ここでは、近代に変更された下総・常陸国界 (国境) とその変動したエリアについて分析しています。
そもそもどこか?
変動の舞台は、近世 下総国 香取・埴生 2郡の利根川以北であり、現在の茨城県 河内町の東部 (旧・金江津村) と稲敷市の南東部 (旧・東町) に相当する。それぞれ括弧内は、いわゆる昭和の大合併以前および平成の大合併以前の自治体である。地形図にその範囲を重ねて示せば以下のとおり。

天保郷帳・国絵図の村々
近世 下総国 香取郡※1
- 1. 片巻村
- 2. 下加納新田※2
- 3. 金江津村※3
- 4. 小浮村
- 5. 平川村
- 6. 野馬込村
- 7. 松崎新田※4
- 8. 十三間戸村
- 9. 四谷村※5
- 10. 清久島村
- 11. 神崎村※6※7
- 12. 並木村
- 13. 郡村※8
- 15. 立野村
- 16. 植房村
- 17. 小松村※9
- 18. 高村※10
- 19. 名木村※11
- 20. 冬父村
- 21. 中里村
- 22. 小野村※12
- 23. 大和田村※13
- 24. 高岡村
- 25. 猿山村※14
- 26. 滑川村※15
- 27. 西大須賀村※16※17
- 28. 高倉村
- 29. 名小屋村※18※19
- 30. 大菅村※20
- 31. 七沢村
- 32. 成井村※21
- 33. 倉水村
- 34. 青山村※22
- 40. 古山村※23※24
- 52. 西坂村※25
- 53. 西部田村
- 54. 堀之内村
- 55. 寺内村
- 56. 上小川村※26
- 58. 大戸村※27
- 59. 山野辺村※28
- 60. 玉造村
- 61. 新寺村※29
- 62. 岩ケ崎村※30
- 63. 森戸村
- 64. 大戸川村※31
- 65. 谷中村
- 66. 中島村※4
- 67. 飯島村
- 68. 石納村
- 69. 野間谷原村※32
- 70. 野馬埜原村新田※33
- 71. 川尻村
- 72. 高谷村
- 73. 今村※34
- 74. 曲渕村※35
- 75. 押砂村※35
- 76. 橋向村
- 77. 佐原組新田
- 78. 手賀新田※36
- 79. 六角村※4
- 80. 五箇村新田※37
- 81. 結佐村※38※4
- 82. 上須田村
- 83. 上島村※4※39
- 84. 西代村※4
- 85. 八筋川村※4
- 86. 卜杭村※4※40※41※42
- 87. 大島村※4
- 88. 三島村※4
- 89. 境島村※4
- 95. 中洲村※4※43
- 96. 長島村※4
- 97. 佐原村※44
- 98. 佐原新田
- 99. 篠原村※45
- 104. 香取村※46
- 107. 新部村※47※48
- 110. 牧野村※49
変動したのは濃淡の紫色で示した範囲であり、淡紫色が変更前の国界 (国境)、濃紫色が変更後の国界である。『天保下総国絵図』で示せば、以下の部分である。

注釈
要因と経過
明治32年(1899) 2月7日付の法律第4号 (千葉県茨城県境界変更法律、官報 2月8日) による。すべて地形的な飛び地に起因する行政上の不便を解消するためであり、県境と連動して国界は変更された。条文は以下のとおりである。なお、説明の便宜上、本稿では数字ではなく Ⓐ Ⓑ Ⓒ Ⓓ の記号で各条文を指し示すものとする。
Ⓓ千葉県 下総国 東葛飾郡 二川村 大字新田戸・大字桐ケ作のうち各中利根川以北を、茨城県 下総国 猿島郡 森戸村に編入する。
Ⓔ千葉県下総国 東葛飾郡 二川村 大字古布内のうち中利根川以北、および千葉県 下総国 東葛飾郡 木間ケ瀬村 大字木間ケ瀬のうち中利根川以北を、茨城県 下総国 猿島郡 長須村に編入する。
Ⓕ千葉県 下総国 東葛飾郡 我孫子町 大字青山のうち中利根川以北を、茨城県 下総国 北相馬郡 取手町に編入する。
