり※12、大永8年(1528) の時点で讃岐国と自認する住人がいたことがわかる。
これは戦国・織豊期を経て江戸期に入ってからも同じで、慶長10年(1605) の徳川政権 (江戸幕府) による池田村の検地帳表紙には単に「小豆島之内池田村」とあって※13国郡の記載はない。慶安元年(1648) 坂手村の検地帳でも「小豆島之内草加部村」(中略)「坂手村分」※14、延宝7年(1679) 福田村・吉田村の検地帳 でも「小豆島福田吉田村」※15とだけある。
一方、『慶長備前国絵図』に小豆島は含まれず、ほかの絵図からも江戸初期には讃岐国として把握されていたと考えられる。ただし郡の扱いはきわめて曖昧なまま扱われ、また在地と公式の認識が一致する時期は遅かったようだ。
直島も小豆島と同様の変遷を経験している。直島が古代~中世に備前国として把握されていたことがわかる直接の史料は、建長5年(1253) 近衛家所領目録并相伝系図※16に「同国直嶋」(同=備前) とあるのがおそらく唯一だが、直島は小豆島より吉備児島 (現在は児島半島) に近く、小豆島が備前国に含まれていたのなら、直島もまた同様であるのは地理的に自明ではある。なお天保郷帳・国絵図の「直島」には男木島・女木島も含まれる。
26.3. 在地における国郡認識
延享3年 (1746) 巡検使の派遣に先立って代官が小豆島・直島を訪れた。このとき草加部村の庄屋は以下のように回答した※14※17。
草加部村 庄屋の回答 宝永五子年、小豆島の儀、直島、女木・男木島、塩飽島とも松平讃岐守様お預り地になり、その節より始めて諸帳面等、讃岐国と書き上げ来り申し候。 |
つまり宝永5年(1708) になるまでは「讃岐国」とは書かなかったという。これは「備前国」と書いていたというより、それまでは何も書かなかったということだろう。『慶長小豆島絵図』では各地名に国名を付記しているが、備前・播磨・淡路だけでなく本来必要のない讃岐についても記載している。正保年間(1644~1648) の作成と考えられている『正保小豆島絵図』でも変わらず、小豆島はあくまでも小豆島であるとして認識されていた期間の長さがわかる。なお元禄2年(1689) の文書には「備前国小豆島土庄村」とあるといい、混乱そのものは継続していた。
同じ著者 (永山卯三郎) による『続岡山県金石史』(1954)・『倉敷市史』(1960~1964)※18は『松浦正一著江戸時代の小豆島』を参照の上で「小豆島四海村森邦夫氏蔵小豆島志料第二笠井文書」に「元緑二巳年四月廿八日 他国持備前国小豆鳥土庄村庄屋 三郎右衛門」とあると説明している (『金石史』では『庄』は『荘』)。 各種図書目録などによれば、松浦の『江戸時代の小豆島』は昭和18年(1943) の『高松高商論叢 第18巻1号・2号』に掲載されているようだ。なお『角川日本地名大辞典 37 香川県』(1985) の見出し「小豆島」では、『新編香川叢書』の「笠井家文書」を参照しているが、少なくとも『新編香川叢書 史料篇2』(1981) の笠井家文書に該当する文書はない。
注釈
26.4. 天保郷帳・国絵図の村々
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近世 讃岐国 小豆島 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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26.5. 備前・讃岐の国絵図
ここでは前項までに触れた国絵図について、小豆島がどのように描かれているのか見ていこう。
(1) 慶長備前国絵図
『慶長備前国絵図』は、徳川政権 (江戸幕府) の指示による一連の慶長国絵図との関係はわかっていないが、現存する最古の備前国絵図である。この『慶長備前国絵図』には小豆島・直島は含まれず、国界の変動がすでに反映されている。

(2) 慶長小豆島絵図
慶長小豆島絵図では、渡航による距離の表示として「備前岡山渡海上八里」・「備前うしまと渡海上四里」(うしまと = 牛窓)・「播磨国宝津渡海上拾里」・「淡路国三□渡海上拾三里」(□ = 原) のように各地名に備前・播磨・淡路の国名が記載されているが、「讃岐国八嶋渡海上四里」「讃岐国引田渡海上七里」のように、本来必要のない讃岐についても国名が記載されている。 東京大学史料編纂所 所蔵)

(3) 日本六十余州国々切絵図の備前国・讃岐国
『日本六十余州国々切絵図』のうち備前国絵図に小豆島・直島は存在しない。
一方讃岐国絵図に小豆島・直島は描かれ、やはり国界の変動がすでに反映されている。

(4) 正保小豆島絵図
前項に示したとおり、国界の変動はすでに反映され、小豆島は讃岐国として把握されているはずだが、『正保小豆島絵図』では本来必要のない讃岐国の地名についても国名が付記されている。

(5) 天保讃岐国絵図
江戸後期の『天保讃岐国絵図』・『天保讃岐国郷帳』では、小豆島・直島は讃岐国として明確に把握されている。しかしどの郡にも含まれず、郡と同じ位置づけで「小豆島」「直島」があって、その中に各村が含まれている。
