27.2. 烏川
27.2.1. 変動の要因と時期: 寛永年間(1624~1644)

利根川に烏川・広瀬川が合流する付近では、かんえい年間(1624~1644) 上野こうずけ武蔵むさしの国界が北へ移動した。

Fig.131 烏川 (上野・武蔵国界): 寛永年間(1624~1644)

『上野国志』によれば、那波郡・児玉郡付近の上野・武蔵国界について、からすがわが寛永年間の洪水で流路を北に移したことによるという。Fig.733 上野国志 那波郡 献上本 (部分・国立公文書館所蔵)

上野国志 那波郡

武州 児玉郡 都島・山王堂・宿仁手・沼和田等、寬永の始めには那波郡に属す。寬永中、洪水にて烏川北に徒りてより武州に隷す

原文: 武州児玉郡都島山王堂宿仁手沼和田等寬永ノ始メニハ那和郡ニ属ス寬永中洪水ニテ烏川北ニ徒リテヨリ武州ニ隷ス

しかしこの付近の利根川は乱流地帯にあり、近代的な治水が行われるまでは、網の目状に中洲を発達させながら分流・合流を繰り返していた。現在でも中洲の発達が著しい。断片的に散在する自然堤防と流路跡、「島」の付く地名の分布から考えれば、より自然な状況下ではさらに乱流していたと考えられる。したがって、何らかの具体的な河川が国界の形成やその後の変遷に直接的な影響を与えたというより、その時点で相対的に大きな流路がその要素のひとつになっただけ、と考えるほうが適切だろう。

上流部であるこの那波郡・児玉郡付近について、天正10年(1582) 以後と推定される年不詳の『反町大膳助申状案』※1には以下のように書かれ、近世 武蔵国 賀美郡 金窪村付近とみられる「かなくほの原」が「上野国」とみなされている。

天正10年(1582) 以後: 反町大膳助申状案

滝川伊与守所々罷在候時、上野国かなくほの原ニて、高名仕候、

また、近世 武蔵国 賀美郡 八町河原村にあたる、八町河原 稲荷神社の石宮銘※2には、寛永4年(1627) の年紀とともに以下のように彫られている。

寛永4年(1627): 八町河原 稲荷神社の石宮銘

施主敬白 上州那波之郡八丁河原村

一方で、永禄7年(1564)『武田信玄書状写』※3には以下のように書かれ、久々宇村は本庄に連続する地域として (または本庄領の久々宇村として) 武蔵国とみなされている。

永禄7年(1564): 武田信玄書状写

何敵地之麦作悉苅執、和田・天引・高田・高山江籠置、倉賀野・諏訪・安中之苗代薙払、其上武州本庄・久々□迄放火

また、天正8年(1580)『北条氏邦印判状』※4にも以下のように書かれ、仁手村・宮古島村は、金窪村や五十子村 (近世 児玉郡 東五十子村・西五十子村) など武蔵国の郷村とともに一体的に把握されている。

天正8年(1580): 北条氏邦印判状

栗崎・五十子・仁手・今井・宮古嶋・金窪、かんな川境彷示ニ可取之候、然者、深谷御領分榛澤・沓かけ幷あなし・十條きつて、しほ荷おさへ候事

これらからは、上野郡 新田郡 反町村から出て付近で活動した反町氏※5や、国界の変動が反映されにくいか、反映が遅い傾向にある石宮銘には上野国とみなされる一方、新たに進出してきた勢力からは武蔵国の延長とみなされ、おそらく地理的な連続性が影響を与えている。

中下流部、榛沢郡・幡羅郡の中世は新田庄を構成していた。横瀬村・中瀬村 (古くはすみ郷)・高島村・石塚村・小島村は、文永5年(1268)『得川頼有譲状』※6・仁安3年(1168)『新田義重置文』※7・元久2年(1205) 『将軍源実朝下文案』※8・建保3年(1215)『将軍(源実朝)家政所下文案』※9・康正年間(1455~1457)頃と推定される『新田庄内岩松方庶子方寺領等注文』※10のそれぞれに初出で、以後も新田庄として経過する。

