オンラインで参照できる出雲国絵図 (出雲国の国絵図) のリストと詳細情報を提供しているページです。
↓一覧へ移動出雲国 (雲州) は山陰道に属する国である。国立公文書館所蔵の『天保出雲国絵図』は紅葉山文庫旧蔵・勘定所旧蔵の両方が現存し、紅葉山文庫旧蔵 (#764219) がオンライン公開されている。

島根県関係の国絵図 (石見・出雲・隠岐 3国) は『島根の国絵図』(1994) に集成されている。書誌情報によれば『石見国図』(毛利氏領国時代の石見国図)・『寛永隠岐国絵図』が興味深い (後者が本来の『寛永国絵図』なのか『余州図』なのかは不明)。
『寛永出雲国絵図』は島根大学附属図書館デジタルアーカイブで『出雲國古圖』(#4163)として、島根県立図書館しまねデジタル百科で『出雲国十二郡図』として、それぞれオンライン公開されている。両者は印象が異なるものの、内容は変わらない。


本図の大きさはそれぞれ東西 109.0cm × 南北 93.1cm、東西 109cm × 南北 78cm で、絵図内には寛永13年(1636) の日付 (『寛永拾三年子ノ二月六日』) があり、石高は『国々高寄』(寛永元年) と『村高比較表』の正保の間である。内題は「出雲国十二郡 (出雲國十二郡)」で、宍道湖が「風郡」、中海が「天満郡 (天滿郡)」として把握されている。この風郡・天満郡内には村を示すオブジェクト (小判形) は存在しないので、周辺各郡各村で共有される領域を独立して把握する目的だったのではないかと推定される。
様式についてまとめると以下のようになる。
| 城下 | 松江城が具体的に描写されている。大きさは本図に多い寺社と変わらない。 | |
| 古城 | 見当たらない。 | |
| 村 | オブジェクトは不定形の円 (真円・楕円)、沿岸では変形、郡別の彩色。村名はその中に記載、接尾辞なし・漢字仮名交じり表記。村高の記載はないが、原本が下図 (下絵図) または控図によるためか、写本における省略と考えられる。 | |
| 宿駅 | 区別は見られない。 | |
| 郡 | 見出し | 短冊形・やや太枠・彩色なし (地色)。郡名だけ記載されている。 |
| 境界 (郡界) | 墨線。 | |
| 街道 | 朱線、一里塚なし、道程記載は一部それらしいものがあるが、峠・坂の名称か。明確なものは余白部分 (畾紙) にまとめられている (松江から四方等)。本道・脇道で線幅の違いはなく、一里塚もないため区別はできない。 | |
| 航路 | なし。 | |
| 国界 (国境) | 国境 記載 | 山側は「伯耆ノ内米子」の形式。海側はない。 |
| 隣国 色分け | なし。 | |
| 方角記載 | あり。 | |
| 川幅記載 | なし。 | |
| 目録 | 見出し「出雲国十二郡 (出雲國十二郡)」または「~図 (~圖)」、郡の一覧 (凡例)、郡堺・道・川・村 (『在所』)・山・海の凡例、総計 (国高)、奥書 (日付・人名)。 | |
| その他 | 土地柄か寺社が多く、1箇所あたりの建物 (堂) も多い。前述のように宍道湖が「風郡」、中海が「天満郡 (天滿郡)」として把握されている。 | |
なお、『出雲國古圖』(#2315) は『出雲國古圖』(#4163) と同一史料 (#2100797) である。
『日本六十余州国々切絵図 (余州図)』は、秋田県公文書館に 68国のすべてが現存し、秋田県公文書館デジタルアーカイブで公開されている。『日本六十余州国々切絵図』の通称も同館のものによる。『余州図』についての一般論は『6. 寛永国絵図・日本六十余州国々切絵図』を参照。

上に示したのは『日本六十余州国々切絵図 出雲国』で、大きさは東西 145cm × 南北 107cm である。京都大学貴重資料デジタルアーカイブでは『出雲国[山陰道図]』が公開され、大きさは東西 165.3cm × 117.3cm、またほかに岡山大学 絵図公開データベースシステムでは『〔出雲国絵図〕』(#T1-105)が公開され、大きさは東西 164cm × 南北 120cmである。