Ⓖ千葉県 下総国 東葛飾郡 布佐町 大字布佐のうち下利根川以北を、茨城県 下総国 北相馬郡 布川町に編入する。
Ⓐ千葉県 下総国 香取郡 金江津村 (下利根川以南を除く) を茨城県 常陸国 稲敷郡に編入し、千葉県 下総国 印旛郡 豊住村 大字田川をその金江津村に編入し、千葉県 下総国 香取郡 金江津村 大字平川のうち下利根川以南を千葉県 下総国 香取郡 高岡村に編入する。
Ⓑ千葉県 下総国 香取郡 十余島村を茨城県 常陸国 稲敷郡に編入し、千葉県 下総国 香取郡 神崎町 大字小松・大字神崎神宿・大字神崎本宿・大字今のうち各下利根川以北、および千葉県 下総国 香取郡 本新島村 大字野間谷原のうち下利根川以北をその十余島村に編入する。
Ⓒ千葉県 下総国 香取郡 本新島村 (下利根川以南を除く) を茨城県 常陸国 稲敷郡に編入し、千葉県 下総国 香取郡 新島村 大字八筋川・大字境島・大字大島・大字三島のうち各横利根川以西、および千葉県 下総国 香取郡 佐原町 大字佐原のうち横利根川以西をその本新島村に編入し、千葉県 下総国 香取郡 本新島村大字川尻・大字大戸新田、および大字野間谷原・大字石納・大字飯島のうち各下利根川以南を千葉県 下総国 香取郡 東大戸村に編入する。
Ⓗ茨城県 下総国 猿島郡 中川村 大字長谷・大字小山・大字莚打のうち各中利根川以南を、千葉県 下総国 東葛飾郡 川間村に編入する。
Ⓘ茨城県 下総国 北相馬郡 稲戸井村 大字稲のうち中利根川以南、および茨城県 下総国 北相馬郡 取手町 大字取手のうち中利根川以南を、千葉県 下総国 東葛飾郡 我孫子町に編入する。
一千葉縣下總國東葛飾郡二川村大字新田戸ノ内大字桐ケ作ノ内中利根川以北ヲ茨城縣下總國猿島郡森戸村ニ編入ス
二千葉縣下總國東葛飾郡二川村大字古布内ノ内中利根川以北及千葉縣下總國東葛飾郡木間ケ瀬村大字木間ケ瀬内中利根川以北ヲ茨城縣下總國猿島郡長須村ニ編入ス
三千葉縣下總國東葛飾郡我孫子町大字青山ノ内中利根川以北ヲ茨城縣下總國北相馬郡取手町ニ編入ス
四千葉縣下總國東葛飾郡布佐町大字布佐ノ内下利根川以北ヲ茨城縣下總國北相馬郡布川町ニ編入ス
五千葉縣下總國香取郡金江津村 (下利根川以南ヲ除ク) ヲ茨城縣常陸國稻敷郡ニ編入シ千葉縣下總國印旛郡豊住村大字田川ヲ右金江津村ニ編入シ千葉縣下總國香取郡金江津村大字平川ノ内下利根川以南ヲ千葉縣下総國香取郡高岡村ニ編入ス
六千葉縣下總國香取郡十余島村ヲ茨城縣常陸國稻敷郡ニ編入シ千葉縣下總國香取郡神崎町大字小松ノ内大字神崎神宿ノ内大字神崎本宿ノ内大字今ノ内下利根川以北及千葉縣下總國香取郡本新島村大字野間谷原ノ内下利根川以北ヲ右十余島村ニ編入ス
七千葉縣下總國香取郡本新島村 (下利根川以南ヲ除ク) ヲ茨城縣常陸國稻敷郡ニ編入シ千葉縣下總國香取郡新島村大字八筋川ノ内大字境島ノ内大字大島ノ内大字三島ノ内横利根川以西及千葉縣下總國香取郡佐原町大字佐原ノ内横利根川以西ヲ右本新島村ニ編入シ千葉縣下總國香取郡本新島村大字川尻大字大戸新田及大字野間谷原ノ内大字石納ノ内大字飯島ノ内下利根川以南ヲ千葉縣下總國香取郡東大戸村ニ編入ス
八茨城縣下總國猿島郡中川村大字長谷ノ内大字小山ノ内及大字莚打ノ内中利根川以南ヲ千葉縣下總國東葛飾郡川間村ニ編入ス
九茨城縣下総國北相馬郡稻戶井村大字稻ノ内中利根川以南及茨城縣下総國北相馬郡取手町大字取手ノ内中利根川以南ヲ千葉縣下総國東葛飾郡我孫子町ニ編入ス
各条文のうち、国界の変動をともなうのはⒶ~Ⓒである。Ⓓ~Ⓘは、同じ下総国の中で県の管轄が千葉県と茨城県の間で移管されたに過ぎない。そこで、以下Ⓐ~Ⓒについてそれぞれの位置と範囲を分析し、さらに関係するトピックを扱ってから、最後に参考としてⒹ~Ⓘを扱いたいと思う。
位置と範囲の特定: 金江津村の大部分と豊住村 田川
