27.5.1. 変動の要因と時期: 元禄15年(1702)

元禄15年(1702) 上野こうずけみど村の東西で、上野・武蔵むさしの国界は西へ移動した。

Fig.134 神流川 (上野・武蔵国界): 元禄15年(1702)

新編武蔵風土記稿には以下のように書かれている。

Fig.606 新編武蔵風土記稿 第243巻 (部分・国立公文書館所蔵)
新編武蔵風土記稿 第243巻

肥土村は、古く上野国に属して緑埜郡内たりしに、元禄十四年当国に属すと云う。されば同国寛文中の国図にはなお当村を載せ、当国々図の如きは元禄改定の時より初めてこの地を記せり

当村寛文中は御料所のほか酒井雅楽頭の領分たること、上野国寛文八年の郷帳に載たり

神流川 村の西を流る、幅三百間ばかり

原文: 肥土村ハ古上野國ニ属シテ緑埜郡内タリシニ元禄十四年當國ニ属スト云サレバ同國寛文中ノ國圖ニハ猶當村ヲ載セ當國々圖ノ如キハ元禄改定ノ時ヨリ初テコノ地ヲ記セリ

原文: 當村寬文中ハ御料所ノ外酒井雅樂頭ノ領分タルコト上野國寬文八年ノ郷帳ニ載タリ

原文: 神流川 村ノ西ヲ流ル幅三百間許

上にもあるとおり、寛文8年(1668) の寛文上野国国絵図・郷帳に肥土村は含まれている。Fig.744 寛文上野国郷帳 (部分・国立公文書館所蔵)

武蔵国の正保年中改定図では中洲だけが表現され、元禄年中改定図でここに肥土村が描かれた。

Fig.605 新編武蔵風土記稿 第243巻: 賀美郡 正保・元禄年中改定図 (国立公文書館所蔵)

きっかけは肥土村と武蔵国 もと村の間で起こった争論 (境論) だった。群馬県多野郡誌(1927/1977) で引用されている裁許絵図裏書によれば、神流かんな川の中洲のようになっていた肥土村について東西の流れを現地で確認したところ、東側 (武蔵国寄り、古川) は不確かである一方、西側 (上野国寄り、新川) は明瞭かつすでに長くその状態になっていたことがかわった。このため以後は新川を神流川の本流とし、その中央をもって上野・武蔵の国界を定め、肥土村は武蔵国 賀美郡に編入する、との裁許が下った。

具体的な対立内容・経過はわからないが、国界が問題となっていることと位置関係から、変動前後の国界 (古川・新川) が合流する肥土村北端付近の土地の帰属が争点だったと考えられる。ここにおそらく中洲が伸長した部分があって (中洲は川下側へ成長する) 元安保村は新川が国界であるとした上で、同村から見て新川へ向かって村域を伸ばした部分は武蔵国かつ元安保村の土地であると要求したのだろう。

裁許の結果、新川が上野・武蔵の国界と定まり、肥土村は武蔵国 賀美郡に編入された。つまり国界については元安保村の主張が全面的に認められた。しかし同時に肥土村が武蔵国 賀美郡に編入されてしまったため、国界を根拠に権利を主張することはできなくなってしまった。対象の土地 (論所) の帰属がどうなったのかは、裁許絵図の本体 (表の面) を参照できないためわからない。中洲の性格上、川下側で延びても川上側は削られ、結果的に中洲全体が少しずつ川下へ移動していくものなので、論理的に判断されていれば元安保村の主張は認められなかったと考えられる。

27.5.2. 元禄国絵図・郷帳との関係

元禄国絵図・郷帳では隣国相互の確認が義務づけられ、国界を巡る未決着の争論は許容されなかった (『8. 元禄国絵図』を参照)。時期が重なることから肥土村と元安保村の対立もこれが発端だったと考えられる。ただしこの場合でも、たとえば入会地として平和的に共有できていたにもかかわらず争いにまで発展してしまったというより、以前からくすぶっていたものにいよいよ火が着いてしまったといったところだろう。

27.5.3. 裁許絵図と双方の主張

裁許絵図裏書によれば、裁許絵図には「肥土村・元安保村ノ田畑・林・屋敷・水路・道路ヨリ村境ニ至ルマデ、悉ク記載シタル」(句読点・中黒は本稿で補う) という。群馬県多野郡誌(1927) 刊行時点では「埼玉県丹荘村役場所蔵」、本稿執筆時点で埼玉県立文書館には元禄15年(1702) 11月12日の日付を持つ「武蔵国賀美郡元安保村上野国緑埜郡肥土村国境論裁許絵図」(文書群番号: 目録047・文書番号: 高橋(周)家386) が収蔵されているので現存しているが、館内閲覧用も含めてデジタル化はされていない。

同じく裁許絵図裏書によれば、元安保村の主張は「先規ノ境ヨリ五明堀ヲ限川越海道ヘ引付境界相極候」だった。「五明堀」は元安保村・四軒在家村の境界付近から神流川から取水し、五明村方面へ流れていた用水だが、大御堂村方面などへ分派していた※1。「川越街道」は迅速測図原図で確認できる街道 (神流川は徒歩で渡河) と思われる。いずれにせよ前後がないため正確な文意はわからない。埼玉県立文書館には元禄14年(1702) 2月の日付を持つ「肥土村百姓上武国境改変ニ付訴状」(文書群番号: 目録047・文書番号: 高橋(周)家365) が収蔵されているが、やはりデジタル化はされていない (貴重文書の指定はないので来館すればすぐに閲覧は可能と思われる。裁許絵図は申請が必要)。肥土村の主張はわからないが、基本的に端緒は元安保村であって反論する立場だったと推定される。

^ ※1: 名称および『神川町誌 資料編』(1992) 所収の『寛政八年五明堰用水取水出入訴状』に「私共五明・帯刀・長浜三ケ村組合用水之義は、神流川ゟ引込字名五明堰ト申」、同じく『四軒在家村村誌取調書上帳』に「字五明川、巾弐間・深サ五尺。右堀、元阿保村界ゟ南北八丁、長濱村・大御堂村界ニ入」(句読点・中黒は筆者が補う) とある。