出雲国の場合、さらに島根大学にも現存し、島根大学附属図書館デジタルアーカイブでは『[寛永出雲国絵図]』(#4162)が公開されている。
![Fig.957 日本六十余州国々切絵図 出雲国 (『[寛永出雲国絵図]』・島根大学附属図書館デジタルアーカイブ公開)](../../images/fig957knz.jpg)
本図の大きさは東西 134.0cm × 南北 97cm で、『[寛永出雲国絵図]』 (#2259) は『[寛永出雲国絵図]』(#4162) と同一史料 (資料番号: 1429870) である。
国立公文書館所蔵、中川忠英旧蔵の国絵図群 (通称『日本分国図』) には出雲国・隠岐国のものが含まれ、現存・オンライン公開されている (#714239)。

中川忠英旧蔵の国絵図は多くの場合、複数に分割されているが、コンパクトに収まるためか本図は 1枚のまま完全な状態を保っている。大きさは東西 283cm × 南北 363cm で、本図の出雲国高は、寛永15年(1638) 松平直政が松江に入ったときに引き継いだ『出雲国御成稼帳』に記載されていた国高と一致する。本図の国郡高以下のとおりである。
| 国 | 郡 | 本図 | 松平乗命旧蔵※1 | ||
|---|---|---|---|---|---|
| 出雲国 | |||||
| 出雲国 | 島根郡 | 22,695.9666石 | ※2 | 22,695.9666石 | |
| 秋鹿郡 | 11,711.8170石 | ※3 | 11,711.8170石 | ||
| 楯縫郡 | 12,510.7610石 | ※4 | 12,510.7610石 | ||
| 出東郡 | 18,188.8550石 | ※5 | 18,188.8550石 | ||
| 神門郡 | 46,220.1270石 | ※6 | 46,220.1270石 | ||
| 飯石郡 | 26,756.0040石 | ※7 | 26,756.0040石 | ||
| 仁田郡 | 16,471.0630石 | ※8 | 16,471.0630石 | ||
| 大原郡 | 30,314.8350石 | ※9 | 30,314.8350石 | ||
| 能儀郡 | 39,112.3490石 | ※10 | 39,120.349石 | ||
| 意宇郡 | 29,615.8700石 | ※11 | 29,615.8700石 | ||
| 総計 | 253,597.6530石 | ※12 | 253,597.6530石 | ||
| 隠岐国 | |||||
| 隠岐国 | 周吉郡 | 3,461.7310石 | ※13 | 3,461.7310石 | |
| 越智郡 | 2,636.6380石 | ※14 | 2,636.6380石 | ||
| 知波里郡 ※15 | 3,129.3630石 | ※16 | 3,129.8630石 | ||
| 海士郡 | 2,373.6610石 | ※17 | 2,273.6610石 | ||
| 総計 | 11,601.3930石 | ※18 | 11,601.3930石 | ||
本図は国高から寛永国絵図か正保国絵図のどちらかといえ、『寛永出雲国絵図』の存在から本図は正保国絵図といえる。ただし、『若狭敦賀之絵図』と同様、(『正保出雲国絵図』でも『正保隠岐国絵図』でもなく)『松江藩領絵図』または『正保出雲・隠岐国絵図』である。
様式は正保国絵図に標準的なもの、かつ中川忠英旧蔵に共通のもので、街道に沿った道程記載・国境記載に過不足はないように見え、その街道および郡界の色や郡内の郡名・郡高の記載も標準的である。
興味深いのは古城で、本図では『余州図』や寛永国絵図の方形のような明確なオブジェクトではないものの、共通の台状山 (テーブルマウンテン) で表現され、その台の部分に「古城」と記載されている。つまり正保国絵図以降では基本的に名所・旧跡と同様の扱いであり、背景の自然描写の一部となる古城が、本図では中間的な表現で描かれ、ある意味、過渡期の描写になっている。