この部分は、条文Ⓐに基づく国郡の変更である。ややわかりづらい文章だが、要約すれば、大字平川の利根川以南を除く下総国 香取郡 金江津村と、同 印旛郡 豊住村 大字田川が常陸国 稲敷郡に移され,これらの北にあった下総・常陸国界が南の利根川流路へと変動した。変動した領域は、近世 下総国 香取郡の片巻村・下加納新田・金江津村・十三間戸村の全部と平川村の利根川以北、および埴生郡の田川村にあたる。
これらのうち、除外された平川の利根川以南は、現在の地理院地図でその所在を確認することはできない。しかし、以下の明治4年に作成された絵図『五箇村利根川沿岸絵図』※1に「平川村地」とある部分を指しているものと推定される。

この「平川村地」は、北岸の本村に対する対岸の飛び地である。天保下総国絵図では中洲として描かれていることから、南北の流路のうち南の流路が閉塞した結果、南岸と一体化した土地とみられる。『五箇村利根川沿岸絵図』でも、わずかながら下流側に南北流路の合流部と思われる痕跡を確認できる。用途は不明だが、堤外地かつ最も流路に近い位置にあることから、草苅場 (秣場・茅場など) として利用する程度だったかと思われる。現在はそのまま河川敷か流路になっていると考えられる。
注釈
位置と範囲の特定: 十余島村と神崎神宿・神崎本宿などの一部
この部分は、条文Ⓑに基づく国郡の変更である。下総国 香取郡 十余島村の全体、および同 神崎町 小松・神崎神宿・神崎本宿・今と同 本新島村 野間谷原の各一部が常陸国 稲敷郡へ移され、やはり国界は利根川流路へと変動した。
十余島村
近世 下総国 香取郡 の四谷村・清久島村・曲渕村・押砂村・橋向村・佐原組新田・手賀新田・六角村・五箇村新田・結佐村の全部、および今村の一部にあたる。このうち「手賀新田」については、在地では「手賀組新田」と呼ばれ、近代の大字も「手賀組新田」である。また、「四谷村」に対応するは大字は「余津谷」である一方、今村の一部に対応する大字は「四ツ谷」であり、かなり紛らわしいが、この四ツ谷と余津谷の問題については「四ツ谷・余津谷」にまとめた。五箇村新田についても「五箇村新田」を参照のこと。
なお、前述の『五箇村利根川沿岸絵図』には「四ツ谷村地」という区画が存在し、別の『野馬込村村鏡明細帳』※1にも「四ツ谷村分持添地」を確認できる。つまり、この「四ツ谷村」が四谷村 (のちの大字余津谷) と今村の一部 (同四ツ谷) のどちらを指しているのかはわからないが、いずれにせよ、どちらかの対岸飛び地が当時存在していた (画像からも明らかなように『五箇村利根川沿岸絵図』は南岸を描いた絵図である)。

しかし、法律第4号 (千葉県茨城県境界変更法律) の目的からいえば、「四ツ谷村地」(四ツ谷村分持添地) は分離され、下総国 (千葉県) に残るべき部分である。それにもかかわらず、条文Ⓑにこれについての言及がないのは、同法律における地名の詳細さから考えると脱漏とは考えづらい。したがって、それ以前に処分されたととらえるのが自然ではあるが、詳細は不明である。
神崎町 小松・神崎神宿・神崎本宿・今の利根川以北
近世下総国 香取郡 小松村・神崎村・今村のそれぞれ一部にあたる。小松村・神崎神宿・神崎本宿は、余津谷と同じ旧中洲にあった飛び地であり、東側の区画の大部分または全部とその周囲の草苅場 (秣場・茅場など) だったと推定される。今については、対岸にあった狭隘な草苅場 (秣場・茅場など) か流作場と思われるが、具体的な位置と範囲、およびその後の経過については情報を得られずわからない。少なくとも河川敷になるなど、実質的には現存しないものと推定される。
なお、神崎本宿には北方やや離れた位置にも飛び地が現存する。これは新田開発の過程で形成された集落の一部と推定される。
本新島村 野間谷原の利根川以北
近世 下総国 香取郡 の 野間谷原村 ・ 野馬埜原村新田の一部 にあたる。対岸にあった流作場か草苅場 (秣場・茅場など) と思われるが、詳細については情報を得られずわからない。すでにほかの大字に編入され、地名・地籍は消滅しているものと推定される。
