オンラインで参照できる隠岐国絵図 (隠岐国の国絵図) のリストと詳細情報を提供しているページです。
↓一覧へ移動隠岐国 (隠州) は山陰道に属する国である。国立公文書館所蔵の『天保隠岐国絵図』は紅葉山文庫旧蔵 (#764217) が現存・オンライン公開されている。

島根県関係の国絵図 (石見・出雲・隠岐 3国) は『島根の国絵図』(1994) に集成されている。書誌情報によれば『石見国図』(毛利氏領国時代の石見国図)・『寛永隠岐国絵図』が興味深い (後者が本来の『寛永国絵図』なのか『余州図』なのかは不明)。
『日本六十余州国々切絵図 (余州図)』は、秋田県公文書館に 68国のすべてが現存し、秋田県公文書館デジタルアーカイブで公開されている。『日本六十余州国々切絵図』の通称も同館のものによる。『余州図』についての一般論は『6. 寛永国絵図・日本六十余州国々切絵図』を参照。
![Fig.980 日本六十余州国々切絵図 隠岐国 (『隠岐国[山陰道図]』・京都大学附属図書館所蔵・貴重資料デジタルアーカイブ公開)](../../images/fig980knz.jpg)
上に示したのは『隠岐国[山陰道図]』 で、京都大学貴重資料デジタルアーカイブで公開され、大きさは東西 77cm × 南北106cmである。 秋田県公文書館デジタルアーカイブでは『日本六十余州国々切絵図 隠岐国』が公開され、東西68cm × 南北101cm、またほかに『〔隠岐国絵図〕』(T1-77) が岡山大学 絵図公開データベースシステム で公開され、東西 78.5cm × 南北 109.8cm である。

『小野寺』によれば、大きさは東西 93.5cm × 南北114.5cmで、「図形は、寛永10年の余州図系統とほぼ一致している」とあるように、前項の日本六十余州国々切絵図の形状・大きさともにそのままである。『小野寺』では「村数と村高は正保期のそれ」とされ、余州図をベースに「正保期の情報を加えたものと考えられる」と結論づけている。
ただ、「村数と村高は正保期のそれ」であるのかどうかは、『西郷町誌 上巻』(1975) で論じられているように※1隠岐国の江戸前期の石高には混乱があってはっきりしないことから、断定することは難しいように感じられる。また正式に幕府に提出されたものか、あるいは何らかの理由により国許で作成されたものかも明確化すべき課題と思われる。前者であれば『寛永隠岐国絵図』と考えるが自然で、その場合ほかにも同様の国はあったのか、なければなぜ隠岐国だけこの形態になったのか、後者であれば、それがなぜ本図が写されることになったのか、それぞれが問題となる。
| ^ ※1: | cc.292-309、『第3章 近世』『第4節 松平氏預り地次代』。 |
『正保隠岐国絵図』は単体では存在せず、出雲国と合わせてひとつの絵図に描かれている。

上に示したのは中川忠英旧蔵の『正保出雲国・隠岐国絵図』である。ほかに松平乗命旧蔵のものがある。それぞれ中川忠英旧蔵 (正保出雲国・隠岐国絵図)・松平乗命旧蔵 (正保出雲国・隠岐国絵図)を参照のこと。
冒頭で言及のとおり、『天保隠岐国絵図』は国立公文書館に紅葉山文庫旧蔵 (#764217) が現存・オンライン公開されている。
紅葉山文庫※1は江戸城内にあった書庫、勘定所は勘定奉行を長とする役所であり、したがって紅葉山文庫旧蔵は保存と限定的な参照目的のために納められたもの、勘定所旧蔵は実務に供されたものとなるが、紅葉山旧蔵も必要に応じて借用・参照されたようである※2。
『天保隠岐国絵図』は東西 231cm × 南北 255cm、目録の奥書部分には、全国一律に天保9年(1838) の日付 (『天保9年戊戌五月』) と明楽飛騨守・田口五郎左衛門・大沢主馬の名前が記されている。天保国絵図一般については『9. 天保国絵図』を参照のこと。
| ^ ※1: | 「紅葉山文庫」はほかの各種用語と同様、近代以降の俗称・学術用語。近世は主に「御文庫」と呼ばれ、「官庫」とも呼ばれた。 |
| ^ ※2: | 『紅葉山文庫』(1980)。 |
→ 『凡例』
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