この意味では本図は『若狭敦賀之絵図』と同様、寛永国絵図の可能性も残る。国単位で描かれていないという点でも本図は『若狭敦賀之絵図』と同じ性質があり、またどちらも京極氏が関係している。本図が寛永国絵図 (『寛永出雲国・隠岐国絵図』) である場合、前項の『寛永出雲国絵図』は寛永10~12年(1633~1635) の時期 (第1次) に京極氏以前が作成し、本図は寛永11年(1634) 小浜藩から松江藩に加増・転封となった京極氏が『若狭敦賀之絵図』と同じ様式で作成し、寛永15年(1638) 前後と考えられる時期 (第2次) に再提出されたもの※19、と説明できる。また『若狭敦賀之絵図』にあった城下の絵画的な拡大描写が本図にないのも、再提出時の仕様では不可とされたから、とすれば矛盾はない。
もっとも本図は正保国絵図の様式から外れる部分がなく、忠実であることから、その可能性を指摘できるというだけである。また内容は確認できないが、後述の松平乗命旧蔵でも両国図となっており、かつ国郡高は整合する。
なお、本図の出雲・隠岐 2国の距離はかなり圧縮され、また隠岐の島前 (西ノ島・中ノ島・知夫里島ほか) と島後は横倒しになっており、方角も無視されている。もっとも『天保隠岐国絵図』の島前・島後の方角も正確ではなく、同図では反対に南北方向に寄せられている (実際には南西・北東の関係に近く、どちらでもない)。島後の形状は両者ともおかしい。
| ^ ※1: | 後述。 |
| ^ ※2: | 「髙貳萬貳千六百九拾五石九斗六舛六合六夕」。 |
| ^ ※3: | 「髙壱万千七百拾壱石八計壱舛七合」。 |
| ^ ※4: | 「髙壱萬貳千五百拾石七斗六舛壱合」。 |
| ^ ※5: | 「髙壱万八千百八拾八石八計五舛五合」。 |
| ^ ※6: | 「髙四万六千貳百弐拾石壱斗弐舛七合」。 |
| ^ ※7: | 「髙弐万六千七百五拾六石四合」。 |
| ^ ※8: | 「髙壱万六千四百七拾壱石六舛三合」。 |
| ^ ※9: | 「髙三万三百拾四石八計三舛五合」。 |
| ^ ※10: | 「髙貳三万九千百拾弐石三斗四舛九合」。 |
| ^ ※11: | 「髙弐万九千六百拾五石八計七舛」。 |
| ^ ※12: | 「都合髙貳拾五万三千五百九拾七石六計五舛三合」。 |
| ^ ※13: | 「高三千四百六拾壱石七斗三舛壱合」。 |
| ^ ※14: | 「高貳千六百三拾六石六斗三舛八合」。 |
| ^ ※15: | 「知夫」「知夫里」を基本として「ちぶり」と読み、「知」「夫」「里」はそれぞれ「智」「布」「利」の場合がある。しかしこの「知波里」はほかに見当たらず、単純な誤記と思われる。なお現在「知夫里島」にある「知夫村」の読みは「ちぶ」。 |
| ^ ※16: | 「高三千百弐拾九石三斗六舛三合」。 |
| ^ ※17: | 「髙弐千三百七拾三石六斗六舛壱合」。 |
| ^ ※18: | 「都合髙壱万千六百壱石三計九舛三合」。 |
| ^ ※19: | もしくはそれが継承され、再提出されたもの。京極氏は寛永14年(1637) に断絶した。なお再提出については断片的な記録が残るだけで、厳密な時期や全国的だったかどうかはわかっていない。 |
国立公文書館所蔵、松平乗命旧蔵の国絵図群 (通称『日本分国絵図』) には出雲国・隠岐国のものが含まれ、現存する (#724963)。オンラインでは公開されていない。
この松平乗命旧蔵の国絵図群には、松平乗命から明治政府へ渡る前後 (明治5~6年(1872~1873))に、京都府が一式を借用して忠実に模写したものも存在し、京都府立京都学・歴彩館に現存、館古044: 国絵図という一群で管理されている。その『隠岐・出雲国絵図』もオンラインでは公開されていないが、目録は国立公文書館デジタルアーカイブよりも充実し、国郡高が記載されている。
写本の大きさは東西 296.0cm × 南北 315.5cmで、(松平乗命旧蔵としての) 原本も同等と考えられる。国郡高は中川忠英旧蔵にまとめたとおりで、完全には一致しないものの、誤写といえる差異といえるだろう。
中川忠英旧蔵・松平乗命旧蔵とも、写本のもとになった原本がどのような性質であったかは明らかでないが、その集成の数から国許の控図や下図 (下絵図) を個別に写したとは考えにくい。出雲国と隠岐国の正保国絵図についても、中川忠英旧蔵・松平乗命旧蔵の両方で 2国を合わせたものになっていることから、『正保出雲・隠岐国絵図』として提出され、官庫に収納されたものと理解される。