注釈
位置と範囲の特定: 本新島村の利根川以北と新島村の横利根川以西
この部分は、条文Ⓒに基づく国郡の変更である。条文Ⓐと同様にややわかりづらい文章だが、要約すれば、下総国 香取郡 本新島村の上須田・上之島・西代の全体と石納・飯島の各利根川以北、および同 新島村の八筋川・境島・大島・三島・佐原の各横利根川以西が常陸国 稲敷郡に移され、国界は利根川と横利根川の流路へと変動した。
本新島村の上須田・上之島・西代
近世 下総国 香取郡の上須田村・ 上島村・西代村にあたる。
本新島村の石納・飯島の各利根川以北
近世 下総国 香取郡 飯島村・石納村のそれぞれ一部にあたり、南岸の本村に対する利根川対岸 (北岸) の飛び地である。
それぞれの村が開発した新田と付随する集落と考えられ、現存するため、その具体的な位置と範囲、およびその後の経過は明瞭である。
新島村 八筋川・境島・大島・三島・佐原の各横利根川以西
近世 下総国 香取郡の卜杭村の全部と、大島村・三島村・境島村のそれぞれ一部、および佐原新田のうち「下手」(したて/しもて) と呼ばれる部分にあたる。
卜杭村は八筋川村の枝郷であり、明治32年(1899) の時点ではその一部となっていた※1。このため、現在の稲敷市の大字も「卜杭」ではなく「八筋川」であり、横利根川を挟む香取市の「八筋川」と相対している。
大島村・三島村・境島村のそれぞれ一部は、横利根川の対岸 (東岸) にあった飛地、またはその延長に相当する部分である。迅速測図原図によれば、霞ケ浦の湖岸に発達した葦原の一部を水田として開発した部分とわかるが、基本的には堤外地の流作場相当だったと考えられる。ただし、葦原は南西に向かって発達する傾向にあり、前述の卜杭村 (現在の稲敷市八筋川) の部分は、明治初期の時点で干拓された形跡も確認できる。
佐原新田は、佐原村を親村 (母体) とする新田である。荒川・砂場・向洲と呼ばれる部分は、親村の対岸に近接する横利根川の右岸 (東岸) に存在していた。一方で、下手はその部分からは離れた左岸 (西岸) に位置していた。なお、現在の稲敷市に現存する大字「佐原下手」は「さわらしたて」と読むが、佐原市史(1966) では「下手」を「しもて」と読んでいる。
注釈
四ツ谷・余津谷
「四ツ谷」と「余津谷」は、どちらも十余島村の一部として下総国から常陸国へ移された地区だが、非常に紛らわしく混乱しやすい。ここではこの 2つの地名について、関係する付近の「四ツ谷」も含めて整理する。
四ツ谷
現在の稲敷市 四ツ谷は、近世 下総国 香取郡 今村の一部である四谷にあたる。津藩 (安濃津藩・藤堂藩) 領であり、同様の香取郡 諸村とともに大貫村に置かれた陣屋によって管轄された。
| 地名 | 天保郷帳・国絵図 | 下総国輿地全図 | 利根川全図 | 迅速測図原図 | 旧高旧領取調帳 | その他史料 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 稲敷市 四ツ谷 | 含まれない(香取郡 今村の一部) | 下四ツ谷村 | 四ツ谷村 | 四谷村 | 含まれない(香取郡 今村の一部: 218.789石) | 宗国史: 「四谷」 |
| 稲敷市 余津谷 | 香取郡 四谷村 (27.62石) | 中四谷村 | 四ツ谷新田 | 中余津谷村※1 | 四ツ谷村 | 寛文4年(1664) 井上政清領知朱印状: 「余津屋村」宝永2年(1705) 高岡藩領十一か村差出帳: 「四津谷村」または「四ツ谷村」安政5年(1858) 井上筑後守領分覚帳: 「余津谷村」 |
| 成田市 四ツ谷 | 含まれない (香取郡 西大須賀村の一部) | 同左、石高の内訳は不明 | 省略 | |||
| 栄町 四ツ谷 | 印旛郡 布鎌※2四谷新田※3 (61.255石) | 四ツ谷新田 | 四ツ谷新田 | 四谷新田 | 布鎌※2四谷新田 (61.255石) | 省略 |