Fig.738 文永5年(1268): 得川頼有譲状(部分・新田岩松古文書之写 上 所収・国立公文書館所蔵)
文永5年(1268) 得川頼有譲状

49. とくかわのかう (得川郷)・19. よこせのかう (横瀬郷)

49. と𛀬か𛄊𛂜かう・19. よこせのかう

Fig.739 仁安3年(1168): 新田義重置文(新田岩松古文書之写 上 所収・国立公文書館所蔵)
仁安3年(1168) 新田義重置文

①にたのみさう (新田御庄) ②おうなつか (女塚) ③えたかみしも (江田上下) ④たなか (田中) ⑤おおたち (大舘; 大館) ⑥かすかわ (糟川; 粕川) ⑦こすみ (小角) ⑧をしきり (押切) ⑨いてつか (出塚) ⑩せらた (世良田) ⑪みつき (三木; 三ツ木) ⑫かみいまい (上今井) ⑬しもいまい (下今井) ⑭かみひらつか (上平塚) ⑮しもひらつか (下平塚) ⑯きさき (木崎) ⑰丁ふくし (長福寺) ⑱たこう (多古宇; 高尾) ⑲やきぬま (八木沼)

①に𛁠𛂜みさう ②𛀕う𛂅𛁭𛀙 ③𛀁𛁠かみ𛁈も ④𛁠𛂅𛀙 ⑤𛀕ヽ𛁠ち ⑥𛀚𛁏か𛂞 ⑦こ𛁏み ⑧をしき𛃲 ⑨いて𛁭𛀙 ⑩せ𛃰𛁠 ⑪み𛁭き ⑫𛀙みい𛃄い ⑬𛁈もい𛃄い ⑭かみひ𛃰𛁭𛀚 ⑮𛁈𛃚ひ𛃰𛁭𛀚 ⑯きさき ⑰丁ふ𛀬し⑱𛁠こう ⑲𛃝きぬま

Fig.741 新田岩松古文書之写 上 所収・国立公文書館所蔵Fig.742 康正年間(1455~1457)頃: 新田庄内岩松方庶子方寺領等注文(部分・新田岩松古文書之写 下 所収・国立公文書館所蔵)

しかしこうしょう年間(1455~1457)頃と推定される『岩松もちくに知行分注文』※11には、上野国 新田荘の高島郷・横瀬郷 (近世 武蔵国 はんざわ郡の高島村・よこ村) に「彼二ケ所依爲河向御敵知行」とあり 、この 2郷はすでに本流とみなせる河川流路の向こう側、つまり上野国 (左岸・北岸) 視点で武蔵国の側 (右岸・南岸) にあって、対抗勢力に奪われていることがわかる。

Fig.740 康正年間(1455~1457)頃: 岩松持国知行分注文(部分・新田岩松古文書之写 下 所収・国立公文書館所蔵)

したがって寛永年間の洪水も、流路に大きな影響を与えた可能性は特に否定しないが、それがこの付近における上野・武蔵の領域再編の直接的な要因だったとはいえない。

天正18年(1590) 関東入国後の徳川家康による知行割は、後北条氏の所領単位に基づくものだったことが知られている。『大神君関東御入国知行割』によれば「北条衆持城領主跡」を家臣に割り当て、本庄ちかとも旧領の「武州本庄」の「壱万石」は小笠原のぶみねに与えられた。

Fig.639 大神君関東御入国知行割 (部分・国立公文書館所蔵)