『元禄出雲国絵図』は 2枚が現存し、どちらも島根大学附属図書館デジタルアーカイブでオンライン公開されている。
1枚は島根大学所蔵の『元禄出雲国絵図』である。

『川村a』によれば、『元禄出雲国絵図』の正本は東西 1丈2尺3寸 × 南北 1丈1尺9寸とあるので、およそ東西 372cm × 南北336cmである。これに対して本図は東西 182cm × 南北182cmで、正本の 1/2の大きさといえる。余白部分 (畾紙) に目録があり、奥書相当の部分に宝暦7年(1757) の日付 (『寶暦七庚寅年六月』) と松平庄五郎の名前が記されている。
もう 1枚は個人 (野津家) 所蔵の『元禄出雲国絵図』である。

本図も大きさ東西 180cm × 南北180cmで正本の 1/2に縮小した写本といえる。島根大学所蔵と同様に目録があるが、本図の場合、奥書相当の部分の日付・名前は抹消されている。日付はわからないが、名前は松江城でも抹消されている部分と合わせて考えると、島根大学所蔵と同じ松平庄五郎のようである。
両者の内容はほとんど変わらず、背景となる自然描写も含めて精緻に写されている。しかしより繊細なのは野津家所蔵で、これは『正保出雲・隠岐国絵図』を継承して岩山で表現された古城跡や、西部の三瓶山付近に多い樹林帯を見比べるとわかりやすい。また寺社については場所によっては島根大学所蔵のほうが描き込まれ重厚に映るものの、同じオブジェクトの流用が多く、それぞれを忠実に描写していると考えられるのはやはり野津家所蔵のほうである。青の発色も強い。
一方、村のオブジェクトの向きに注目すると、出雲郡の「武部村」や意宇郡の「白石村ノ内 金山」(村高は白石村とまとめて把握され、対応する『元禄出雲国郷帳』には含まれないはずの金山村) の向きは両者で異なるが、『天保出雲国絵図』と一致するのはどちらも島根大学所蔵である。
以上から『元禄出雲国絵図』の正本に忠実なのは野津家所蔵といえ、一方これを写した島根大学所蔵が『天保出雲国絵図』に反映されたと推定される。なお『新しく収蔵された二つの出雲国絵図』※1では、これら (の原本) を「拡大清書して幕府に提出されたと考えられる」としているが、ほかに例がなく、また単純な拡大であっても変換が必要な清書は考えづらい。
なお、同稿によれば『元禄出雲国絵図』の写本はほかにも存在するという。縮図が作成されたことや、それに宝暦7年(1757) の日付と松平庄五郎 (宣維、第5代) の名前が書き入れられたか、または書き換えられた経緯については不明瞭な点が多く、それら写本が高精細にオンライン参照可能になって詳細な検討ができるようになることを期待する。
| ^ ※1: | 『島根大学附属図書館報 淞雲 第10号』(2009) 所収、著者は『「寛永出雲国絵図」のこと』と同じ。 |
冒頭で言及のとおり、『天保出雲国絵図』は国立公文書館に紅葉山文庫旧蔵・勘定所旧蔵の両方が現存し、紅葉山文庫旧蔵 (#764219) がオンライン公開されている。
紅葉山文庫※1は江戸城内にあった書庫、勘定所は勘定奉行を長とする役所であり、したがって紅葉山文庫旧蔵は保存と限定的な参照目的のために納められたもの、勘定所旧蔵は実務に供されたものとなるが、紅葉山旧蔵も必要に応じて借用・参照されたようである※2。
『天保出雲国絵図』は東西 354cm × 南北 350cm、目録の奥書部分には、全国一律に天保9年(1838) の日付 (『天保9年戊戌五月』) と明楽飛騨守・田口五郎左衛門・大沢主馬の名前が記されている。天保国絵図一般については『9. 天保国絵図』を参照のこと。
| ^ ※1: | 「紅葉山文庫」はほかの各種用語と同様、近代以降の俗称・学術用語。近世は主に「御文庫」と呼ばれ、「官庫」とも呼ばれた。 |
| ^ ※2: | 『紅葉山文庫』(1980)。 |
→ 『凡例』
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