『下総国香取郡藤堂氏旧封邑之碑』※4によれば、「寛文十年割今村地為四谷村」といい、寛文10年(1670) に今村から分村した。『宗国史』※5を構成する『城和総志』の項目「四谷」にも「旧今村之支」とある。ただし、この記述からもわかるとおり、基本的には今村の枝村 (枝郷) であり、その一部として扱われた。『旧高旧領取調帳』でも今村に含められており、分けて記載された津藩領 300.826石・218.789石のうち、後者が当村分である※6※7。
迅速測図原図では「四谷村」とある (ただし位置は取り違えられており、隣の六角村と東西が逆になっている)。『下総国輿地全図』では「下四ツ谷村」、『利根川図志』では「四ツ谷村」である。
余津谷
現在の稲敷市 余津谷は、近世 下総国 香取郡 四谷村にあたり、少なくとも寛文4年(1664) 以降は江戸期を通じて、高岡村に陣屋を置いた高岡藩領である※8。表記については、『井上政清宛領知朱印状・目録』では「余津屋村」、宝永2年(1705)『高岡藩領十一か村差出帳』※9では「四津谷村」または「四ツ谷村」、安政5年(1858)『井上筑後守領分覚帳』※10では「余津谷村」、『元禄下総国絵図』・『同郷帳』および『天保下総国絵図』・『同郷帳』では「四谷村」、『旧高旧領取調帳』では「四ツ谷村」などと一定しない。
| 地名 | 天保郷帳・国絵図 | 下総国輿地全図 | 利根川全図 | 迅速測図原図 | 旧高旧領取調帳 | その他史料 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 稲敷市 四ツ谷 | 含まれない(香取郡 今村の一部) | 下四ツ谷村 | 四ツ谷村 | 四谷村 | 含まれない(香取郡 今村の一部: 218.789石) | 宗国史: 「四谷」 |
| 稲敷市 余津谷 | 香取郡 四谷村 (27.62石) | 中四谷村 | 四ツ谷新田 | 中余津谷村※1 | 四ツ谷村 | 寛文4年(1664) 井上政清領知朱印状: 「余津屋村」宝永2年(1705) 高岡藩領十一か村差出帳: 「四津谷村」または「四ツ谷村」安政5年(1858) 井上筑後守領分覚帳: 「余津谷村」 |
| 成田市 四ツ谷 | 含まれない (香取郡 西大須賀村の一部) | 同左、石高の内訳は不明 | 省略 | |||
| 栄町 四ツ谷 | 印旛郡 布鎌※2四谷新田※3 (61.255石) | 四ツ谷新田 | 四ツ谷新田 | 四谷新田 | 布鎌※2四谷新田 (61.255石) | 省略 |
石高は、『元禄下総国郷帳』『天保下総国郷帳』『旧高旧領取調帳』のどれも 27.62石で同じである※11。
迅速測図原図では「中余津谷村」とある。『下総国輿地全図』でも「中四谷村」だが、『利根川図志』では「四ツ谷新田」である。
その他の四ツ谷・四谷
現在の成田市には「四谷」、栄町には「四ツ谷」がそれぞれ存在する。前者は近世 下総国 香取郡 西大須賀村の一部、後者は印旛郡 布鎌四谷新田 (『布鎌』は周辺の新田に共通する冠称) にあたる。なお、『千葉県印旛郡誌』(1913) によれば、後者は寛文年間(1661~1673) に「香取郡四ツ谷村」からの移住により開発されたという。しかし、この『香取郡四ツ谷村』が稲敷市の四ツ谷と余津谷のどちらを指しているのかは、もはや不明である。
| 地名 | 天保郷帳・国絵図 | 下総国輿地全図 | 利根川全図 | 迅速測図原図 | 旧高旧領取調帳 | その他史料 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 稲敷市 四ツ谷 | 含まれない(香取郡 今村の一部) | 下四ツ谷村 | 四ツ谷村 | 四谷村 | 含まれない(香取郡 今村の一部: 218.789石) | 宗国史: 「四谷」 |
