オンラインで参照できる日向国絵図 (日向国の国絵図) のリストと詳細情報を提供しているページです。
↓一覧へ移動日向国 (日州) は西海道に属する国である。国立公文書館所蔵の『天保日向国絵図』は紅葉山文庫旧蔵・勘定所旧蔵の両方が現存し、勘定所旧蔵 (#764195) がオンライン公開されている。

『日本六十余州国々切絵図 (余州図)』は、秋田県公文書館に 68国のすべてが現存し、秋田県公文書館デジタルアーカイブで公開されている。『日本六十余州国々切絵図』の通称も同館のものによる。『余州図』についての一般論は『6. 寛永国絵図・日本六十余州国々切絵図』を参照。
秋田県公文書館デジタルアーカイブでは『日本六十余州国々切絵図 大隅国』が公開され、東西 71cm × 南北 109cm、ほかに『大隅国[西海道図]』 が京都大学貴重資料デジタルアーカイブで公開され、大きさは東西 76cm × 南北 106cm、『〔大隅国絵図〕』(#T1-84) が岡山大学 絵図公開データベースシステム で公開され、東西 77.6cm × 南北 108.8cm である。

本図の大きさは東西 119cm × 南北144cmで※1で、『筑後筑前豊後豊前四ケ国之図』とともに複数国を合成した国絵図である。肥後・日向の2国が含まれる。解説によれば「肥後国に領地をもった戸田忠治の名前があることから」寛文4~11年(1664~1671) ごろと推定されている。形式は独自だが、国境記載がなく村を示すオブジェクトも異なることを除いて寛永~正保国絵図の形式を引き継いでいる。
| ^ ※1: | 数値が東西・南北のどちらかは本稿で判断した。 |
『正保日向国絵図』は東京大学史料編纂所所蔵の島津家文書の中に現存し、オンライン公開されている。

大きさは東西 450cm × 南北 725cm で、余白部分 (畾紙) に記載された目録上段には「日向国 五郡 (日向國 五郡)」の表題に続いて郡名・郡高および色見本 (凡例) の一覧と国高 (総計) が記載され、また下段には支配関係として知行別石高の一覧とそれぞれの「いろは」記号が記載されている。内容は以下のとおりである。
| 郡 | 石高 | ||
|---|---|---|---|
| 諸県之郡 | 126,763.416石 | ※1 | |
| 那珂之郡 | 74,365.017石 | ※2 | |
| 宮﨑之郡 | 28,800.385石 | ※3 | |
| 児湯之郡 | 35,102.538石 | ※4 | |
| 臼杵之郡 | 25,149.617石 | ※5 | |
| 総計 | 290,180.973石 | ※6 | |
| 知行 | 石高 | ||
| い | 松平薩摩守 | 12,024.580石 | ※7 |
| ろ | 伊藤大和守※8 | 57,086.400石 | ※9 |
| は | 嶋津萬壽※10 | 30,070.000石 | ※11 |
| に | 秋月長門守※12 | 30,000.000石 | ※13 |
| ほ | 有馬左衛門佐※14 | 53,000石 | ※15 |
各藩の藩主在任時期を見ると、薩摩藩・松平薩摩守 (第2代・島津光久) は寛永15年(1638)~貞享4年(1687)、飫肥藩・伊藤大和守 (第3代・伊東祐久) は寛永13年(1636) ~明暦3年(1657)、佐土原藩・島津万寿 (嶋津萬壽、第4代・忠高※16) は寛文4年(1664) ~延宝4年(1676)、高鍋藩の秋月長門守 (第2代・種春) は慶長19年(1614)~万治2年(1659)、延岡藩・有馬康純は寛永19年(1642)~延宝7年(1679) で、官位ではなく別名で記載されている佐土原藩・島津忠高だけ時期が合わない。延岡藩の内訳として記載されている 3,000石が幕府直轄領であることから正保元年(1644) 以後※17、高鍋が「財部」とあることから寛文9年(1669)~延宝元年(1673) 以前※18の景観を描いていることは確かといえる。ほかに延岡もまだ「県 (縣)」とある※19。
本図では、臼杵郡のうち「椎葉山」84村のオブジェクトは、ほかの各村が通常の小判形であるのに対して短冊形で区別されている。これは凡例にも示されている明確な区別であって、たとえば作成途中で様式が不統一なためというわけでもない。なおその凡例で「椎葉山」は国高 (総計) の外に置かれている。
「椎葉山」一帯は、どれも日向灘へ注ぐ耳川・一ツ瀬川・小丸川源流域の山深い地域で、はじめ在地勢力による直接支配が行われていた。しかし元和5年(1619) 内部の対立から争いに発展し (椎葉山騒動)、鎮圧後は大部分の 84村が幕府直轄地となって、特殊な位置づけに置かれるようになった。その総称が「椎葉山」で、明暦2年(1656) 以前は阿蘇宮 (現在の阿蘇神社) の預かり、以後は人吉藩の預かりとなって管理された。事情は異なるが、地域性と経過、その後の扱いは「白山麓 18か村」と似通ったところがあって興味深い。
| ^ ※1: | 「高拾二萬六千七百六拾三石四斗一升六合」。 |
| ^ ※2: | 「高七萬四千三百六拾五石壱升七合」。 |
| ^ ※3: | 「高貳萬八千八百斛三斗八升五合」。 |
| ^ ※4: | 「高三萬五千百貳石五斗三升八合」。 |
| ^ ※5: | 「高二萬五千百四拾九斛六斗一升七合」。 |
| ^ ※6: | 「都合髙廿九萬百八拾石九斗七升三合」。 |
| ^ ※7: | 「高拾二萬廿四斛五斗八升」。 |
| ^ ※8: | 飫肥藩。 |
| ^ ※9: | 「高五萬七千八拾六石四升」。 |
| ^ ※10: | 佐土原藩。 |
| ^ ※11: | 「高三萬七拾石」。 |
| ^ ※12: | 高鍋藩。 |
| ^ ※13: | 「高三萬斛」。 |
| ^ ※14: | 延岡藩。 |
| ^ ※15: | 「高五萬三千斛」。内訳として「内 三千斛 蔵入地」と記載され、3,000石は幕府直轄領。 |
| ^ ※16: | 史料によって揺れがあるが、ここでは『宮崎県史 通史編 近世 下』(2000) による。 |
| ^ ※17: | 有馬純政領 3,000石 (康純が藩主となったときに分与) は、正保元年(1644) に幕府へ返上され、直轄領となった。 |
| ^ ※18: | 「高鍋」の呼称は、天正15年(1587) 7月3日付の豊臣秀吉朱印状にもあらわれるが、正式には延宝元年(1673) とされ、『高鍋町史』(1987)はこれに検討を加えて寛文9年(1669) とする。 |
| ^ ※19: | 「延岡」の史料上の初出は『城山の鐘』の梵鐘銘に「日州延岡城主有馬左衛門佐従五位藤原朝臣康純」とあるもので、「明暦二年丙申六月吉日」の日付がある。したがって明暦2年(1656) までに「延岡」に改称された可能性が高いが、「高鍋」の例からいうと、この「延岡」が公称か通称かを慎重に判断する必要がある。なお『元禄日向国絵図』では「延岡」。 |
元禄国絵図は国立公文書館に多く現存し、この中に『元禄日向国絵図』が含まれる。

