27.4. 桐生川 (寛文8年・延宝元年)
27.4.1. 変動の要因と時期: 寛文8年・延宝元年

近世のかみびし村・しもびし村・とも村にあたる一帯 (『菱地区』) は、けいあん元年(1648) までに上野こうずけ国から下野しもつけ国に移され、国界は東の稜線から西の桐生きりゅう川へ変更されたが、その後再び変動し、下野から上野国に戻された。

Fig.157 桐生川 (下野・上野国界): 寛文8年(1668)

上菱村・下菱村は、けいあん元年(1648) の『正保下野国郷帳』(東野地誌)・『正保下野国絵図』(中川忠英旧蔵 下野国絵図) に足利郡として含まれる (小友村はこの時点では成立していない)。

Fig.546 正保下野国絵図・郷帳

また慶安2年(1649) 下菱村の泉竜院に宛てた朱印状には「野州梁田郡桐生領下菱村泉龍院領」とあり※1かんぶん6年(1666) の上菱村・下菱村の検地帳表紙には「野州梁田那桐生領上菱村御繩水帳」「野州梁田那桐生領下菱村御繩水帳」とある※1

しかし『寛文上野国郷帳』・『寛文上野国絵図』に、上菱村・下菱村は山田郡として含まれ、寛文8年(1668) 前後に変動があったことがわかる。

Fig.551 寛文上野国絵図・郷帳

一方、その直後のえんぽう元年(1673) に作成された検地帳の表紙には「野州梁田郡上菱村検地水帳」とあり、三たび国界に変動があったことがわかる。ほかにてん3年(1683) のめんわりにも「野州梁田郡上菱村」とある※1

Fig.158 (参考) 桐生川 (上野・下野国界): 延宝元年(1673)

実際には、変動の目まぐるしさや検地帳・免割が一貫して梁田那としていることからいって、何らかの混乱から生じた不整合というほうが正しく、あるいは郷帳・国絵図と検地帳・免割で認識に相違があるまま経過してしまったのだろう。正保下野国絵図・郷帳で上菱村・下菱村は足利郡であり、郡についてはそもそも一致していない。この状況が是正されるのはげんろく年間であって、延宝元年(1673) の上菱村検地帳の添書に「元禄十四年巳十一月下嶋甚右衛門様より足利郡被仰渡候」とあり、上菱村の旧記 (小島旧記) や「黒川村地誌」にも同様の記述がある※1。元禄国絵図・郷帳作成の段階でようやく不整合があることに気がつき、改められたのだろう。

27.4.2. 在地における国郡認識

上記のとおり、上菱村・下菱村の国郡認識が在地で改まったのは元禄14年(1701) である。ただしこれは郡について「梁田郡ではなく足利郡である」と認識したものであって、在地における認識上、国は常に「下野国」のままで変わっていない。

^ ※1: 『菱の郷土史』(1970)。