| 稲敷市 余津谷 | 香取郡 四谷村 (27.62石) | 中四谷村 | 四ツ谷新田 | 中余津谷村※1 | 四ツ谷村 | 寛文4年(1664) 井上政清領知朱印状: 「余津屋村」宝永2年(1705) 高岡藩領十一か村差出帳: 「四津谷村」または「四ツ谷村」安政5年(1858) 井上筑後守領分覚帳: 「余津谷村」 |
| 成田市 四ツ谷 | 含まれない (香取郡 西大須賀村の一部) | 同左、石高の内訳は不明 | 省略 | |||
| 栄町 四ツ谷 | 印旛郡 布鎌※2四谷新田※3 (61.255石) | 四ツ谷新田 | 四ツ谷新田 | 四谷新田 | 布鎌※2四谷新田 (61.255石) | 省略 |
前述のとおり、稲敷市の四ツ谷と余津谷は、『下総国輿地全図』ではそれぞれ「下四ツ谷村」「中四谷村」となっている。また、後者 (余津谷) については、『迅速測図原図』でも「中余津谷村」とある。これは、成田市 四谷と栄町 四ツ谷のどちらかに対応する呼称なのかもしれない。
なお、その稲敷市の四ツ谷と余津谷は、いわゆる「平成の大合併」以前は旧・東町に所在し、当然ながら『東町史』では両者を明確・詳細に区別している。しかし、いわば地元の東町にとっても相当に紛らわしいようで、余津谷 (高岡藩領) についての文脈で『藤堂氏旧封邑之碑』(津藩) を参照する混乱が存在する。また、これにより『東町 史料編 近世1』(1995) では碑文の内容を疑問視し、さらに『同 通史編』(2003) では否定している。
また、『同 東町史 民俗編』(1997) では、余津谷について「江戸時代に四ツ谷の新田として開発され、飛地なので明治初期に余津谷と名づけられた」とされているが、すでに寛文4年(1664) の『井上政清領知朱印状』に「余津屋村」と記されていることからいえばおかしい。四ツ谷による新田という点も、少なくとも現存する史料からわかる成立時期とは矛盾する。
注釈
五箇村新田
五箇村新田とは、十余島村の一部であり、名称のとおり 5つの村により開発された。その内訳は以下の表に示すとおりである。

上記のとおり、「五箇村」とは結佐・六角・下須田・阿波崎・上須田の 5村である。根拠についても表に含めたが、概観すれば、『旧高旧領取調帳』において五箇村新田は 6つに分けて記載され、「代官支配所」が ①82.887石・②41.808石・③105.344石・④116.228石の 4つで合計は 345.867石、ほかに「酒井備中守」の ⑤87.958石と「城和泉守」の ⑥15.041石の合計 102.999石がある。このうち①は、『旧高旧領取調帳』における結佐村の石高 (村高) が 417.822石であるのに対し、明治4年(1871) の『葛飾県管内組合高帳』(組合高帳)※1では 500.709石であることから説明できる。つまり、この差分は 82.887石であり、組合高帳では本村・五箇村新田の区別なく 500.709石が結佐村の村高とされる一方、『旧高旧領取調帳』では分けて記載されていることがわかる。②についても同様で、六角村の村高は『旧高旧領取調帳』では 163.467石、組合高帳では 204.875石であり、この差分 41.808石が五箇村新田分である。
③と④は、それぞれ組合高帳の「下須田出作」105.344石と「阿波崎出作」116.228石に合致する。①・②と扱いが異なるのは、本村の下須田村と阿波崎村が常陸国 河内郡であるため、別に計上する必要があったからだろう (五箇村新田は下総国 香取郡)。また、明治初期に「阿波崎新田」と「下須田新田」の 2つの新田村が新たに成立し※2、やはり本村とは別の地籍として扱われている。ただし、法律第4号 (千葉県茨城県境界変更法律) の条文上は、あくまでも「五箇村新田」としてまとめて扱われている。