国立公文書館の元禄国絵図は正本と写本が混在するが、本図は正本のひとつである。正本にはほかに下総・常陸・薩摩・大隅の 4国がある (令制国 68国ではないものを除く)。
本図の大きさは東西 423cm × 南北 726cm で、元禄15年(1702) 8月の日付 (『元禄十五壬午年八月』) と松平薩摩守の名前が記されている。『正保日向国絵図』では短冊形で表現されていた「椎葉山」84村は、本図では通常の小判形で表現されている。しかし村高が設定されず、村名だけの記載であることから容易に区別できる。
冒頭で言及のとおり、『天保日向国絵図』は国立公文書館に勘定所旧蔵 (#764027) が現存・オンライン公開されている。
紅葉山文庫※1は江戸城内にあった書庫、勘定所は勘定奉行を長とする役所であり、したがって紅葉山文庫旧蔵は保存と限定的な参照目的のために納められたもの、勘定所旧蔵は実務に供されたものとなるが、紅葉山旧蔵も必要に応じて借用・参照されたようである※2。
『天保日向国絵図』は東西 419cm × 南北 709cm、目録の奥書部分には、全国一律に天保9年(1838) の日付 (『天保9年戊戌五月』) と明楽飛騨守・田口五郎左衛門・大沢主馬の名前が記されている。
『元禄日向国絵図』では石高が設定されず、村名だけの記載だった「椎葉山」84村は、本図では数石単位、場合によっては斗以下とわずかながら村高が設定され、基本的にはほかと変わらなくなった。ただし各村とも「椎葉山」を冠称しているので、やはり区別は容易である。天保国絵図一般については『9. 天保国絵図』を参照のこと。
| ^ ※1: | 「紅葉山文庫」はほかの各種用語と同様、近代以降の俗称・学術用語。近世は主に「御文庫」と呼ばれ、「官庫」とも呼ばれた。 |
| ^ ※2: | 『紅葉山文庫』(1980)。 |
→ 『凡例』
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