このとき後北条氏の領域認識が家康に継承され、その後の再編の過程で近世の上野・武蔵の国界は確定し、正保の武蔵国郷帳・国絵図 (『武蔵田園簿』『正保年中改定図』) へ反映されたのだろう。しかし関東入国後~江戸初期における当地の具体的な景観は明らかではなく、具体的な時期を含むその詳細を知ることはできない。都島村に現存するけいちょう17年(1612) の検地帳表紙に「上州国那波郡 都嶋村」とあること※12からいえば、『上野国志』が寛永年間(1624~1644) としていることについて積極的に否定する理由もない。元和9年(1623) に家光が第3代将軍となって朱印状の発給 (御朱印改め) が順次行われていたころに当たるので※13、その過程で見直されたのではないかと推定される。

上野国志

『上野国志』は上野国の地誌、毛呂権蔵著、全15巻。安永3年(1774) 成立。

Fig.640 上野国志 叙 中川忠英旧蔵 (部分・国立公文書館所蔵)

なお、以下にあげるように史料によっては混乱が存在する。

#史料内容
1寛政重脩諸家譜内藤信広の叙述部分に「元和元年上野國沼和田村久々宇村にをいて采地千石をたまはり」とあり※14、元和元年(1615) にあっても沼和田村・久々宇村は上野国とされている。
4岩松持国闕所注文享徳4年(1455) 『岩松持国闕所注文』※15には「武州新開鄕事 (新開 加賀守蹟)」とあり、近世 武蔵國 はんざわしんがい村などに相当する新開郷は武蔵国とみなされている。一方、天正14年(1586) 『北条家朱印状』※16では「下新開」について「新田領檢地奉行前より可請取之」とあり、「下新開」は「新田領」として把握されている。
4小田原衆所領役帳おだわらしゅうしょりょうやくちょう松山衆・太田豊後守に「九十貫文」「寄子給ニ被下 御奏者遠山」として「上州高嶋郷」がある。
^ ※1: 『新編高崎市史 資料編4 中世2』(1994) 所収、#628・c.292。
^ ※2: 『上里町史 別巻』(1998)、c.251。
^ ※3: 永禄7年(1564) 5月17日付、『新編高崎市史 資料編4 中世2』(1994) 所収、#327・c.187。
^ ※4: 天正8年(1580) 12月1日付、『新編埼玉県史 資料編6 中世2 古文書2』(1980) 所収、#1052・c.318。
^ ※5: 文永5年(1268) 5月30日付、『新編高崎市史 通史編2 中世』(2000)
^ ※6: 文永5年(1268) 5月30日付、『群馬県史 資料編5 中世1 古文書・記録』(1978) 所収、正木#15・c.107。
^ ※7: 仁安3年(1168) 6月20日付、『群馬県史 資料編5 中世1 古文書・記録』(1978) 所収、正木#2・c.103。
^ ※8: 元久2年(1205) 8月付、『群馬県史 資料編5 中世1 古文書・記録』(1978) 所収、正木#4・cc.103-104。
^ ※9: 建保3年(1215) 3月22日付、『群馬県史 資料編5 中世1 古文書・記録』(1978) 所収、正木#6・c.104。
^ ※10: 『群馬県史 資料編5 中世1 古文書・記録』(1978) 所収、正木#104・cc.142-143。
^ ※11: 『群馬県史 資料編5 中世1 古文書・記録』(1978) 所収、#99・c.141。
^ ※12: 『本庄市史 通史編2』(1989)、c.135。なお、本文では「上州那波郡」となっているが、写真で確認できる実物では「上州国那波郡」となっている。この場合「国」は不要だが、同様の記述はほかでも散見される。全体は「上州国那波郡 都嶋村 御縄打水帳 慶長拾七年子寅九月廿七日」。
^ ※13: 関係する村々の中では、寛永2年(1625) 都島村・八町河原村で発給されている (本庄市史 通史編2,1989)。
^ ※14: 『寛政重脩諸家譜 第5輯』(1917)、c.120。
^ ※15: 『群馬県史 資料編5 中世1 古文書・記録』(1978) 所収、正木#66・cc.118-119。
^ ※16: 天正14年(1586) 7月24日付、『群馬県史 資料編7 中世3 編年史料2』(1986) 所収、#3434 および #3436・c.485。