⑤と⑥は、上須田村の村高が『天保下総国郷帳』と『旧高旧領取調帳』で異なることから判断できる。上須田村は前者では 1065.26899石だが、後者では 962.2723石 (酒井備中守 817.27280石・城和泉守 144.9995石) であり、その差分は⑤と⑥の合計に一致する 102.999石である。つまり、『天保下総国郷帳』の上須田村には五箇村新田分も含められている一方、『旧高旧領取調帳』では分けられていることになる。なお、『天保下総国郷帳』の五箇村新田は 345.867石であり、①~④分だけが計上されている。
注釈
旧中洲
ここでいう「旧中洲」とは、余津谷のほか、小松・神崎神宿・神崎本宿の飛び地が存在した利根川の旧中洲のことである (北の流路が閉塞し、茨城県側と一体化)。以下に国絵図 (『元禄下総国絵図』・『天保下総国絵図』) ・『下総国輿地全図』・『利根川図志』における描写 (左) と迅速測図原図からわかる景観 (右) を示す。
『迅速測図原図』によれば、旧中洲の堤内地は、別の堤によって東西に区切られていた。そのうち西の区画には集落が存在するが、東の区画には確認できない。一方、区画が整然としているのは、その東の区画である。また、「中余津谷村」(『天保下総国絵図』では香取郡 四谷村、現在の余津谷) の記載があるのは西の区画であり、東の区画には何も記載されていない。以上のような景観、および下流に向かって成長する中洲の性質からいえば、西は古くに開発・固定化された余津谷の主要部分であり、東の区画はその拡張部分に小松・神崎神宿・神崎本宿の飛び地が入り交じったものと考えるのが自然だろう。なお、神崎神宿・神崎本宿の新田は『利根川図志』では「箱新田」となっており、明治期の史料にも神崎神宿の小字として「箱新田」を確認できる※1。
前述のとおり、明治32年(1899) にこの旧中洲は千葉県 (下総国) から茨城県 (常陸国) へ編入された。しかし、明治後期から昭和初期にかけての利根川改修では、西の区画の南半分と東の区画のほぼ全体が、直線化された新流路となって消滅した。また、残った堤外地は千葉県と陸続きとなり、新たな飛び地になってしまった。

この飛地が解消するのは、昭和41年(1966) の県境変更のときであり、茨城県 東村 (のちの東町、現在の稲敷市の南東部) の小松・神崎本宿・神崎神宿のそれぞれ一部が千葉県 神崎町に編入され※2、これらの土地はもとの枠組みに戻ることになった。なお、国界の変更が明示されるのは、明治35年(1902) 3月10日付の法律第14号 (「雲原村: 丹後・丹波国界 (国境) の変動」を参照) が最後であり、昭和41年(1966) の県境変更では法令上、当然ながら国界への言及はない。したがって、東村から神崎町へ編入された部分は、再び千葉県に戻ることにはなったものの、あくまでも常陸国のままである。
注釈
国絵図における表現
近世 常陸国 河内郡の東部 (近代の稲敷郡) と下総国 香取郡の利根川下流域では、かつての内海が江戸期に開発され、多くの新田が生まれた。以下に『元禄常陸国絵図』と『天保常陸国絵図』を示す。
『元禄常陸国絵図』では、大浦以東の新利根川南岸に描かれているのは腋川村と中島村だけである。新利根川も曖昧に描かれ、一帯がまだ低湿地だった様子を読み取ることができる。一方、『天保常陸国絵図』ではその景観は一変し、絵図にも大量の新田が描き加えられている。
その新田のほとんどは、「○○村之内○○村新田」という名称であり、村のオブジェクト (小判形) には石高が記載されていない。また、これらの新田は郷帳には記載されず、石高は本村である「○○村」に含めて把握されていた。つまり、多くの新田が生まれたのは事実だが、それらは基本的に各村の拡張部分であり、集落もほとんどともなわないものだった。近代以後、独立した村・大字として存在したものも一部に限られる。なお、天保国絵図・郷帳において、新田がこのように描写されること自体は、特に珍しいものではないが、本地域のように画一的に並べられた景観は特異であり、目を引くものがある。
