27.3. 渡良瀬川
27.3.1. 変動の要因と時期: 寛文8年(1668)

古代の渡良瀬川本流は、現在よりも南を流れて下野しもつけ上野こうずけ国界となっていたが、えいろく年間 (1558~1570) の氾濫をきっかけに現在に近い流路になったとされる※1。もとの本流は水量を減らしたものの矢場川として残った。その後、渡良瀬川と矢場川の間に位置した村々のうち下流部 (東部) の村々は、かんぶん8年(1668) 下野国から上野国に移された。

Fig.132 渡良瀬川 (下野・上野国界): 寛文8年(1668)

寛文元年(1661) 松平のりひさ (のり寿ながの子) に代わって徳川綱吉が館林に入り、このとき周辺の所領は広範囲に再編された。この過程で国郡の整理が再び行われたのではないかと推定される。また『厳有院殿御実紀』の寛文4年(1664) 6月24日の記事によれば上野国絵図の作成が命じられているので、明暦の大火で失われた正保国絵図の再提出も兼ねて (『7. 正保国絵図』を参照)、このとき寛文上野国郷帳・国絵図が作成されたのだろう。

Fig.743 厳有院殿御実紀 第28巻 写本 (部分・国立公文書館所蔵)

正保の下野国郷帳 (東野地誌)・国絵図 (中川忠英旧蔵) では、除川村・西岡村・西岡新田村は安蘇郡に、しも早川さがわ村・足次村・かみ早川さがわ村・傍示塚村・木戸村は簗田郡 (梁田郡) にそれぞれ含まれる。

Fig.547 正保下野国絵図・郷帳

一方、寛文の上野国郷帳・国絵図 (中川忠英旧蔵) ではすべて邑楽郡に含まれる。

Fig.552 寛文上野国絵図・郷帳

したがって各村は寛文8年(1668) 以後、上野国に移されたことがわかる。なお、正保の下野国郷帳 (東野地誌)・国絵図 (中川忠英旧蔵) のどちらにも含まれない北大島村・大新田村はその後に成立したといえる。

えんきょう5年(1748) に作成された『日向村田方畑方たんべつ石高覚』※2によれば、寛文4年(1664) 木戸村から上早川田村付近まで「新川」を掘削し、これによって各村は野州 (下野国) 安蘇郡・梁田郡から上州 (上野国) 邑楽郡に改まったという。つまり流路を人工的に短絡し、より上流で矢場川 (渡良瀬川の旧流路) を渡良瀬川 (新流路) に合流させた結果であるという。

しかし、この短絡部は形状からいってもすべて人の手によるものとは考えられない。『群馬県邑楽郡誌』(1917) に引用されている『木戸村由来記』によれば、もともと 流路は 2つあったが南の流路は浅く、堆積によって自然に埋まってしまったとあり、こちらのほうが経過を的確に描写している。何らかの土木作業が行われた可能性も否定できないが、その場合は流れが滞るようになっていた南の流路を完全に締め切った上で、北の流路 (短絡部) を浚渫・拡幅した程度と考えられる。なお河川流路についてはこれまでも見てきたとおりで (『21.1.3. 国界と河川』も参照)、えいろく年間 (1558~1570) の氾濫も、本流の選択に決め手を与えた可能性は特に否定しないが、新旧どちらの流路もすでにあって、旧流路 (矢場川) は土砂の堆積がかなり進行していたと推定される。

^ ※1: 『館林市誌 歴史編』(1969)『近代足利市史 第1巻 通史編』(1977)『板倉町史 通史 上巻』(1985)
^ ※2: 『館林市誌 歴史編』(1969) 所収。