また、国界付近に注目すると、『元禄常陸国絵図』と『元禄下総国絵図』ではその描写が整合しているのに対し、『天保常陸国絵図』と『天保下総国絵図』では、前述の大量の新田が描き入れられたことにより、境界の形状が一致しなくなっている。
なお、「○○村之内○○村新田」には「阿波崎之内阿波崎村新田」と「下須田村之内下須田村新田」も含まれるが、これらは五箇村新田を構成する阿波崎村と下須田村の部分 (組合高帳の『阿波崎出作』および『下須田出作』、のちの『阿波崎新田』『下須田新田』) とは別の新田である。五箇村新田は元禄国絵図の時点ですでに描かれているが、「阿波崎之内阿波崎村新田」と「下須田村之内下須田村新田」が描かれるのは天保国絵図からである。また、新利根川の南北で位置も異なっている (五箇村新田は南、両新田は北)。
その他の変更
明治32年(1899) 2月7日付の法律第4号 (千葉県茨城県境界変更法律、官報 2月8日)では、ほかにも利根川の南北に生じていた飛び地が解消された。ただしそれらは、同じ下総国の中で県の管轄が千葉県と茨城県の間で移管されたに過ぎない。
千葉県 東葛飾郡 二川村 新田戸・桐ケ作の利根川以北 (茨城県へ)
条文Ⓓに基づき、新田戸・桐ケ作の 2地区が分割され、利根川以北が茨城県の管轄となった。移管先で新たに大字が起立されたため、現在も千葉県 野田市と茨城県 境町の両方に新田戸と桐ケ作が存在する。
千葉県 東葛飾郡 二川村 古布内・木間ケ瀬の利根川以北 (茨城県へ)
条文Ⓔに基づき、古布内・木間ケ瀬の 2地区が分割され、利根川以北が茨城県の管轄となった。やはり新たに大字が起立されたため、現在も千葉県 野田市と茨城県 坂東市の両方に古布内と木間ケ瀬が存在する。
千葉県 東葛飾郡 我孫子町の青山の利根川以北 (茨城県へ)
条文Ⓕに基づき、我孫子町 青山の一部が取手町へ編入された。ただし、このとき編入された部分の現状については情報を得られず、不明である。狭小な堤外地だったと考えられ、仮に地籍が残っていたとしても、実質的には河川敷となってすでに地名は消滅しているものと推定される。なお、『取手市史 近世史料編3』(1989)所収の諸史料や『同 通史編2』(1992)によれば、近世 下総国 相馬郡の大鹿村・取手村・青山村の間で堤外地の中洲などが入会地となっていた。
千葉県 東葛飾郡 布佐町の布佐の利根川以北 (茨城県へ)
条文Ⓖに基づき、布佐町 布佐の一部が布川町へ編入された。布佐町は現在の我孫子市の一部、布川町は利根町の一部である。この編入部分についても現状は不明だが、同様に狭小な堤外地だったと考えられる。
茨城県 猿島郡 中川村の長谷・小山・莚打の利根川以南 (千葉県へ)
条文Ⓗに基づき、長谷・小山・莚打の 3地区が分割され、利根川以南が千葉県の管轄となった。この 3地区については、Ⓓ・Ⓔと同様に新たに大字が起立されたため、現在も千葉県 野田市と茨城県 坂東市の両方にこれらの地名が存在する。ただし、長谷については狭小かつ現状はほとんどが河川敷であるため、行政文書で地名を確認できる程度である。
茨城県 北相馬郡 稲戸井村 稲・同 取手町 取手の利根川以南 (千葉県へ)
条文Ⓘに基づき、稲戸井村 稲と取手町 取手の一部が我孫子町へ編入された。稲戸井村は取手町とともに現在の取手市の一部である。この編入部分については、Ⓕ・Ⓖと同様に現状不明であり、仮に地籍が残っていたとしても、実質的にはすでに河川敷となって地名は消滅しているものと推定される。
データシート
注釈
更新履歴
内容
:
- 改訂の上で全体を『近世国絵図総覧』のコンテンツに移行した。
:
- 『国絵図と国界』の一部として、全面改訂・再構成した。
:
- 同、新規作成。



















